五十五:帰趨

「アザレア、と。クロッキーもか」

「ケイさん」


 時は戻り、キーンが通されたのは、名家邸宅の二階。長逗留するものの為に用意された客室の一つで、アザレアとクロッキーが何やら床で話し合っていた。

 視界を凝らせば、赤々と薪の燃える暖炉の傍。絨毯敷きの上に置かれた座卓に数冊のスケッチブックが広げられ、その上に大量の絵が描き散らされている。一緒に散らばっている鉛筆やペンからして、描いたのはこの二人であるらしい。

 此処へ来る道中の車内では今にも死にそうな思いつめた顔をしていたのだが、思ったよりは元気そうに見えた。心中で安堵しつつ、そうとは表に出さないまま、キーンは確かめるようにゆっくりとした歩調で部屋を横切る。そのまま、二人に倣って床に膝を突けば、間髪入れずにスケッチブックが差し出された。

 思わず見つめる。にっこりと、否にんまりと、いかにも愉しげに笑う主の顔を視界に捉えて、呆れたと言わんばかりに首を振った。


「俺は描か――」

「命令です」

「ぐ……」


 付き人たるもの、主に命令されては逆らえない。言い澱んだところで、追い打ちとばかりクロッキーが横から鉛筆を差し出し、外堀を埋めて来ようとする。自分に書き物をさせる為には連携プレーも厭わぬその姿、表情筋があれば思い切り渋い顔をしてやりたいところだが、生憎と鋼の刃は感情を表すための機構など何一つ備えていないのであった。

 結局、心の中に言葉にもならぬ不満を抱えたまま、キーンは鉛筆を手に取る。スケッチブックの上には既に様々な筆致や恰好の猫と犬が転がり、双方共に愛くるしさを振りまいていた。此処に、己は今から絵を付け足さねばならぬのだ。何の辱めなのだろうか。

 重い溜息を堪えて、紙の上に手を滑らせた。一度描き始めたならば、後は最早迷うこともない。直線を束ねて形を取り、ある程度出来たところで線を繋ぎ合わせる。丁度良いタイミングで消しゴムが差し出され、渡りに船と要らぬ線を消去。誤魔化しついでに影と模様を少々。サインなどという気取ったものを入れる気にはなれず、描きっぱなしのまま紙を百八十度回転させた。

 覗き込んだもの共からの感想は、一つ。


「そっくり」

「黙れ」

「私の絵とそっくり」

「黙ってくれ」


 描き出されたのは、一匹の虎猫。飛び抜けて優れていると言うわけではないが、目も当てられないほど下手と言うわけでもない。ごく凡庸な画才の持ち主であろう。それはいい。

 しかしながら、紙の上で行儀よく澄まして座る猫の姿は、隅に描かれた白猫――アザレアの描いたものとよく似ていた。ぴんと三角に立った耳も、くるりと身体に巻きつけられた長い尻尾も、何処か遠くを見つめる扁桃眼アーモンドアイも、何から何まで書写トレースしたようにそっくりである。

 つまるところ、この筋肉の塊のような大男から描かれたものとは思えないほど、可愛らしい絵だ。アザレアとクロッキーはまず驚き、そしてさも微笑ましげに肩を竦めあって、描いた本人は羞恥に包丁の刃をしきりと撫で付けていた。


「やっぱり似てるんですね、私達」

「物はそう在るものだ」

「私ケイさんみたいにムキムキのバキバキじゃないですー。それに大根の桂剥かつらむきだって出来ませんよ」


 困った風に眉尻を下げつつ、アザレアは此処へ招かれてから今までをぼんやりと思い出していた。

 どうやらこの男、人に料理を振る舞うのが好きらしいと気付いたのは、招かれた次の日の朝――空腹をぼんやりと感じていた所にいい匂いが漂って起き出し、寝ぼけ眼を向けた先にいた、黙々とトマトの飾り切りに勤しむ付き人の姿を見たときである。大の男が窮屈なエプロンを着け、その上ちまちまと野菜を切る姿はあまりにも滑稽で、空き腹なことも忘れて立ち尽くしたものだ。

 それだけならばまだ良いが、キーンはその後もスーツにエプロン姿で炊事場に立ち続けた。今のこの姿よりも絵面的には余程面白いのだが、それは恥ずかしくないと言う。

 ともあれ。付き人は食事時にふらりと台所に顔を出し、そして毎度のように野菜を可愛らしく切って出してくる。無論アザレアも料理くらい出来るのだが、キーンほどこだわった切り方はしないし、そもそも彼ほど美味しくは作れない。そこばかりはどうにも似ていないようだった。

 無闇に上手な野菜の飾り切り、自身よりも卓越した料理の腕前。それは、ここ数年最も使い込んできた己の経験ではなく、いやそれどころか他の所も――

 などと。もやもやと記憶を辿る物殺しの傍で、キーンは主の追求に対してあくまでも生真面目だった。


「俺はお前の付き人である以前に包丁だぞ、アザレア。料理道具が料理に長けていないでどうする」

「ケイさん、兄さんを切った回数の方が多いんじゃないですか」


 ふと、空気が冷える。

 一体何を、と言いかけて、声は出る前に喉の奥へと退散していった。虎目石のように輝く瞳が、他ならぬ悲愴を孕んで己を睨んでいたから。そしてその煌めきが、あまりにも冷え冷えと冴えていた故に。

 物殺しの眼は、向けられるとこれほど冷たいのかと。キーンは心の底が縮み上がるのを感じながら、一度は引っ込めた言葉を再び放つ。


「一体、何を言っているんだ」

「私、何度も何度も見てます。母親が兄さんを刺したり、切ったり。それ見て母親は笑ってて、兄さんは――」


 アザレアの口から溢れ出すのは、キーンの持つ底なしの武力の根源ルーツ。百戦錬磨の古強者ふるつわものに膂力で勝り、五十年努力し続けた物に技術で勝り、願うならば害成すもの全てを無に帰す特権をいつか得る、この彼の異様さの記述。

 だが、それは。

 、違うのだ。キーンははっきりとそう認識していた。故に彼は、尚も自身の記憶トラウマをほじくり返そうとする主の肩を掴む。


「アザレアッ!」

けいッ!!」


 名を呼ばれたと思った。

 思わず硬直する。身体が強張り、張り詰めたように動けなくなった付き人の手の中で、アザレアは堰を切ったように泣き出した。今まで、そう生まれてから今日この時まで、身内にも誰にも見せなかった、彼女自身の弱さの発露である。

 けれどもそれは、己の心身の非力さを嘆くと言うよりは、むしろ――


「だって、似てる……!」


 むしろ、他者の為に流す涙だ。

 今この目の前にいる、何もかも知るようで何も知らぬ男に、物殺しは目一杯の哭泣こっきゅうを向けねば気が済まない。

 いくら流しても溢れる涙を拭きもせず、少女は付き人の胸倉を掴んで引き寄せた。少し力を込めればいくらでも振り払えそうな細腕を、しかし付き人はどうにも出来ない。諌めることも出来ずされるがままのキーンに向けて、張り裂けるような涙がかった声が、暖炉に燃える火さえも揺るがして響く。


「何で兄さんに似たの、何でまた殺されなきゃいけないの、ケイさん……」


 半分吐息と化して零れる、今はもう亡き兄の名。

 アザレアから見たキーンは、自身よりも、アーミラリよりも尚、己の兄であるケイによく似ていた。いつも自分より他者を優先するその様にも、子供への面倒見が良く頼み事を断り難い性格にも、いつでも料理に何かしら拘りたがる嗜好にも、思い出せば兄の面影が見え隠れしている。

 しかしその兄は母に殺された。妹らを護る為に自ら暴力と癇癪の矢面に立ち続け、それが山積した挙句爆発した母に倉庫へ監禁され、四日四晩赦しを乞うた末に、如何な懇願も叶わぬと知り首を吊ったのだ。

 そしてキーンもまた。今ではなく、しかし確実に訪れる未来に、彼は自らの手に掛かって死ぬ。その上、二人は奇しくも同じケイの名を持つもの。ただでさえ似ているのに名前まで同じでは、最早重ね合わせるなと言う方が無理だった。

 一方のキーンは、そんなアザレアの悲痛な心中を、ゆっくりと呑み下し。その上で、はっきりと己が意志を述べてみせる。


「……もう一度お前に会いに行く。その為に今生を離れる。それでは不満か」

「知りませんッ! 知らないっ、そんなこと信じられない……!」

「――アザレア。落ち着いて」


 半狂乱で泣き喚くアザレアと、それを抱いたまま困り果てて固まるキーンと。押し問答に入りかけた二人へ助け舟を出したのは、今までやり取りを静観していたクロッキーである。凪のように静かな声は、不思議なほど真っ直ぐに二人へと届き、部屋にはたちまちのうちに静寂が満ちた。

 自然と肩やらシャツやらを掴んでいた手を離し、二人は体軸をクロッキーの方へ。少年はそんな物殺し達に視線を向けず、ただじっと、絵の描き広げられたスケッチブックを見ていた。


「ケイさんは本気だよ」

「本気だから何っていうのよ……!」

「アザレア。此処には世界の壁を超えてキミを呼び出せるような化け物がいて、キミだって出せるはずのない花でボク達を助けてくれた」

「あの時はそれは、必死だったもの」

「でしょ? ボク達は本当に、本当に強い意志があればどんなことでも出来る。でも、生きている間は疲れたり体を壊したりするから、そんなには無茶しない。……じゃあさ、アザレア」

「……何よ」

「死んじゃって無くなるものもない物が、どうして世界の壁を超えられないんだろう?」


 ――本気で願えば、心の底から想えば、死者に出来ないことなんかないんだ。

 ――消えてしまうのも、もう一度生まれなおすのも、好きな人を追いかけることも。


 一体何が、此処までクロッキーに断言させるのか。アザレアには分からなかった。ただ理解が及ぶとすれば、キーンも彼も、自分にはない何かによってそれを確信していることのみ。それは物という一種の生物としての本能が囁くのか、或いは自分の与り知らぬところで連綿と受け継がれてきた知識か知恵かによるものか。物殺しにその判断は付かない。

 ただ、己の勘よりも正確な確信であろうことくらいは、少女の混乱した頭でも分かった。

 故に。

 ならば。


「ケイさん」

「今度は俺だろうな。何だ」

「好きな花は、ありますか」


 己に出来ることは、一つだ。


「好きな花……」


 他の物にも向けられると言う問い。それに対し、還ることを望んだ物は、誰もがすらりと答えを述べうるのだと言う。しかし、いざ己が尋ねられてみると、想像以上に何も思いつかない。

 花も、それに人がつけた花言葉も、知識自体は持っている。しかし、自分に当てはめて考えようとしても上手く行かなかった。何をどう当てようとしても、ことごと所有者アザレアに重なってしまうのだ。自分らしい経験に欠けた未熟物故の迷いであった。

 それでも、問われた以上は答えねばなるまい。長く悩み、知識と経験を掘り返して、結局キーンは曖昧な答えを見出した。


「一輪でいい」

「一輪?」

「花の好みなど考えたこともない。形が好きだの所以が好きだのと言うのもよく分からん。だが、お前から何か貰うならば一つだ」


 ――それに、己の身は紛れもなく、主人ただ一人に捧げたもの。その身に意味はなが何本も何種類も贈られては、それは己への手向けにはならない。

 とは、気恥ずかしさに負けて言えず。努めて淡白に要望を告げた付き人へ、物殺しはようやく、微かな笑みを以て返した。


「分かりました。花の種類は私の方で考えておきます」

「適当でいい」

「駄目ですよ、主人からの贈り物なんですから。ちゃんと考えなきゃ!」

「やめろ、恋人同士の文脈で使うような言葉を軽々に使うんじゃない」


 恥ずかしさに口が滑る。あっと気付いた時には既に遅し。アザレアの表情は、不器用な恋を揶揄う女子高生のものに変貌していた。


「あーれれぇ、良いんですかーそんなこと言っちゃってぇ? わざわざ来世まで追いかけてくるために殺されるくらいなのに、何でもない仲だなんて」

「おい」

「え、えっと、応援してるよ……?」

「黙れ。口を閉じろ」


 これ以上やんやと囃し立てられては、羞恥心で倒れそうになる。殺気混じりに低く脅し立てなば、アザレアとクロッキーは揃って口を噤んだものの、凶悪な空気に怖気付いたわけではないらしい。まだまだ何処かでからかう気満々の婦女子らを前に、キーンは最早彼女らに慰めは要らぬと判断を下した。

 故に、次なる言葉を引きずり出す。今度は脅す為ならぬ、静謐とした空気を込めて。


「アザレア。あれは斃せるか」


 ぴん、

 と。何か硬質な糸を引っ張ったような幻聴を、この場にいたものどもは聞いただろう。

 数瞬前まで緩み綻んでいた少女の顔は、既に物殺しの鋭さと静けさを帯びて付き人を見ていた。


「還します。今度こそ。今度は間違いなく」


 そこには微塵の迷いも澱みもなく。

 虎目石の瞳の奥には、ただ純粋な殺意と決意のみが、蝋燭の火の如くに暗く煌めく。

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