五十三:開帳

「ゔぅ……ぅぁ、あ、ああぁっ」

「大丈夫、大丈夫。落ち着いてぇ。おねーちゃん此処にいるからねぇ」

「ぅ、……――」


 うなされたクロッキーが激しく頭を掻き毟り、それを傍のニトが宥め、しばらく胸を摩る内に力尽きてまた眠る。そんなことを、二時間の内に幾度繰り返しただろうか。

 女中メイドに頼んで持ってきてもらった暇潰し――段ボール一箱分ほどの童話や小説――から本を抜き出し、表紙を開く。様々な作者の様々な物語、共通するとすれば、どれも此処とは似て非なる世界のことを綴った幻想物語ファンタジーであることと、挿絵が多い本であることか。恐らく元の持ち主は、あまり小難しい本を好まなかったのだろう。

 ぺらぺらと軽く流し読み、箱に戻して次の本へ。それを数冊繰り返し、ふと一冊の文庫本を手にしたとき、ニトは固まった。


「あれ、この絵……」


 『蒼の国の雪』――そんな題名の小説、その表紙を飾る水彩画に、見覚えがある。

 描かれているのは、あお一色の背景と、一人の若き乙女の横顔。その肌は蝋のように白く、長い髪は雪のように白く、銀と真珠の宝冠を戴いている。きゅっと引き結んだ唇は淡い薔薇色で、耳を飾る宝石は暗い中にも緑に煌めき――凛と前を見据えた瞳は、前途の輝かしさを信じて疑わぬ、鮮やかな露草の青。何処か憂えたような色遣いと構図の中で、そこだけは子供のような無邪気さを湛えていた。

 この色使い。この人間の描き方。宝石の煌き。ニトの知る限り、こんな絵が描けるのは、今己の隣で悪夢にうなされている少年だけだ。けれども、今見ているこの絵にクロッキーのサインは入っていない。いつも彼がサインを入れる場所に鎮座しているのは、青黒い背景に紛れるような黒いインクで捺された、見慣れぬ小さな落款らっかんであった。

 作者の名はうたい。落款にも同じ名が記されており、どうやら文も絵もこの謳なるものが書いたらしい。クロッキーに酷似した絵を描く誰か、そのものが書く文章とはいかなるものか。

 惹かれたように、ページをめくる。


 ある日突然降り立った、真白き少女の物語。記憶の何もかもを喪った中、ただ一つ覚えている『細雪ささめゆき』の名。雲一つない常春の蒼。庭に咲く空の色の蒼薔薇。同じ髪と目をした人びと。穏やかで空虚な平和。繰り返される平穏な日々――倦怠。

 誰に聞けども知らぬ雨の日、何を開けど載らぬ風の日、何処に行けども在らぬ雪。初めて出会った庭師の手を引き、世界の果てまで行き着いても、あるのはただ蒼。蒼。蒼……


 ――此処は一体全体何なの。

 ――神の祝福を受けた国さ。


 ――神が一体何をしてるの。

 ――変わらぬ平和の約束を。


 その時少女は、神を破ることを決意した。


 一気に読み進めたニトは、ふと背後の身じろぎを感じて我に返った。

 振り返れば、クロッキーと視線が合う。どうやら眠りきれずに目が覚めてしまったようだが、それにしては酷く落ち着いていて、読みかけの本と目覚まし時計の頭を交互に見ては小さく笑った。

 いい話でしょ、とか細い声が問いかけて、答えも聞かずに続きを紡ぐ。


「ボクの所有者おとうさんが書いたんだよ」

「絵を?」

「全部。中身も、挿絵も」


 その言葉に滲むのは、誇り。己を動かしてくれた人は素晴らしい才人なのだと、柔らかな口調で語る彼は信じて疑わない。これほどに温和で優しい少年が、あの神経質で暴力的な男の何処から生まれ出でると言うのか。クロッキーへの横暴を知るニトには、分からなかった。

 二の句を接げず、ただ本を閉じる。静寂の中に、目覚まし時計の秒針が刻む時の音だけが大きい。その気まずさの中、クロッキーは震える手で、掛けられた布団を握りしめた。


「だから……あの人は、あの人は能無しなんかじゃない。あの人の創ったものが駄作だなんて、何にもならないなんて……そんなこと」

「だから殴られてもやり返さないってぇ? どんなに酷いことをされても、死んじゃっても?」

「――――」

「私、暴力振るう人嫌い。振るった方も振るわれた方も痛いし、怪我するし。それにそのひとがそれ以外全部良いひとでも、それだけで嫌な気分になるじゃない」


 ぼやきながら、そっと己の頭を撫でる。小さな凹みや傷のある鴇色の胴、そこに一際深く刻まれた一筋の傷は、柱時計クロッカーによって付けられた弾痕。頑丈に生まれついたこともあって痛みはないが、だからと言って易々と癒えることもない。あの躊躇なく向けられた銃口の洞々さ、微塵の迷いも澱みもない殺意の底深さもまた、傷と共に記憶へ残り続けるのだろう。

 クロッキーからの返答はなく、ニトは溜息を一つ。頭の傷から手を離し、閉じた本を再び開く。


「今のままじゃ、殺されちゃうよ。動かなきゃ何も変わらない」

「…………」


 少年は何も言えず、ただ布団を握りしめるばかり。ニトもまたそれきり黙り込み、本の続きを読み始める。

 話が佳境に差し掛かり、美しく成長した少女が傀儡かいらいの王を追い落とす辺りまで読む頃にはもう、少年の意識はうつつになく。

 クロッキーがその過去作を託した老女――古くくたびれた鞄を手にしたレザと、引き連れた部下達に指示を出す当主、そして憔悴しきった彼女の傍に連れ添うトートが館へ戻ってきたのは、ニトが蒼の国の末路を見届けた直後であった。



「なァんで此処に葬儀屋がいるんでぃ」


 名家邸宅の応接間、その中央に置かれたソファには、ベルとニト、そして寝起きのクロッキー。ガラステーブルを挟んだ差し向かいには、名家の当主たる名喜春めいよしはるとレザ。何故やら一緒に来ていたトートは、何の弁明もなくレザの左肩の後ろに佇んでいる。めいが従えていた強面のものどもは、客室で休んでいた面々を呼んだ後は何処へともなく散っていった。

 部屋の中には物ばかりが勢揃い、その中で、最初に声をあげたのはベルであった。その疑問は屋敷にいた物が最初に抱いたものだ。問われた名は淡褐色ヘーゼルの眼でトートを見上げ、遺影はそれに首肯で答えた。


「葬儀の帰り道であった」

「まだ仕事してんのかよお前。んで、ついでに何かしたのかや?」

「レザの古物店が燃えた」

「ぉう……」


 ――確か、クロッキーが絵を預けたのはレザの店ではなかったか? それが図ったように今日燃えて、ではその犯人は……

 言いたいことは山積みである。しかし、そんなベルの胸中を知ってか知らずか、トートは平素と同じ声でそれを遮った。


「店主と人間一名が中に取り残され、オレが中へ押し入った。レザはこの通り、ほぼ無傷である。……もう一人は助からず」


 はっと、息を呑んだのは誰か。この静けさの中で、分からぬ筈がない。僅かに俯き、額縁の中の写真を夕暮れのものから白紙に切り替えて、トートはゆっくりと少年を見据えた。

 クロッキーの縋るような視線を受けても、葬儀者は怯まない。黙って首を横に振り、みるみる内に全身を震わせ始めた少年へ、追い討ちをかけるように言葉を重ねる。


「オレが引き出した時には、既に心の臓も息も止まっていた。……フリードが蘇生を試みたが、一時間続けて戻ることはなかった。医師による死亡判定は出ている」

「――っ」


 そんなのは嘘だ。何かの間違いだ。そう叫び出しそうになる喉を、クロッキーは必死に押し潰した。こと死に関して、この無口な墓守がその判断を誤ることもなければ、嘘など吐くわけもない。分かっている。分かっているからこそ、何も言えない。

 困惑と悲哀と、勝手に逝ってしまった親への憤慨と。何より、自分の決意を何一つ果たせなかった虚しさと。やり場のない感情を無理やり内に押し込め、溢れ出そうになる涙と嗚咽を堪えに堪えて、ようやく出せた声は酷くか細い。


「――おとうさん、今どこ……?」

「椿通りに於ける放火及び住民に対する暴行の現行犯故、現状公安預かりである。望むならば、遺体の引き取り手続きと葬儀をゾンネ墓地が引き受ける」

「……ボク、難しいこと、何にも分かんない。トートさん、任せていい……?」


 否。本当はやるべきことを知っている。だが今は、そんな煩雑な手続きなど考えたくない。ただ、この宙ぶらりんになった存在意義と、何処にぶつけることも出来ない感情を整理する時間が欲しかった。

 そしてトートは、そんな喪主もしゅの心境を、葬儀を行う側の点からも、葬儀に参列する側の点からもよく知っている。ならば、言うことは一つだった。


「心得た」




 葬儀者トートが伝えに来た用事は、どうやらクロッキーの所有者関連のことだけであったらしい。彼は伝えるべきを伝えて速やかに屋敷を辞し、後には一層気分の落ち込んだ少年と、未だ当惑の渦中にある物どもと、厳しい顔で無言を貫く人間ばかりが残される。空気は暗く重く沈むばかり、名も迂闊に口を出せず、切りつけられたような厳しい顔をより一層恐ろしげに歪めては、感情の発露を必死に堪えるクロッキーを見守っていた。

 肩に羽織った毛布に焼け尽きた速写帳の頭を埋め、包帯の痛々しい手をぎゅっと握り締めて、念ずるように深呼吸を繰り返し――焼け焦げて取れかけたページを千切り取るかのように、激しく首を振る。燃えて脆くなった紙はその動きに耐えられず、端が千切れて宙を舞った。

 そうして、雑念を払うように焦げを振り落とし、少年はゆっくりと頭を上げた。


「レザさん、預けた絵は大丈夫?」

「え?……えぇ、それを……最初に、持ち出しましたもの。焦げ、一つ……ないはずですわ。この通り」


 そう言ってレザが見せたのは、古びた革の鞄。味が出たと言うには少々使い込まれすぎ、彼方此方の縫い目が解れて穴の空いたそれは、見間違えようもなくクロッキーのものだ。どうにかして見栄えを良くしようと惨憺したか、蝋で磨き上げられ艶々とした鞄に、火事の傷痕は何処にもない。革の鞄が焼けていないならば中身も無事であろう。

 首肯を一つ。少年は黙したままの名を見て、それから隣に座るニトとベルにも視線をやり、最後に火傷で痛々しく腫れた自分の手を見た。


「ボクが持ってきたこの絵は、肖像画」

「肖像……誰のものだ」

「アステリア通信局の筆頭通信官」

「筆頭通信官、って、五年くらい前に失踪したんでねーの?」

「そのひとで間違いないよ」


 行方不明者の肖像。何とも言えず不穏な響きに、ものどもの視線が一斉にクロッキーへ集中する。けれども絵師はそのいずれとも己の視線を合わせず、内なるものを引き出すように言葉を重ねた。

 前から変だと思っていた――絞り出すような声は、悲壮さを湛えて響く。


「月の原で幻が見え始めたのは五年前、森外れの街に薬物クスリが流行っておかしくなったのも五年前。月の原駅で雨宿りする“粗悪品”が出てきたのは幻が見え始めてからしばらく経った後で、筆頭通信官がいなくなった時に行ってたのは森外れの街……いろんなことが五年前から起こってる」

「それが失踪した通信官の仕業だと?」

「……この前、“粗悪品”を見たんだ」


 レザの膝に乗せられた鞄に視線を移し、小さく首肯。老女から鞄を受け取り、その中に詰まったスケッチブックを一冊引っ張り出して、テーブルの上へ静かに置いた。皆がそれに目を落とす中、少年はゆっくりと、霊廟を暴くような慎重さで表紙を開く。

 そこに淡い水彩で描かれているのは、一人の物。白いシャツに錆浅葱さびあさぎ色のスーツ、黒い革靴。深緑色のネクタイを結び下げ、ラペルに何かの徽章を付けて、化粧桜プリムラの小さな花束を手に佇んでいる。強い風に巻かれたスーツのはためき、その冬風の冷たさすら描き切った画才画力は言わずもがな見事であるが、ものどもが取り急ぎ注目したのはそこではない。

 鮮やかな桃色の花束を手にした男、その首から上に鎮座するのは――茶色い、ブラウン管のテレビ。無論その頭に損壊などなく、身体に傷などあろうはずがない。だがしかし、この姿からどれほどに壊れ毀れ、いかほどに尾羽打ち枯らしていようとも、この頭はかの“廃物”のそれでしかありえなかった。


「確かに壊れてた。印象も随分変わってた。でも、あのひとは、」


 視線と指が、そっと描かれた物の足元をなぞった。そこに記されるは流麗な筆記体。

 果たしてその字は。


「このひとだよ。間違いなく」


 ――Visionビジョン.

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