五十六:予感

 ――山麓の駅までロープウェイで二十分。そこから東口の連絡通路を渡り、五番乗り場から名生ななし行きの汽車に乗り換え、三十分ほど揺られていれば旧椿通りである。

 包丁ケイから教わった通りの道順を丁寧に辿り、途中停車駅の漢字が読めず立ち往生などしつつも、どうにかして彼は目的の列車へと乗り込んだ。日の入りも近い汽車の中は人気もまばらで、四人がけのボックス席を一人で占領しても文句は言われない。入り口から左折したすぐ傍、窓際の席に身を縮こめて、“廃物”は疲労感も露わに深々と溜息をつく。

 場所から場所への移動とは、こんなにも大変だっただろうか。おぼろげに覚えている記憶を辿ってみても、此処まで苦慮したことはない。己はいつでも、どんな場所であっても、今よりは気苦労も疲労もなく歩いていたはずなのだが。微かな記憶に残るあの気兼ねのなさは、一体全体己の何処から湧いていたものなのだろうか。

 座席に寄りかかり、手袋で傷を覆い隠した両手を組んでは、ぼうっと天井を仰ぎながら考え込む。その壊れかかったテレビの頭を、何やら見覚えのある桐箪笥が上から覗き込んだ。


「や、旅人ヴィアヘロ君。また会ったね」

「……藤棚の、とこの。誰?」

「ゴシチね。酷いなァ、結構な回数会って喋ってるのに。おいらのこと全部忘れちゃったの?」


 網代笠を斜めに被り、江戸紫えどむらさきの長着に墨染めの羽織を打ちかけて、足元は黒い足袋に雪駄。古風な東方の衣装を身に纏う彼――ゴシチは、わざわざ羽織の中に手を隠しなどして、よよよとばかり大袈裟に泣き真似をしてみせた。

 一方の“廃物”は冷めたもので、チカチカと数回液晶に砂嵐を吐き出した後、何も言わずに視線を窓の外へと逸らしてゆく。相手にする気はない、と言いたげな仕草に、ゴシチは困ったように肩を竦めたかと思えば、臆面もなく男の差し向かいの席に腰を下ろした。


「……僕に、用でも?」

「んー、特に重大事ってわけでもないんだけどねぇ。強いて何か言えるとすれば、沈丁花に水をあげておいたから、取りにらっしゃいな」


 そう言えば、あの危うげな少女から貰った花束を彼に取られていたのだった。前後の文脈ことはほとんど忘却してしまったが、そこだけは妙にしっかりと覚えている。恐らくは、人を恨むなどという、およそ穏やかならぬ強い情動と紐付いているせいだろう。お陰で、己のゴシチに対する心象は、お世辞にも良いものだとは言えなかった。

 だが、その取られた花束を彼は世話していてくれたらしい。そこは株を上げるに値する。

 ――などと。余人が知れば呆れそうな上から目線の思考を重ね、しかして賢くうちに秘めて、“廃物”は小さく点頭。けれども全面同意の頷きではなく、訂正の文言が続けて連ねられる。


「今、僕は……家無し、だから。見に来る、だけで」

「いつでもおいで」

「……ありがと」


 寸秒の躊躇もない了承の返事を受けて、ようやく警戒と不信を解き礼を述べる。その言葉端が掠れたのは、単に疲弊した声帯の職務放棄故か、それとも何か違う情動に突き動かされた故か。しかし、他者の心情など関係ないと言いたげに、ゴシチは自若として座席に寄りかかり、視線を窓の外に向けていた。

 使い古されて飴色に変じた桐箪笥、その四隅を飾る桐を象った端嵌はしばめの、象嵌された緑のガラス玉が夕暮れの陽を滑らかに弾く。そこに宿る歳月のかさねは、電信機器テレビである差し向かいの男には手を伸ばして尚得られぬものだ。だが同時に、“廃物”の歩んだあまりにも数奇な生とて、ゴシチには望んでも届かない場所にある。

 しばらく無言の時が続いて、はじめに膠着を破ったのは“廃物”の男だった。


「何で、この列車に?」


 本当は、他者の外出理由などにあまり興味はない。ただ何となく、この飄々とした青年が、藤棚の原から外に出るところが想像出来なかったから。ただそれだけの些末な動機が、大して意味もない問いを紡ぎあげる。

 対するゴシチもまた、問うている物が本気でないことを感じているらしい。或いは彼も差し向かいの男にそれほど興味がないのか。ともあれ、視線を窓の外に放り投げたまま、彼はそぞろに声を返してきた。


「今日は家にいない方が良い気がしてねぇ。おいら還るにしたってまァだ時期違いだもの」

「還る……何故?」

「その何故がどういう何故なのかは分かんないけど、おいら今生でやるこたァ決まってるのさ。不器用でてんで進まないけど、やり遂げたら還る。おいらの存在定義のぞみはそれだけ」


 そう言って、ゴシチは桐箪笥の頭に取り付けられた鉄製の取っ手に二本指を掛け、ぐいと引っ張る。あまり手入れしていないのか、いささか苦労しながらようやく開いた中から、青年の手が取り出すのは編みかけのマフラー。これを完成させるのが所有者おやの夢なのだと、まだ首に巻くには短すぎるそれを膝の上に広げる。

 しかしながら、問題の品は随分と古いものらしい。当時はさぞ鮮やかな紅色であったろう毛糸は日に焼けてすっかり色あせ、製造年代の古さ故か太さもりの強さもてんでばらばら。おまけに編み上がっているマフラーは編み目が不揃いな上に無理やり糸を繋げた箇所が目立ち、お世辞にも綺麗な品だとは言い難い。

 これが編み上がるには相当時間が掛かりそうだし、編み上がる前に毛糸の寿命が尽きてしまいそうでもあるし、何より編み上げても出来の悪さに未練を残しそうである。ゴシチの前途は多難そうだ。

 だが、目にした男が最初に零した感想は、そんな心ない言葉ではなく。


「早く、遂げられたら……いいと、思う」

「――ありがと」


 それきり、会話は途切れ。

 ゴシチは拙い所作で編み物を始め、“廃物”は外を漫然と眺める作業に戻っていった。



「あー……旅人ヴィアヘロ君、起きて。そろそろ着くよ」


 ぽんぽんと軽く肩を叩かれ、十五分ほどの短い眠りから覚める。瞬きのように画面をちかちかと明滅させ、二人がけの席を丸々占領していた身体を起こせば、間髪を容れずペットボトル入りの水が差し出された。

 汽車での移動は何かと時間を要し、一つの駅まで行くのに路線調整を含めて二時間近く掛かることもままである。その為汽車内部は施設が充実し、およそ車内で入用になるものは買えるか補充できるようになっていた。飲料などはその典型で、ゴシチも車内の売店か何かで買ったらしい。

 そうとは知らず、ただ礼だけはきちんと述べて、男は未開封のボトルを受け取る。開けようとするが上手く力が入らない。爪が割れたり剥がれたりしたお陰で、拳が握れないのだ。その上痛みで強く握り締めることも難しい。何とかして掌だけで開けられないかと工夫してみるものの、力技以外を許してくれない予感がする。

 四苦八苦する男の様子に、手を貸せるのは無論一人のみ。


「開かない?」

「手、怪我してる、から」

「あらら……ほんじゃ開けたげるよ」


 貸して、と差し出してくる手にボトルを渡す。受け取った青年が封を切らんと力を込め――滑った。

 あれ、と首を傾げ、着物の袖を滑り止め代わりにもう一回。しかしボトルの蓋は頑強に中の水を明け渡すのを拒み、どれだけ回してもびくともしない。単純に青年が非力なだけでもあるが、それにしても運の悪い硬さである。

 それでも何とか開封しようと試み、回す手を替えながら粘り粘って、遂に、


「駅、着いたよ」

「嘘ん……」


 時間の方が尽きた。

 それでもまだ諦められないのか、ゴシチは汽車を降りつつも頑固な封と格闘を続ける。しかし、整備されたホームを降り、古雅な趣の駅舎に辿り着き、改札を出てもまだ開かない。遂には駅からも離れてしまい、二人はもたもたと白椿しろつばきの花咲く石畳を往く。

 旧椿通り駅から目的地となる名家の邸宅までは、それほど遠くはない。椿並木の広がる整備区画を噴水広場まで進み、そこの四辻の内右手の道に入って、その突き当たりに広がる旧統括区を左へ行けばいい。記憶の混濁しがちな“廃物”でも覚えられる程度の、ごく単純な道のりである。

 未だにペットボトルと格闘を続ける青年の袖を引きながら、噴水広場へ。対称的なデザインの白い噴水の横を通り過ぎて、辻を右折する。旧統括区へ続く街路には写真映えしそうな古式の家々が立ち並び、その間に張り渡された紐にはどうやって干しているのか、洗濯物がずらりと掛かって風に揺れていた。

 御影石みかげいしを敷き詰めた、凸凹の道の真ん中を行く。端にはストールを頭から被ったしわしわの老婆が、日向に机と椅子を出して石投げ占いなどしており、いかにも禍々しき気配が立ち昇っていた。“廃物”には少々近寄りがたい。足早に隣を歩き抜けようとして、石が転がる音に思わず立ち止まる。


「…………」


 天鷺絨ベルベットの黒布を掛けた机の上、広げられた黒い紙の上には、びっしりと金色の文字と図形が踊っている。一見しても何が何なのかさっぱり分からないし、図形が何を意味するかなどいよいよ見当も付かない。けれども、老婆には確かに読み取れているようだ。散らばる様々な石に皺くちゃの指を順番に置いてゆき、絡められたように動かぬ男へと呻く。


「波瀾万丈この上もなし、けれども峠を越えた後は平穏が続きます。熱烈な恋、新しい想い人を得ます。使いすぎ、休みましょう。上り調子です、多く歩きましょう。善かれ悪しかれ多くのものと出会います」


 声の調子と視線からして、十中八九これは己に向けた占いの結果だろう。心当たりはあったりなかったりと言ったところで何とも曖昧だが、それが占いというものである。

 ゆっくりと画面を明滅させ、最後の点灯で砂嵐から白い砂浜の画像へ切り替え。同時に、こてんと横へ首を傾げた。


「どうして、僕を?」

「何故かしらねぇ」


 占いと同じような返事であった。理由はあってもはぐらかされているようだ。これでは問答をしていても埒が明かないと判断し、男は形ばかりの礼を一つ。青年の手を引いて立ち去ろうと一歩を踏み出す。

 老婆はそんな二人をしばし見送るように眺め、己の声が届かなくなるであろう寸前の所で、また一つ呻いた。


「お二人とも。次に入って扉を閉めた家、明日まで出ちゃ駄目よ。貴方が出会う人皆、今夜は大人しくしていなさいな」


 それも卜占の示した未来けっかなのだろうか?

 砂嵐を吐く液晶をそちらに向けなば、老婆は紙の上に転がった石の一つ、黒水晶モリオンの欠片を指で撫で付けていた。


「……?」

「ふ、ふ、ふ……」


 不気味な、占い師である。

 今度はゴシチが男の袖を引いて歩き出す番だった。どうやら、何か得体の知れないものを老婆に感じて怖くなったらしい。ものも言わず早歩きで引っ張ろうとする青年に合わせ、“廃物”も目的地への道を急ぐ。

 だが、何となく。男は老婆が気になって、最後にもう一度だけ後ろを振り返った。


「さよなら、旅の方。よい道行を」


 意図して張り上げたのだろう、先程までの地を這うような呻き声ではなく、何処か可愛らしさのある声が石畳に弾む。その時。

 深みに沈んで掠れていた記憶の断片が、にわかに意識の表層へと顔を出し。


「……まさか!」


 彼女がかつて、己に警告を発したまさにその人であると、思い至る頃には。

 止められなかった足は街路を渡りきり、老婆の姿はもう、緩やかなカーブの奥に消えた後だった。

 今や二人の物の前には、先程通ってきたそれよりも更に古めかしい石畳と家々が街並みを形作り、思わず後退あとじさりたくなるような静謐だけが横たわっている。尻込みするほどの静けさの中で、いつもと変わらぬゴシチの声だけが、いやに朗々と意識を揺さぶった。


「さっきのとこに戻るかい?」

「――いや。早く、行こう」

「ん、そだね。おいらもそれが良いって思ってたとこさァ」


 物の予感とは、即ち積み重ねてきた経験が発する警告である。それは長く時を経れば経るほどに確信を帯びた、ある種の未来予測にも近くなってゆくものだが、人の生きる長さの範疇を出ていない二人には、まだ単なる予感と言うだけに過ぎない。

 しかし、だからと言って軽視も出来ない。いつの日にか予知に変わるものなのだから、物の感ずる空気は大抵当たる。それが穏当らしからぬことを予測するならば尚更であるし、二人とも同じことを思うならば余計に疑う余地などない。

 遂に最後まで開かなかったペットボトルを懐にしまい、ゴシチは先立を男へと譲る。当たり前と言わんばかりに身体を滑り込ませ、そのまま左折。物の背はすぐに旧統括区の奥へと消えていった。



『先刻の“廃物”の方ですね。』

「うん。名前を、探しに」

『案内人より事情は拝聴しております。御屋形様への説明は私の方で済ませてあります故、遠慮なく御寛ぎ下さい。』

「ありがとう。……頼み事を、しても?」

『何なりと。』

「これ、開けられる?」


 ゴシチに門前の取り次ぎを頼み、その先は己の言葉にて。曰くこの家の主人に仕えると言う執事への顔合わせを済ませ、男が真っ先に頼んだのは、ついぞ開封の叶わなかったペットボトルとの格闘であった。別段固執する必要などないのだが、ゴシチから貰った手前、手も付けず秘めておくのは抵抗がある。

 対するカシーレは無言。使用人の淹れた紅茶の上でボトルを受け取り、しっかりと閉まった蓋をめつすがめつとあらためて、手袋を着けた諸手にしっかりと握り締める。掌底で人一人を吹き飛ばす膂力は、あっさりと水までの城塞を崩した。

 確かに硬い蓋ではあったが、男二人が雁首を揃えても開けられない代物だとは思い難い。余程非力なのか、それとも力の入らない事情でもあるのか、はたまた――内心頭を捻りつつも、言葉にはせず。金庫の頭の内に諸々秘めて、カシーレは封の開いた水を再び男へ返した。


『どうぞ。』

「ん」

『御探しであろう方は二階の右の客間に居られます。御休みになる際はその隣の客間を御使い下さい。その他、御不便ありましたら使用人或いは女中へ御申し付けを。』

「そうする」

『それでは、私はこれにて。』


 用事に追われているのだろう、客人からの用命を終えた途端、優雅ながらも忙しく立ち上がり、部屋を辞そうと身を翻す執事。その広い背に、廃物はふと声をかけていた。


「今日は、誰も……出ない方が、いい」

「――――」


 微かに息を呑む音。すぐに、メモ帳へペンを走らす音へと変わる。

 ピッと紙を破り取り、カシーレはガラステーブルの上へ書いたものをそっと置き去って、すぐに応接間を出て行ってしまった。

 残されたメモ紙を、取る。


『約束致しましょう。帰ってきます。』

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