五十二:回視

 時は、アザレアを救出する以前。

 森外れの街までの移動手段を求め、魔法使いと共に名家を訪ねた頃まで遡る。


「唐突だけどケイさん、僕の弟子になる気ない? 絶対魔法使いの素質あるし本も好きそうだし、悪いようにはしないって」

「断る。貴方ほど長生きする予定はない」

「むぅ……ちょっとくらいほら、物殺しの付き人って発想から離れてみるって気は」

「考えたが、どう考えても俺は付き人だ。それ以上でも以下でも以外でもない」


 リブロウの魔法――魔法使いが識別することの曰く「取り替えの意術」――で一足飛びに山を降り、どんよりと重い曇天の下を、二人の物が並んで歩く。

 精緻に敷き詰められた石畳の広がるここは、旧椿通り一丁目一番地。古くから続く一族の屋敷が並ぶ、人の街の旧統括区である。道の左右には数百年に亘り続く名門一家の屋敷が建ち、人の街の現統括者たる名家めいけの邸宅もまた、家々の中で堂々と腰を据えていた。


「そりゃそうであれって言って“起こされ”たんだから、そうなんだろうけど……そんなにその子は大事?」

「命を懸けてもいいと思える程度には」

「うひゃー熱々――ぅ?」


 そんな統治者の館の門前、高い煉瓦の壁に寄りかかり、頭を庇うようにして、一人の少年が座り込んでいた。

 絵の具で汚れた上から更に煤と埃を被った学生服、斜めに掛けた煤だらけの鞄。手に目立つ痣や包帯。そして、生々しく赤い全身の火傷――こんな場所で座り込んでいる、と言うだけでも尋常ならぬ事態であるが、かの少年が負った傷はそれ以上の異様さを以って男どもを引きつける。

 無視など出来るわけがない。ないが、キーンは思わずその場で足を杭打った。

 付き人より先に、魔法使いが駆け出したから。


「クロッキー君!?」

「ぇ……? あ、司書、さん……」


 力無くか細い声と共に、微かな身動みじろぎ。恐らくは頭を上げかけて戻したのだろう、とキーンが予想するより早く、リブロウが傍に膝をついて肩を掴んだ。どうしたんだい、と問おうとしたその声は、しかし煤と埃と火傷だらけの手が、そっと押し留める。

 見られたくない。そんな懇願が詰まった所作である。しかし、これほど近くに身を寄せて隠せる訳がないのだ。リブロウの目下でぐったりとうな垂れたクロッキー、その全身は――


「ねぇ、本当に、どうしたんだい。僕に……この僕にも、言えないことなの」


 、燃やされていた。

 脚。背中。腹。胸。まるでこの少年の逃げる気を奪うかのように、目を覆うほどの熱傷が一点に集中している。そこ以外に火を浴びた形跡はない。火の点いたものを押し当てられたのだと察するのは、この惨状では簡単なことである。

 何より。


「だって……っ、だって!」

「誰がこんなことした、言えクロッキー!」

「言えない、言えない……!」


 頑なに隠そうと抱えた、速写帳の頭。煤と灰に塗れた分厚いそれは、焼け出された後のように黒焦げていた。

 物は人よりも頑健である。人間では致命傷になる傷や病でも耐えようと思えば耐えてしまえるし、そうして負った傷すら時間を掛ければ治ってしまう。しかし、頭を炭になるほど燃やしてしまうなど、物が負うにしても度の過ぎた傷だ。それこそ、物にとっての致命傷と言って過言ではない。

 故にこそ憤慨する。物に――否、紙と言う繊細で喪われやすい物に――否、否、己の作品に挿絵を付けてくれた、大切な唯一の絵師に。一体全体、何と惨い仕打ちか。

 ともすれば肩を振り回しそうになる手を必死に留めながら、作家リブロウは何時になく強い怒気を孕んだ声で叫ぶ。

 そんな二人の間に、キーンは音も気配もなく滑り込んだ。


「落ち着けリブロウ、脅迫するんじゃない」

「だって!」

「クロッキー、言いたくないなら俺も無闇に聞きはしない」


 悲鳴のようなリブロウの反駁を、少年に向けた声の鋭さで斬り伏せる。けれども掛けた言葉は気遣わしげで、クロッキーは微かに頭を上げた。固く膝を抱えた両の腕、その隙間から向けられた怯えがちの視線を、キーンは真正面から恐れなく受け止める。

 付き人にとって、少年をかくも損傷せしめたものの正体など、本気でどうでもいい。クロッキーの持つ人物関係を鑑み、今周囲を取り巻く状況を顧みれば、これほどの非道を行えるものなど明白時である。そして何より、キーンにはやらねばならぬことと聞かねばならぬことが山積みなのだ。分かっていることで時間を食っている暇はない。

 とは言え、リブロウの恫喝で怯えきってしまったことには同情する。怪我で滅入っている最中に非を責められるのは、ともすれば傷の重さよりも致命的だ。それは昨日で嫌と言うほど思い知らされた。

 ――そんな、憎たらしいほどに素っ気のない打算が付き人の胸中で渦巻いているなど、全く知りもせず。

 ただ嘘はついていまいとだけ理解して、クロッキーはぽつりと呟いた。


「すごく、疲れた……」

「そうだろうな。立てそうか」


 キーンの問いに黙って首を振る。座り込んで動こうとしないのは、何も焼かれた頭を隠したいだけの話ではない。傷を負った上に此処まで逃げ惑い、疲弊しきった少年の体力と気力は、最早限界だった。

 今にも力尽きそうなクロッキーを前に、羽織っていた背広を脱ぐ。丈の長いそれを焼け焦げた速写帳の頭に被せ、呆気に取られて緩んだ細腕を掴んで、キーンはあっという間もなく少年を背負いあげた。


「け、ケイさ、ん」

「……俺の主アザレアは確かに物分かりの良いものだが、だからと言ってどんな状況でもそれを発揮できはしない。あくまでも凡才の域で優れているだけだ」


 困惑も露わなクロッキーへ、キーンはやや俯きながら応えた。

 少年が言葉の意味を吞み下す間に、巨大な門の前に立ち、備えられた呼び鈴インターホンを押して応答を待つ。じきに柔らかな女性の声が返った。

 初めて聞く声であるが、臆することはない。用件を伝えて執事カシーレを出して欲しい旨を告げなば、僅かな思案の後に承認。内向きに門が開かれ、庭園を真っ直ぐに突っ切る長い道が現れる。

 白い石の敷かれた上、泥一つねていない潔癖な小径を歩きながら、ゆっくりと言葉の続きが紡がれた。


「アザレアは今危機的状況にある。今から助け出すが、精神状態は恐らく混乱の極致だ。察せよと強いるのは無理がある。……事情を説明するのはお前の役目だ、クロッキー」

「ボクが……?」

「お前にしか出来ない」

「ボクだけに、しか――」


 浮かされたような声が、途中で掠れる。

 精根尽き果てたのだろう、男の広い背にもたれ掛かった少年は、それきり何も言わなかった。



「ごめんなさいねぇ、うちの執事も薬物クスリなんて打たれたのは初めてでしてねぇ。脚が覚束ないから少し待ってくれ、って」

「嗚呼、咎める気はない。急かして事故など起こされても困る」

「ご協力ありがとう。その代わり、クロッキー君のお怪我はお任せ下さいねぇ」


 動けぬ執事と居ない家主に代わって来訪者三名を応対したのは、ゆるりとした物腰の女だった。

 年恰好四十代半ば、踝ほどまである朽葉色くちばいろのワンピースドレスを纏い、肩に薄いストールを掛けている。その首から上は、煉瓦造りの家を模したような、錘式の鳩時計はとどけい。結び下げた髪のように腰の長さまで垂れ下がる二本の鎖、その先に取り付けられたガラスの錘が、天井のシャンデリアから落ちる光に煌めいていた。

 差し向かいで優雅に茶菓子など摘んでみせながら、鳩時計の貴婦人は優雅に笑う。


「遅ればせながら、初めましてケイさん。わたしはクルク。カシーレの代理で、お客さまをおもてなしするように仰せつかりました。普段は時計師などしておりますわ」

「時計師……作るのか?」

「ええ、専用の工房など頂きましてねぇ。とは言ってもそう沢山は作れませんから、普段は修理ばかり」

「そうか……」


 ――時計が時計に携わっている。

 妙なところで感動を覚え、キーンは生返事と共にソファへ背を預けた。

 柱時計クロッカー懐中時計オンケル目覚まし時計ニト。その他諸々の時計もの。所謂計時けいじ機器の成れ果ては数多く見てきたが、時計そのものを作り出す職に就いている物は初見である。しかも、一見深窓の貴婦人にも見える彼女が。

 この婦人が一体どのようにして、あのような精密機器を作り出すのだろうか。興味深く見つめる付き人を、クルクもまた観察していた。


「貴方の時計は動いていませんのねぇ」

「は? いや、持っていないはずだが」

「あら、その胸のものは何?」


 心底不思議そうに首を傾げられ、キーンは生まれて初めて、己の格好を顧みた。

 。喪服のように黒く、しかし燕尾服のように裾の長い三つ揃い、黒い革靴とネクタイ。そして重苦しい配色の中、襟から垂れ下がる金鎖が、鮮やかになまめかしく光を照り返している。

 アーミラリも銀鎖を光らせていた。そしてその鎖の先は、懐中時計に続いていた。ならば、それに“起こされ”た己のこれは、一体何に続くのか?

 ゆっくりと慎重に、金の鎖を持ち上げる。果たして胸ポケットから出てきたのは、手巻きの懐中時計。花の透かし彫りが入った蓋の向こう、文字盤の上の針は、十二時丁度を指して動かない。恐らくは、発条ぜんまいを巻いていないせいだろう。

 巻けば、動かせる。

 しかし。


「診ましょうか」

「いや……いい。動かさなくて」

「あら、それはまたどうして」

「動かせば習慣になる」


 ――どうせ、物殺しがその責務を果たすまでの短い命なのだ。下手に習慣を作って、今際の未練にしたくない。

 キーンの言葉は短く、けれどもクルクはその裏に寂しい決意を聞き取って、何も問わずに膝の上で手を組んだ。束の間俯き、何か思い立ったように頭を上げて、


「!」


 ぎょっとしたように背を伸ばす。


「どちらさま?」


 クルクの視線は、ソファに腰掛ける二人の真後ろ。一瞬前まで空気しか無かったはずのそこには物が一人、砂を食むような雑音ノイズを垂れ流しながら佇んでいた。

 茶色い、一昔も二昔も前に使われていたブラウン管テレビの頭。しかし本体は半壊し、空いた穴からは千切れたコードが飛び出している。ひび割れた液晶は砂嵐の映像すらもまともに吐き出せず、ちかちかと素早く数度明滅しては、首を傾げる度に何か謎のモザイク映像を映した。声は出さないのか出せないのか、男はだらりと腕を垂らして立ち尽くしたまま、何の弁解もしようとはしない。

 男と、女と。睨み合いが数秒続いて、膠着を破ったのはキーンだった。


「“廃物”と言う分類ものらしい」

「“粗悪品”ではありませんの?」

「俺にも正直違いは分からんが、少なくともひとを襲うことはしない……したくないようだ。――それから」


 声の余韻で注意を引きつけ、キーンは突っ立っている“廃物”の腕を掴もうと手を伸ばす。

 が、肉の身体に触れることは能わず。指先が触れた瞬間、真っ白なシャツの上に極彩色のポリゴンと細かなノイズが散り、そのまま薄い胸板の向こうまですり抜けた。愕然とするクルクと、物も言えぬリブロウをよそに、男は痛がる風でも恐れる風でもない。ただ静かに、画面を明滅させながら佇むばかりである。


「見ての通り、特権持ちだ」

「あらまあ……」


 ――ああもう、何が何だか。

 鳩時計の婦人は、最早この客人達が、自分の手に負えそうもないことを確信した。

 そして、そんな状況に丁度割って入ってきた本命カシーレに、彼女は心底ほっとしながら仕事を丸投げした。



『お初にお目に掛かります。名家筆頭執事、及び眼隠筆頭のカシーレと申します。此度は当家の物が失礼致しました。』

「ケイ、物殺しの付き人をしている。早速だが、俺の主人……アザレアが貴方に保護されたとアーミラリから聞いている」


 執事が入ってきた途端、時計師は何やかやと理由を付けて、逃げるように出て行ってしまい。

 入れ替わりに差し向かいへ腰を下ろしたカシーレは、リブロウを置き去りにして話を進めていた。


迂遠うえんな詮索はこの際無粋と初めに言っておきましょう。クルクから私を召還した理由については聞き及んでおります。アザレア様の居場所を御存知であるとか。』

「嗚呼。だが人の街からでは遠すぎる。移動手段が入り用だ。人足を引っ張り出すことも考えたが、危険の伴う行為に無知の物を巻き添えには出来ない」

『此方で車を用意致しましょう。運転は私が務めます。』

「頼んだ」


 話はすぐに纏まり、カシーレは胸ポケットの内から出した呼び鈴を一鳴らし。入ってきた使用人――スキンヘッドに蛇の刺青を入れたサングラスの男が、果たして使用人と呼ぶに値するかは別として――に指示を書いたメモを渡し、それを受けた男は速やかに部屋を辞する。その背を見送りながら、執事は休む間もなくペンを走らせた。

 メモ紙を切り離し、差し出す。その先は、砂嵐を吐きながら立つ“廃物”。


『貴方は傍観者ですか。協力者ですか。』


 返答の如何では此処で排除することも辞さない。己にはそれが出来るだけの手段と確信がある。そんな脅しを込めた問いだった。

 対して突きつけられた方は、メモを見て少考。一旦テレビの画面を消し、前面に備えられたダイヤルを撫でるように爪のない指先で回し、そしてまた画面を点けた。映るのは変わらぬ砂嵐、けれども喉奥から溢れるのは、意味のない雑音ではない。


「ケイ、と……はな、し……を、し、た」


 叫びすぎた後のような、泣き疲れた後のような、掠れた声で。ゆっくりと、しかし確かに、男は意味のある言葉を紡ぎあげた。

 ケイと話をした――つまり、最初から承知の上でこの場に立っていると言う表明。またそれは、この細っこい満身創痍の男に、付き人が何らかの価値を認めたという証明でもある。その価値が如何なるものかは、このどう見ても生身にしか見えないこれが“案内人特権”で作られている幻という事実で、それとなく察し得ることだ。

 重い金庫の頭、その扉に施された青葡萄マスカットのレリーフを撫でながら、カシーレはひとまず、この精巧な幻覚が役立つ為にいることだけを覚えた。

 脱力してソファにもたれた執事と入れ替わり、男に声を掛けたのはリブロウである。


「ねぇ、君。名前は?」

「なま、え?」

「いつまでも“廃物”だの“粗悪品”だのって呼ぶんじゃおかしいでしょ、ちゃんと考えて喋ってるんだから」


 少しの沈黙。チカチカ、と数回素早く画面が明滅し、ふっと消え、また点く。

 ひび割れた画面には、青空をバックにした風景の映像。一体何処を映しているかは分からぬが、人ではなく物でもないことだけは確からしい。そんな、何とも言えず曖昧な画像を一枚だけ出して、男は確かめるように呟く。


「色んな、とこ、ろ……を、旅、して、た」

「旅……」

「い、ろんな、ひと……を、笑わせ? たくて……色んな、ところ、で……でも、あんまり、自分のことは……どう、でも」


 映る映像が切り替わる。色が飛び、一部映らなくなってしまった液晶の中、それでも一人の女性が見えた。

 その人間が誰なのか、リブロウもケイも、今の男自身も分かりはしない。ただとても嬉しそうに、或いは楽しそうに、男はどこか遠くを見つめている。


「遠くに、行っ、て……会って、話して……それが、すごく……幸せ。そん、な、物」

「――えっと?」

「だ、から、かな?……皆、ヴィア……旅人ヴィアヘロ、って。でも……」


 沈黙。


「でも、僕……も、らった、はず……」

「何をだい」

「誰、だろ……もっ、と……大事な――」


 ――もっと、大事な。


 男はそれきり、何も言わなかった。

 誰も彼もが黙り込む中、その気まずさを許さぬ現実が、臆せず入ってきた強面の使用人からもたらされる。


移動アシの準備が整いました」

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