五十七:遡及
女中とすれ違いながら二階へ上がり、広がる廊下を右手に曲がったすぐの部屋。己の名を知ると言うものの居場所へ遂に辿り着き、けれども扉を開いた彼を出迎えたのは、三つの安穏とした寝息だった。
そっと部屋へ入り、音を立てぬよう扉を閉めて、暖炉の前に転がる人影に歩み寄る。毛足の長い絨毯をマットレス代わりに、山盛りのクッションとふかふかの毛布に半ば埋もれる格好で横になっているのは、見覚えのある男女と見覚えのない少年。傍には背の低いテーブルが置かれ、数冊のスケッチブックとペン、そして古びた革の鞄が投げ出されていた。
三人の男女は寝入っているらしい。しばらく起きて来そうにないと悟って、男は見知った顔を起こすことから、広げっぱなしの紙面へと興味を移す。
一枚ずつページを捲る。最初に広げられていたページの、その全面に遊ぶ様々な筆致の猫を皮切りに、多くは写実的で美麗な、所々は拙さ垢抜けなさの残る犬やら鳥やら花やらが視界に飛び込んできた。
こればかりは頭を捻らずとも分かる。描いたのは間違いなく、此処で眠る少女と少年だ。一緒に寝ている大男、もとい
白紙を前に困り果てる巨漢を想像し、くすり。随分と久しぶりにおかしさで笑いながら、最後まで同じような絵の続いた冊子を閉じる。
他に積まれていたものを広げれば、物の少女と人間の童女が手を取り合い、
否。めいた、などではなく、実際に魔女だか魔法使いだかの居城を描いたものだろう。
挿絵ばかり何枚も描かれた三冊を元の位置へ戻して、男は好奇心のままに、置きっ放しの鞄をそっと漁る。
手にした古い冊子、その表紙を開いて。
視界に飛び込む自分自身に、彼は束の間、我を忘れた。
「ぁ」
喉から溢れた喘ぎを皮切りに。
溢れ出す。
五年前。否、最早日時などいつでもいい。森外れの街へ赴く前日、人を描く練習がしたいとせがまれた花屋の前の一幕。己はその時何をしていた?
憶えている。忘れもしない。己は献花を買おうとしていた。かつての想い人、もう二十年も前に往生した
しかし踏み躙られた。
「嗚呼」
いざ到着した森外れの街、その薄暗い一角に差し掛かった時、後頭を殴打され昏倒した。気付けば陽も射さぬ地下の石牢に転がされ、そこに来たるは名を呼ぶも忌々しきあの柱時計。そこで己は何をされたか。
忘れもしない。忌々しい劇薬を打たれては放置され、傷の痛みに我を思い出す度枷を増やされた、一ヶ月の地獄。劫火のような多幸感と狂気に打ち震え、流せるもの全てを流し尽くし、それでも尚朽ち果てぬ絶頂に血反吐すら絞り出して、それでも死ねず死のうとも思えなかったあの一月を。
そうして、尽きて尚折れず残った正気の残骸を、かの物は何処とも知れぬ荒れ野に打ち捨てた。
その時に奴は何を口走ったか?
忘れるものか。
忘れられるものか。
ならば何故今まで忘れていた?
何故、
「忘れられていた?」
――嗚呼。最後まで手放せなかったな、可哀想に。手放せていた方がきっと楽だったろうにな。或いは折れていた方が。
――久々に思い出したよ。私と同じだ、通信官。哀れなお前はいつかの私だ。悶え苦しんだ先に希望があると信じて裏切られた、私と同じだ。
――精々這い藻掻くがいい同士よ。ありもしない希望をそれでも探し、そして死ね。
――そうした方が、楽だぞ。
決まっている。
それが、罵倒であったからだ。
垂れられた、憐憫であったからだ。
己は、その反証になりたかった。仮令どん底に落ちきったとしても、そこから這い上がって見返してやりたかった。それが、かの物に対する何よりの復讐になると信じたのだ。ならば、啜る泥水の不味さに渇きを凌ぎ、毟り膿んだ傷の痛みに飢えを満たし、折り取る手を否定して生き延びようとした
故に、仕舞い込んでいた。己が反証たり得ると確信出来るようになるその日まで、怨讐の火種に順応し鈍らぬよう厳重に。思い出し燃え上がる烈しさのまま、怨敵を後悔もなく打ち砕けるように。
今こそはその時。
だが。
「……ビジョン?」
男の胸中を満たすのは、怒りでも恨み辛みでもない。燃え上がることなく、乱すでもないこの感情に、何か名前を付けるならば。
それは、安堵と言うのだろう。
「クロッキー……」
「ビジョン? ビジョンだよね?」
何に対しての安堵なのかは分からない。
だが、どうでも良かった。それを思うのは後でも出来る。時間はもう、いくらでも己の好きに使えるのだ。
今此処で、男がやるべきは一つのみ。
「間違いなく、僕はビジョンだ」
即ち、問う少年の声に肯定すること。
即ち、己の名を取り戻すこと、のみ。
「ありがとう。お陰で思い出せたよ」
「本当?」
「半分くらいは。……正直、君に絵を描いてもらうより前のことは、分からない」
「そっか……ごめんなさい、無神経で」
掠れた声でそう告げた“廃物”――否、今やビジョンの名を得た物に、クロッキーは痛ましげな声を投げて僅か俯く。対するビジョンは、それは違うとばかり首を横に振り、広げていたスケッチブックをそっと閉じた。
チカチカと画面の明滅二回。今までよりも滑らかにチャンネルが切り替わり、何処かの花畑らしき映像が映し出される。壊れかかったテレビの描画能力は、正気を得ても大して変わらないらしい。割れた液晶を爪の割れた指先で撫で付けながら、ビジョンは無言の否定の続きを綴った。
「生きてるなら、積み上げていける。僕はもう何処にでも、自由に行けるから。そうしてくれたのは君のお陰じゃないか」
「ボクは……絵を描いただけだし……」
「クロッキー。君は、練習帳をわざわざ外に持ち出して見せびらかすような性格か?」
細かく思い出せるわけではない。だが、何処となく察せられる。
彼に、己の努力を外に出せるような勇敢さはない。それほど勇気ある性格ならば、此処で記憶にあるよりもずっと傷を増やして消沈している彼など存在していないだろうし、己が名を取り戻す契機となった絵自体こんな所には残っていないだろう。表に出せばすぐに値が付いて手元を離れるであろう程度には、少年は類稀なる才気の持ち主なのだ。
練習としての絵だから、練習の跡を見せるのは恥ずかしいから。恐らくはそんな理由で、彼は今の今までこれを秘めていたに違いあるまい。そして、そんな内気さ故に、“廃物”は
それを重々感謝しこそすれ、軽んじて蔑んだり嘲笑ったりなど、誰が出来ようか。
「良かったんだ、これで」
吐息混じりの一言。
それが、ビジョンの偽らざる本音だった。
「重ねてでも言う。ありがとう」
「……うん」
渋々、と言った風に頷いたクロッキーを横目に、追認の首肯を一つ。勝手に取り出していた冊子を鞄の中に戻し、ビジョンはやりきったように大きく溜息をついた。
その音が、果たして目覚まし時計の代わりになったのか。ビジョンの視界の端で、今まで動かなかった二つの人影の内一つが、もそりと大きく身動ぎした。
乱れた洗い髪をヘアゴムで緩く束ね、顔を手で隠しながら大欠伸一つ。寝ぼけ眼を数回瞬いて辺りをぼんやりと見回し、隣で横たわる付き人が未だに寝静まっているのを認めた後、ゆっくりとクロッキー達の方に視線を飛ばす。鳶色の双眸には眠気が残ったまま、なれば問う声も、物殺しらしい鋭さに欠けたまま。
「クロッキー、そのひと……」
「ん。このひと」
「わぁ。どもでーす」
日向の猫のような、芯のないふにゃふにゃした柔い笑みを浮かべるアザレアに、ビジョンはくすくす笑いながら点頭した。
「ケイは起こさないの?」
「むしろ起こさないであげてください。すごく体調悪いみたいなので」
気を利かせた使用人がこっそり差し入れてくれた焼き菓子を口に咥えたまま、眠りこんで起きる気配もないキーンに毛布を被せ。テーブルの周囲に座る物二人の元へ戻りながら、アザレアは焼き菓子を口の中に押し込んだ。
三人で囲むにはいささか窮屈なテーブル、そこから少し離れたソファに腰を下ろし、肩口に流れてきた髪を人差し指に絡め取る。そんな物殺しからビジョンの視線は外れ、暖炉の前の一番暖かい場所を陣取るキーンへ向いていた。
初対面のときもあまり調子は良くなさそうだったし、その後アザレアを助け出す為に話し合った時も具合は悪そうだったが、今の彼はそれよりもずっと元気がないように見える。恐らくは、己の前で無防備に力を抜いている姿を見せていなかったからだろう。いくら敵手のない、見知らぬものもいない場所にいるとは言え、この屈強な巨漢が人前で態度を繕うことも出来ないと言うのは、相当な異常事態であるように思われる。
一体何を仕出かしたのだろうか。異変が起きたとすればクロッカーの家の中なのだろうが、その時随伴していた“案内人特権”の幻像は――望めばその向こうの景色を見たり聞いたり出来るのだが――柱時計の家に入って対峙した時に消してしまっているし、その後のことも分からない。かの物から何か深手を負わされたのかもしれないが、それにしては服が綺麗だ。
――ならば、自分のように、“案内人特権”でも使ったのだろうか。
「大変だったんだろうな」
「そうみたいですね。私には分かります」
分かって当然、とばかりに呟くアザレア。それが物殺しと言う特異な存在であるが故か、単に彼女の洞察力が群を抜いていると言うだけなのか、はたまた何か違う理由があるのかは、ビジョンには分からなかった。
だが、推測することは出来る。短い間に見せたやたらと丁重な扱いと言い、先程のこの発言と言い、彼女は……
「もしや、ケイのこと好き?」
「へぁファ!?」
「なんて声出してるの」
「へっ、や、あの、その……!」
図星のようである。茹で上がったように顔中を真っ赤にして、けれども満更でもなさそうに狼狽える少女の有様に、再びくすくす。クロッキーも、それまで冷静を努めていた物殺しの豹変ぶりが面白かったらしい。声は潜めつつ、けれども肩は我慢できないと言った風に震わせた。
ひとしきり慌てに慌て、動揺が過ぎ去った後に去来するのは羞恥。もじもじしながら言葉もなく明後日の方を眺めはじめたアザレアに、男どもは揃って首を傾げなどしてみせる。先程付き人にやった分、今度は彼女が揶揄される番だった。
「ケイさんのこと嫌いなの?」
「そんなまさか嫌いなわけ! いやでも、その、好きって言うか」
「あれ、さっきはあんなに積極的だったじゃんさ」
「そうだけど、そうなんだけど! 順序、そう順序、まだ言う
「あっやっぱそう言う」
「うぅ……!」
なまじ言われていることが事実なだけに、無闇と否定することも出来ない。だからと言って言葉にするとそれはそれでむず痒く、何となく
半泣き――と言うには幾分か悲愴感が足りないが――で口を貝にしたアザレアに、クロッキーはそれ以上の追及を止めて笑いかける。
「何時になるかは分かんないけど、実るといいね。応援してるよ」
「ケイさんにもやった追い打ちはやめて……」
激励を素直に受け止められない辺りは、彼も彼女も、随分と似た者同士であった。
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