五十四:嚮後
「しかし……」
やることはやりきったと言わんばかりにクロッキーが脱力し、ニトが他のページを捲って今は亡き物を見つけたりなどする中で、絞り出すような低い声が部屋を揺るがす。声の主は、この場にただ一人の人間――人の街の統治者、名その人。
癖のある硬い茶髪を撫で付け、剣幕とも呼べそうな厳しい顔に思案の色を浮かべて、名はじっとスケッチブックを見つめていた。
「所有者の家は全焼し、レザの古物店は半焼。保管されていた絵や文書の類も全て燃え尽きた。私の確認する限り、無事にあの家から持ち出せた絵は此処にある僅かしかない」
「……分かってる。大丈夫、本当に大事なものは、別の場所にあるから」
「私はお前の方が気がかりだ」
声は力強く、口調はしっかりとして、今のところ所有者の死に対するショックは意外なほど見えない。しかし、クロッキーはあくまで所有者ありきの生き方を選んできた物である。それが何の報いもなく突然宙に放り出された途方のなさは、人間である名すらも共感せざるを得なかった。
少年はそんな男の言葉に少し俯き、けれども悲嘆の色なく言い返す。
「……きっと、大丈夫。まだ、ボクにしか出来ないことが、此処にある」
「まだ? クロッキー、それが終わった後お前はどうなる」
「還るよ。思い残したことなんて、もう後ちょっとだけだし」
その声音に迷いは無かった。その様は所有者が死んで
深く深く、肺腑を潰すように溜息を吐き出し、名は再び問いかける。
「新しく見つける気はないのか。絵師としてのお前を望むものはいくらでもいる」
「ない。ボクの絵は
――文は鳴かず飛ばず、絵も次第に人気が落ち、食い詰めた末に周囲へ当たり散らした挙句、自暴自棄となって炎に焼かれた己の親。それと同じ末路を辿る気はなく、そして遂に最期まで価値を認めなかったものたちに迎合する気もない。
声には出さず、然れども堂々と胸を張り告げる様が、如何な言葉より雄弁に語る。対する名は、答え自体は半ば予想していたのであろう。納得したような、けれども残念そうな表情を浮かべてソファに背を沈め、そしてすぐに離した。
見つめる
「何やら、断ち切るような物言いだな。一体どうした」
そう――この少年は、いつもおどおどとしていた。絵以外の何にも全く自信がなく、泣きそうで、見えぬ暴虐に怯えきっていたのだ。それが今此処に於いて、クロッキーの言葉には微塵の揺らぎもない。それは何も、暴力を振るっていた者が居なくなったからと言うだけの話ではないだろう。
対するクロッキーは、冷静。膝の上に置いた手をじっと見つめて、ゆっくりと、丁寧に言葉を紡ぐ。
「ボクには、ボクにしか出来ないことがあるって。そう言ってくれたひとがいる。親に見放されても、絵以外何もないボクにも、まだ何かあるんだって」
「影響されたと言うことか」
「だろうと思う」
それは革新だった。
絵以外に取り柄などないと言われ続け、その絵にすら才能の翳りを見て怯え暴れる親を見てきた。ある時はお前が才能を奪ったからだと理不尽に憤慨し、ある時はお前が死ねば自分も死ぬのだと錯乱し、そしてある時は何もかもくれてやるからどうにかしろと縋る、己の
故に、クロッキーは信じてきた。己の限界を。存在の無価値であることを。己には絵を描くことしか出来ない、親を困らせることしか出来ない役立たずなのだと、この少年は生まれてからの二十年間ずっと思い込んできた。そして周囲も、絵師としての己以外を考えてはくれない。それでも親の、延いては親の如く落ちぶれてしまった誰かの名誉を取り戻さんとして、必死に動こうともがいたあの一念は、他ならぬ親自身によってぽっきりとへし折られてしまった。
しかし。これまでにない苛烈さを以って否定され、数多の絵と共に燃え尽きた
傷だらけの手を握りしめ、解く。そのまま、クロッキーは焼け焦げた速写帳の小口に爪を当て、苦く弱く笑ってみせた。
「アザレア……ボクがこうなるってこと、分かってたのかな」
――その頭、ちゃんと使える?
アザレアの。物殺しの言葉が、ふと思い出される。
物に頭の用途を為せるかと問う。それはつまり、お前はまだ死なずありたいか――物殺しに殺されたくはないかと問うに等しい。
故に、その時は憤慨した。地に落ちて久しい
少女に怪我を負わせてまで還されたくないと叫んだというのに、最早
クロッキーの自嘲は深まるばかり。小口に当てられた指はいよいよ強く紙を抉り、割れかけた爪に僅か血が滲んだところで、ニトが手を振り上げた。
一瞬、狂乱し暴れる所有者の面影を見た気がして、少年は肩を震わせる。しかしどれほど待っても拳が向くことはなく、代わりに掻き毟る手をそっと握りしめた。暴虐が降り懸からぬ安堵に緩んだ腕を、ニトはゆっくりと膝の上に戻す。
「ダメダメェ、そんな怪我するようなことしちゃぁ。最期が近くってもさぁ、自分は大事にしなきゃ
「ニトさん」
「心が揺れた時に自分を傷付けないといけないってのはねぇ、狂う一歩手前なのよぉ。……私、知ってるもの」
ニトの声は微かに震えていた。
言われずとも、誰のことを言っているかは予想がつく。少年は何処か沈痛げに手を下ろし、そんな彼の背を、彼女は何も言わずただ摩った。せめて自分を労われと、暖かい手に声が続いて、クロッキーは照れ隠しのように頭を撫ぜる。
緩やかな沈黙が辺りを漂い、しかし名はそれに浸るを良しとせず。スーツの胸ポケットから響く携帯の着信音、その音色に淡い色の瞳を微かに細めながら、男は素早くソファを立った。思わず、と言った風に物どもは人間へと視線を集め、対する彼はそんな彼らを一瞥。けれども何を言うでもやるでもなく部屋を辞し、着信に応答する。
「私だ」
“
着信の主は、かの
そのまま通せ、と堅い返答を放り投げ、承諾を聞き届けた後に着信を切る。呼び鈴を鳴らせば何処からともなく別の使用人が現れ、彼はそれに大して驚くこともなく数件の仕事を指示。足音もなく立ち去る使用人を一顧だにせず、切り刻まれたような顔に更なる険を刻みつけた。
尋ねたい事情は山とあれど、今回の物殺しはまだ高校生の少女であると言う。この泣く子も目を剥く剣呑な顔では、傷心の――問題の物は婦女子らを攫っては再起不能にした物であり、その許から救い出されたとはつまり、性的な被害に遭ったか遭いかけたということだ――物殺しを一層追い詰めるだけになりかねない。人の街の統治者として、直に話を聞くことは難しいだろう。
人を介するしかあるまいが、果たして少女の傍に置きながら正しく話を聞き出し、伝達しうる人材は果たして眼隠の中に居たものか。悶々と考えを巡らせながら、男の広い背は廊下の向こうへと消えてゆく。
他方。
場所は、名家邸宅から尾白山八合目の案内人の屋敷へと切り替わり。
「お早う、“廃物”君」
「……ぉ、はよ、う」
「おや、きちんと喋れるじゃないか」
クロッキーが飛び出し、ニトとベルが物殺しと共に山を下り、キーンも少し席を外している間に物殺しの後を追って出て行ってしまい、ピンズはいくつかの仕事を頼んだ後街へ帰らせた。今やアーミラリの邸宅に人気はなく、家主の書斎には痛いほどの静謐が漂っている。
それを、天球儀の低くも喜ばしげな声が軽やかに打ち払った。喜悦の元は、それまでまともに声を発することも難しかった男が話せるようになっている事実だ。
「此処は、何、処? あ、なたは……?」
「僕はアーミラリ、この家の主だ」
「アーミラリ……案内、人……?」
「如何にも!」
案内人の嬉しそうな返答をぼんやりと聞きつつ、“廃物”はゆっくりと身を起こす。
未だ傷の癒えぬ身体が軋り、彼方此方の傷がじくじくとした疼痛を放つものの、のたうち回るほどの苦しみではない。何より、あれほど知性理性が足りぬことに喘いでいた心が不思議なほどに穏やかで、それだけで身体がひどく楽に思えた。
とは言え、まだまだ本調子ではない。先程ケイと言う名の包丁――無闇に隆々とした恐ろしい風体の大男であるが、土砂降りの最中彷徨っていた己に雨除けを貸してくれたことは覚えている――と散々話し込んだ気疲れは残ったままであるし、第一現在進行形で“案内人特権”を使っているのだ。全身は水を詰めたようにだるく、特権を使うことに集中しているせいで、此方のことに上手く意識を保っていられない。
嘆息と共にソファへ背を預け、肩に引っかかった毛布を膝に掛け直す。爪が剥がれた手では力が入らず難儀するが、何とか望む形に出来た。ほっとしたようにまた細く息をつき、傷だらけの手を膝の上で組んだ彼に、アーミラリは無言の視線を送るばかり。
「どう、したの?」
「んー……特にどうってわけじゃないけど。傷だらけだなぁって」
「……だって。足りない、のは……苦しい。何を、しても……埋まらない。でも、だから、って。誰かを……傷、付けるのは、それは、嫌だ」
だから自分を傷付けて誤魔化そうとした。そう呟いて、手の傷を撫ぜる。もっと
ちかちかと、地球を模した球が
「自分のこと、どのくらい覚えてるか分かるかい。自分の通り名とかさ」
これまでの――知性を失くして彷徨っていた頃も含めて――言動を見るに、記憶は大部分が欠落しているだろう。だが、先程彼は己を案内人と語ってみせた。即ち、いくつかは覚えているかもしれないのだ。覚えている事柄を聞けば、予想が確信に変えられるやもしれない。そう考えついたならば、試してみねば気が済まないのがこの天球儀である。
そんなこととはつゆ知らず、“廃物”は爪の剥がれた指先を少しく撫でる。割れた液晶が数度砂嵐を吐き、それでも答えが見つからないのか、親指でダイヤルを少し回した。砂嵐ではない映像が数度流れては消え、やがて一枚の画像で止まる。
「
「げ?」
「
「あぁー……アザレアのことかな? 君を丸裸にして湯責めにしたあの子だよ」
「そ、っか。大丈夫、かな。あの子」
ブラウン管のテレビに映るのは、茶色い紫檀の柱時計。そこに、アーミラリは語られぬ知性を見る。
アザレアはクロッキーを探す途中でかの罪科の権化に鉢合わせ、そして連れ去られた。そして、彼女の付き人を含む多くのものが語るところによれば、その男の頭は紫檀の柱時計。画面に映る映像と同じである。
知って、いるのだろうか。天球儀の好奇心は、躊躇いなく疑問を紡いだ。
「クロッカーを知ってるかい」
「…………」
素早い明滅、数回。
その意は。
「知ってるんだね」
「――案内人」
明確な答えはなく、掠れた声は強い意志と決意を帯びて、問う物へ言葉を投げつける。
無闇に傷を毟るなと、振り切るような語調だけがただ雄弁で、さしものアーミラリも学者の一面を引っ込めるしかない。代わりに、彼は傍に立てかけていた杖を悠然と手に取ると、高らかに床を打ち鳴らした。
僅かばかりガラス球が
「君はこれからどうする」
「僕の、名前を……探してくれている、物がいる。そのことは知ってる。……行き方は、ケイに」
「行くかい」
「行く」
つい昨日まで雨に怯えていたとは思えぬほどの、清々しいまでに力強い返答であった。或いは、かくも強い精神力の持ち主だからこそ正気を喪わず此処にいられるのだろうか。
どちらにせよ、答えは出た。アーミラリは再び杖で床を叩き、ゆっくりと点頭を一つ。託宣を待つが如く背を伸ばす“廃物”へと、その織り上げた答えを返す。
「おかえり。それから、行ってらっしゃい」
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