五十三:開帳
「ゔぅ……ぅぁ、あ、ああぁっ」
「大丈夫、大丈夫。落ち着いてぇ。おねーちゃん此処にいるからねぇ」
「ぅ、……――」
うなされたクロッキーが激しく頭を掻き毟り、それを傍のニトが宥め、しばらく胸を摩る内に力尽きてまた眠る。そんなことを、二時間の内に幾度繰り返しただろうか。
ぺらぺらと軽く流し読み、箱に戻して次の本へ。それを数冊繰り返し、ふと一冊の文庫本を手にしたとき、ニトは固まった。
「あれ、この絵……」
『蒼の国の雪』――そんな題名の小説、その表紙を飾る水彩画に、見覚えがある。
描かれているのは、
この色使い。この人間の描き方。宝石の煌き。ニトの知る限り、こんな絵が描けるのは、今己の隣で悪夢にうなされている少年だけだ。けれども、今見ているこの絵にクロッキーのサインは入っていない。いつも彼がサインを入れる場所に鎮座しているのは、青黒い背景に紛れるような黒いインクで捺された、見慣れぬ小さな
作者の名は
惹かれたように、ページをめくる。
ある日突然降り立った、真白き少女の物語。記憶の何もかもを喪った中、ただ一つ覚えている『
誰に聞けども知らぬ雨の日、何を開けど載らぬ風の日、何処に行けども在らぬ雪。初めて出会った庭師の手を引き、世界の果てまで行き着いても、あるのはただ蒼。蒼。蒼……
――此処は一体全体何なの。
――神の祝福を受けた国さ。
――神が一体何をしてるの。
――変わらぬ平和の約束を。
その時少女は、神を破ることを決意した。
一気に読み進めたニトは、ふと背後の身じろぎを感じて我に返った。
振り返れば、クロッキーと視線が合う。どうやら眠りきれずに目が覚めてしまったようだが、それにしては酷く落ち着いていて、読みかけの本と目覚まし時計の頭を交互に見ては小さく笑った。
いい話でしょ、とか細い声が問いかけて、答えも聞かずに続きを紡ぐ。
「ボクの
「絵を?」
「全部。中身も、挿絵も」
その言葉に滲むのは、誇り。己を動かしてくれた人は素晴らしい才人なのだと、柔らかな口調で語る彼は信じて疑わない。これほどに温和で優しい少年が、あの神経質で暴力的な男の何処から生まれ出でると言うのか。クロッキーへの横暴を知るニトには、分からなかった。
二の句を接げず、ただ本を閉じる。静寂の中に、目覚まし時計の秒針が刻む時の音だけが大きい。その気まずさの中、クロッキーは震える手で、掛けられた布団を握りしめた。
「だから……あの人は、あの人は能無しなんかじゃない。あの人の創ったものが駄作だなんて、何にもならないなんて……そんなこと」
「だから殴られてもやり返さないってぇ? どんなに酷いことをされても、死んじゃっても?」
「――――」
「私、暴力振るう人嫌い。振るった方も振るわれた方も痛いし、怪我するし。それにそのひとがそれ以外全部良いひとでも、それだけで嫌な気分になるじゃない」
ぼやきながら、そっと己の頭を撫でる。小さな凹みや傷のある鴇色の胴、そこに一際深く刻まれた一筋の傷は、
クロッキーからの返答はなく、ニトは溜息を一つ。頭の傷から手を離し、閉じた本を再び開く。
「今のままじゃ、殺されちゃうよ。動かなきゃ何も変わらない」
「…………」
少年は何も言えず、ただ布団を握りしめるばかり。ニトもまたそれきり黙り込み、本の続きを読み始める。
話が佳境に差し掛かり、美しく成長した少女が
クロッキーがその過去作を託した老女――古くくたびれた鞄を手にしたレザと、引き連れた部下達に指示を出す当主、そして憔悴しきった彼女の傍に連れ添うトートが館へ戻ってきたのは、ニトが蒼の国の末路を見届けた直後であった。
「なァんで此処に葬儀屋がいるんでぃ」
名家邸宅の応接間、その中央に置かれたソファには、ベルとニト、そして寝起きのクロッキー。ガラステーブルを挟んだ差し向かいには、名家の当主たる
部屋の中には物ばかりが勢揃い、その中で、最初に声をあげたのはベルであった。その疑問は屋敷にいた物が最初に抱いたものだ。問われた名は
「葬儀の帰り道であった」
「まだ仕事してんのかよお前。んで、ついでに何かしたのかや?」
「レザの古物店が燃えた」
「ぉう……」
――確か、クロッキーが絵を預けたのはレザの店ではなかったか? それが図ったように今日燃えて、ではその犯人は……
言いたいことは山積みである。しかし、そんなベルの胸中を知ってか知らずか、トートは平素と同じ声でそれを遮った。
「店主と人間一名が中に取り残され、オレが中へ押し入った。レザはこの通り、ほぼ無傷である。……もう一人は助からず」
はっと、息を呑んだのは誰か。この静けさの中で、分からぬ筈がない。僅かに俯き、額縁の中の写真を夕暮れのものから白紙に切り替えて、トートはゆっくりと少年を見据えた。
クロッキーの縋るような視線を受けても、葬儀者は怯まない。黙って首を横に振り、みるみる内に全身を震わせ始めた少年へ、追い討ちをかけるように言葉を重ねる。
「オレが引き出した時には、既に心の臓も息も止まっていた。……フリードが蘇生を試みたが、一時間続けて戻ることはなかった。医師による死亡判定は出ている」
「――っ」
そんなのは嘘だ。何かの間違いだ。そう叫び出しそうになる喉を、クロッキーは必死に押し潰した。こと死に関して、この無口な墓守がその判断を誤ることもなければ、嘘など吐くわけもない。分かっている。分かっているからこそ、何も言えない。
困惑と悲哀と、勝手に逝ってしまった親への憤慨と。何より、自分の決意を何一つ果たせなかった虚しさと。やり場のない感情を無理やり内に押し込め、溢れ出そうになる涙と嗚咽を堪えに堪えて、ようやく出せた声は酷くか細い。
「――おとうさん、今どこ……?」
「椿通りに於ける放火及び住民に対する暴行の現行犯故、現状公安預かりである。望むならば、遺体の引き取り手続きと葬儀をゾンネ墓地が引き受ける」
「……ボク、難しいこと、何にも分かんない。トートさん、任せていい……?」
否。本当はやるべきことを知っている。だが今は、そんな煩雑な手続きなど考えたくない。ただ、この宙ぶらりんになった存在意義と、何処にぶつけることも出来ない感情を整理する時間が欲しかった。
そしてトートは、そんな
「心得た」
肩に羽織った毛布に焼け尽きた速写帳の頭を埋め、包帯の痛々しい手をぎゅっと握り締めて、念ずるように深呼吸を繰り返し――焼け焦げて取れかけたページを千切り取るかのように、激しく首を振る。燃えて脆くなった紙はその動きに耐えられず、端が千切れて宙を舞った。
そうして、雑念を払うように焦げを振り落とし、少年はゆっくりと頭を上げた。
「レザさん、預けた絵は大丈夫?」
「え?……えぇ、それを……最初に、持ち出しましたもの。焦げ、一つ……ないはずですわ。この通り」
そう言ってレザが見せたのは、古びた革の鞄。味が出たと言うには少々使い込まれすぎ、彼方此方の縫い目が解れて穴の空いたそれは、見間違えようもなくクロッキーのものだ。どうにかして見栄えを良くしようと惨憺したか、蝋で磨き上げられ艶々とした鞄に、火事の傷痕は何処にもない。革の鞄が焼けていないならば中身も無事であろう。
首肯を一つ。少年は黙したままの名を見て、それから隣に座るニトとベルにも視線をやり、最後に火傷で痛々しく腫れた自分の手を見た。
「ボクが持ってきたこの絵は、肖像画」
「肖像……誰のものだ」
「アステリア通信局の筆頭通信官」
「筆頭通信官、って、五年くらい前に失踪したんでねーの?」
「そのひとで間違いないよ」
行方不明者の肖像。何とも言えず不穏な響きに、ものどもの視線が一斉にクロッキーへ集中する。けれども絵師はそのいずれとも己の視線を合わせず、内なるものを引き出すように言葉を重ねた。
前から変だと思っていた――絞り出すような声は、悲壮さを湛えて響く。
「月の原で幻が見え始めたのは五年前、森外れの街に
「それが失踪した通信官の仕業だと?」
「……この前、“粗悪品”を見たんだ」
レザの膝に乗せられた鞄に視線を移し、小さく首肯。老女から鞄を受け取り、その中に詰まったスケッチブックを一冊引っ張り出して、テーブルの上へ静かに置いた。皆がそれに目を落とす中、少年はゆっくりと、霊廟を暴くような慎重さで表紙を開く。
そこに淡い水彩で描かれているのは、一人の物。白いシャツに
鮮やかな桃色の花束を手にした男、その首から上に鎮座するのは――茶色い、ブラウン管のテレビ。無論その頭に損壊などなく、身体に傷などあろうはずがない。だがしかし、この姿からどれほどに壊れ毀れ、いかほどに尾羽打ち枯らしていようとも、この頭はかの“廃物”のそれでしかありえなかった。
「確かに壊れてた。印象も随分変わってた。でも、あのひとは、」
視線と指が、そっと描かれた物の足元をなぞった。そこに記されるは流麗な筆記体。
果たしてその字は。
「このひとだよ。間違いなく」
――
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