四十七:金庫

「誰っ……」


 鳥を射落とさんばかりの剣幕で振り向いたアザレア、その視界に映ったのは、深緑に塗装された古い金庫。前面の扉に青葡萄マスカットをモチーフにした象嵌を施し、側壁と上面に大きな傷の刻まれたそれの下、ともすればフリッカーほどもあろう大柄な男の手が、がっしりと少女の細腕を掴んでいた。

 引き留められ、発散場所を失った激情のままに、鳶色の目を細めてめ上げる。しかし相手は動じない。フリッカーの持つ鈍い槌のような威圧でも、キーンの持つ鋭利な刃に似た殺気でもない、ただ水のような静けさを纏い、黙然もくぜんとして物殺しを見下ろすばかり。その喉が何かを語り出すわけではなかったが、アザレアは沈黙を貫くその姿に、最前の行動の愚かさを知る。

 振り向くな、真っ直ぐに走れ。そう言って背を押したのは他ならぬニトで、彼女やは己を逃がすために身体を張ったのだ。それを、己は感情に揺さぶられた挙句台無しにしかけた。これを愚と言わず何と言うべきか、アザレアには思いつかない。

 だが同時に、心へ嘘を吐くことも出来ない。ニトが心配なことも、ベルの安否が気になることも、紛れもない事実だ。そこに目を瞑れるほど冷酷でもなければ、切り捨ててしまえるほどひたむきですらない。それがアザレアという物殺しであった。


「誰ですか」


 幾分か冷静さを取り戻し、それ以上のれったさを心中に渦巻かせながら、アザレアは改めて問う。問われた方は、僅かばかりの間検めるように少女の声へ意識を澄ませたかと思うと、そっと掴んでいた手を離して、スーツの胸ポケットに挿した黒い万年筆を取り出した。

 太めの胴に菫と何かの紋章を蒔絵まきえした、一目で高価と分かる品。その金に輝くペン先が、内ポケットより出でたるメモ紙の上を、すらすらと音もなく走る。

 やがて、ピッと薄い紙を切る軽い音を響かせて、男は束から切り離したメモをアザレアに手渡した。


『カシーレと申します。名家の物である、と言えば、私が敵意害意を持たぬと信じて頂けましょうか。』

「カシーレ……さん。名家のお話は聞いてますけど、でもどうして此処に?」

『ベル様の呼びつけを拝聴し参じた次第でございます。けだし尋常なる事態でなし、裏組織の厄介事に図らずも巻き込まれた可能性を勘案の上、華神楽との緩衝域へ立ち寄りました。事実、そうでしょう。』


 丁寧ながら、やや古めかしい言葉遣いの文言が並ぶ紙。中々に達筆な文字を追い、アザレアはゆっくりと顔を伏せる。頭の中で警戒と打算の声が同時に乱舞し、そしてすぐに、後者が勝った。それでも残る一抹の不安を振り払い、アザレアは背高の金庫を爪先から見上げていく。

 銀糸のステッチが入った黒い革靴、裾の長い常盤ときわ色のスーツ、白いシャツに薄緑のベスト。優雅にペンを仕舞う手には白い手袋を着け、首元には淡い水色のフリルタイを結んでいる。先程見せた言葉遣いに違わず、何処か前時代の貴族を思わせる格好だ。今まで見てきた物と比べても豪奢な服装だが、それに着られず着こなせる程度に、彼は老成した静謐さを帯びていた。

 胡乱うろんな物にこの空気は纏えまい。なればかの物は、悪意を隠して近づいた物ではないのだろう。信に足る人物と判断し、アザレアは心の中でのみ小さく頷く。


「誰かに、ベルさんが撃たれたんです。多分、ニトさんも。それに、えーと……華、神楽? その人達も」


 ろくに言葉を選り抜きもせず、ただ焦燥と不安に任せて絞り出した声は、細く小さく。今にも消え入りそうなそれを丁寧に受け取り、カシーレはあれこれ考えるよりもまず先に、少女の背を軽くさすった。毅然とした娘ではあるが、未知の状況に放り出されて不安を感じぬほど場慣れしているようには見えない。まずはその労をねぎらい安心させるのが先決である。

 少女の不安を宥めんとするカシーレ。しかし、静穏な所作と裏腹に、その心中は思案と悪寒に荒れ狂っていた。

 華神楽の中で小競り合いを起こし、それが表で銃撃戦を起こすことは時折ある。組織を抜けようとした構成員を私刑リンチに掛け、そこに偶然居合わせてしまった民間人が巻き込まれた例もあった。そして、それらを抑える名家側の組織――眼隠めかくしと揉み合いになることはしょっちゅうのことだ。然れど、少女はそれらのいずれでもない事情を語った。


 無辜の民と、裏組織の構成員。

 そのどちらをも撃つ、何ものか。


 はっと息を呑む。急に硬く張り詰めた空気を感じたか、アザレアが弾かれたようにカシーレを仰いだ。


「カシーレさん?」

『様子を見て参ります。』


 揺れる声には沈黙を。溢れる言葉を素早く文字に書き起こし、それを押し付けるのも早々に、カシーレは今しがた物殺しが走ってきた道を行く。


「え? ぁ、私も行きますっ」


 その大きな背を、アザレアは泡を喰ったように追いかけた。流石に、こんな状況で独り置いていかれて平然としていられるほど度胸者ではない。誰かの傍についていたかったし、それがベルと面識のある物で、しかもキーンの如く頼りげのある男ならば尚更のことだ。第一、地理もよく知らないのにうろちょろできるほど、アザレアは自分の記憶力や空間力を信用してはいない。

 それはカシーレも分かっている。なればこそ、来し方を逆走することも許した。狭い道に人一人の並べるスペースを空け、並んできた彼女をそこに迎え入れて、金庫は大股に先を急ぐ。



 ――そんな二人に。

 少しだけ、誤算があるとすれば。


「……骨折り損って奴ですかね」

『敢えて明言は致しません。』


 ニトというこの物が、およそ凡百の物とは乖離した、物理的な頑丈さを持ち合わせていたことであろうか。

 時折違う道を挟みつつ、概ねは少女の走ってきた道を辿ってきた二人を迎えたのは、道の真ん中で腕を組む仁王立ちの目覚まし時計。その身に致命の傷は一つとしてなく、強いて言えば頭に擦り傷と若干の凹みが増えた程度か。アザレアの心配など何処吹く風、平然として佇み周囲を威嚇する様に、二人は揃って脱力した。


「ニトさーん……」

「アザレアったらぁ、戻ってきちゃったのぉ? もぉ、心配しなくたってよかったのにー」


 呼び声に交えた呆れなど、気付いていないか気にしてもいない素振りである。果たしてどちらを主としてかくも呑気に振る舞うのか、アザレアには分からなかった。

 こめかみを揉み、嘆息。言葉を選び、何とか言葉を絞り出す。


「だって……あんな声で言われたら心配しますってば。それに、私一人で歩いてたら余計に危ないですし」

「むぅうー。でもやーよぉ、約束フラグるのはよくないよぉ。うー腹いせじゃーゆさゆさしてやるぅ」

「わーっ!? わー! ニトさん待って、落ち着いて! カシーレさんの前でゆさゆさしないでください! ごめんなさい、私が悪かったですーっ!」


 腕を胸の下で組み、持ち上げた豊かな二つの果実を上下。浴室での一幕が余程に印象へ残ったものか、ぼっと火の付いたように顔を赤くし、少女は慌ててニトを押さえつける。えー、とか、やだぁ、とか聞こえても聞かぬふり。やや無理やり気味に腕を解かせて、渋々従った目覚まし時計に冷たい視線を向けた。

 己は常に本気で心配していたし、カシーレとてもそれは同じこと。確かに多少の打算計算はあったものの、それが感情と行動の正当性を侵害することはないだろう。というのに、自分が大丈夫だったからという理由で茶化されては、流石に看過しがたい。

 じぃっと、虎目石の双眸を細めてひたすらに見つめる。しばらくは平然としていたニトも、傍らに控えるカシーレからも冷ややかな空気を感じ取ると、流石に少しばかりたじろいだようであった。


「な、何よぅ」

『貴女は華神楽のものでも我々でも民間人でもない、非常に危険なものと対峙していました。それをお忘れなきよう。一歩間違えば貴女とても還されたかもしれないのです。』


 突き返されたメモに並ぶ文字、その丁寧な筆致に得体の知れぬ寒気を感じて、思わず肩を縮こめる。カシーレは名家の物、それもその当主たる男に付く執事であり、同時に眼隠の筆頭ですらあるのだ。そんな物がかくも切々と諫めるということは、自分は知らずの内に、思った以上の危険と真っ向勝負をしてしまったらしい。

 今になって、向けられた銃口の黒さが恐ろしくなる。迷いなく鉄塊を頭に向け、挑発する暇もなく発砲してきた、かの柱時計の男。華神楽ですら何も知らぬ民間人か同業かを誰何すいかすると言うのに、それもただ一瞬もせず殺そうとしてきた物。その時は無視していた違和感が、全身を恐怖に凍らせる。

 硬直するニトの肩を、男の手が軽く叩いて、強く引き寄せる。


「ッ!」


 僅かに息を呑む音。それがカシーレの練気れんきであるとニトが気付くより早く、彼は右腕を軽く引きつつ、軸脚を軽くひねる。それによって生み出された、螺旋状の力の流れに沿って、放つは真横への掌底。

 ぱぁんと空気の弾ける高らかな音声が、静寂を撃ち貫いて木霊した。かと思えば、何か重いものが壁に激突する鈍い音が、その方から投げ返される。


「ぁっ……」


 微かな驚きの声と共に、ニトが見た先。常人離れした膂力から放たれた掌底に吹き飛ばされ、したたかに背を打って尚、さも面白げに立っていたのは――

 

「いやぁ驚き驚き。これだけ振り回された状況で悲鳴を上げないは初めてですよ。中々胆力のあるお嬢さんですねぇ」

「…………」

「沈黙は刃なり。よぉく心得ていらっしゃる。流石、流石物殺しです」


 柱時計クロッカー

 そして、その腕に首元を抱え込まれ、こめかみに銃口を押し付けられたアザレア。

 少女の手にはいつの間にか一振りのナイフが握られ、押し当てられた拳銃を握る手、その腱に刃先を向けている。毎夜の如く壁の外へ連れ出され、“粗悪品”と命のやり取りを繰り返す内に、自然と身についた動きだった。“粗悪品”に人質を取って何かを要求するような知力は無いが、それでも有り余る膂力に任せて組み付かれはするものである。そんな時の為に、スペクトラが自前の術から教えてくれたものだ。

 鳶色の双眸に揺らぎなく、虎目石の輝きは失われることなし。きゅっと真一文字に引き結んだ口からは、命乞いの言葉はおろか喘ぎの一つも漏れはしない。感情の看破に長けたクロッカーがそれを読み取れぬほどに、アザレアは平静のままだ。

 ごり、と強く銃口を押し付け、音を立てさせる。言外な脅迫に、しかし返ってきたのは沈黙と、腱への更なる刃の接近。よく研がれた刃先が浅く肉へ触れ、鋭い痛みが一瞬クロッカーの手に走る。

 ――仕事の完遂に対して、微塵の躊躇も容赦も見られない。

 いっそ清々しいまでにひたむきで愚直で、それ故に。


「詰めが甘い」


 低く低く、アザレアだけに聞こえるほどの声で囁いて、クロッカーはアザレアの首に回した腕の角度を変えた。

 即ち、動きを拘束することから、物殺しを絞め落とすことへ。僅かな身動ぎだけで頸動脈を綺麗に塞がれ、今まで威圧の為に静けさを保っていたアザレアの喉は、僅かに対応が遅れた。

 遅れてしまった。


「ぁ――」

「アザレアッ、っひぃえ!?」


 急速に意識が遠のき、闇へ落ちる。急に力を失くして得物を取り落とした少女へ、まずニトが走り寄りかけて、足元を撃ち砕く銃撃に腰を抜かした。

 物殺しアザレアという不確定な脅威が無力化された今、クロッカーの攻撃速度に敵う物はいない。瞬く間に拳銃から三発の鉛玉が吐き出され、音速で到達したそれはそれぞれ、飛びかかろうとして曲げられていたカシーレの右膝と心臓に深く食い込み、そして既に腰の抜けたニトの左脚を掠って、二人の戦意と移動力をそぎ落とす。

 あっという間に二人を沈め、路地の暗きに消え行かんとするクロッカーの歩みは悠然として。待ちなさいよ、と背後から掛かるニトの叫び声には小さな嘲笑だけを返して、柱時計は少女を引きずっていく。

 その、艶めく紫檀の後頭部に、大質量の何かが思い切り投げつけられた。溜息と共に不承不承振り返れば、何かを投擲したような体勢から手を下ろすニトの姿。血の溢れる足を押さえも庇いもせず、油断なく睨んでくる女を、面倒くさげに見下ろす。


「壊れ物に石投げないでくれます?」

「あんたにだけは言われたくないわよこの馬鹿っ! あんたねぇっ、民間人を拉致ったらどうなるか分かってんでしょぉ?」

「えぇ、とても良く」

「じゃあ何で!」

「それが僕の存在意義だからです。罪を犯し罪を重ね、追い追われるのが僕だから。そこに理屈や理由が要ると思います?」


 自身の頭に当たったもの――地面から剥がれたらしい石の破片を踵で転がしながら、あくまでも柱時計は余裕を保つ。

 何処までも分かり合えぬ男であった。存在意義を満たす為に法を逸脱する物は多々おれど、。その引っ掛かりが、ニトから更に言葉を引きずり出す。


「嘘よ。あんた、何かやらかしたいんでしょ? 手段がヤバいってだけでさ」

「さあ。仮にそうだとして、貴方に言わなければならない筋合いや義理はありませんね」

「ふん、だ。どうせもう叶わないよ、きっと」

「…………」


 苛立ち紛れに投げた礫へ返された沈黙は、肯定だったのだろうか。

 その感情を読みかねる内に、柱時計が声を被せてくる。


「叶わないことなんか、百年前から知ってるんですよ」

「あんた――」

「それでも、……いえ。ただの戯言です」


 二の句をげず、黙り込んだニト。漂う静けさを嘲り、クロッカーは再び歩き出そうとして、微かな衣摺れの音に立ち止まる。


「おや、まだ動きます? 止めといた方がいいですよ」


 振り向く先には、滂沱ぼうだと血を流す胸を押さえつけ、膝の撃ち砕かれた脚を力無くぶら下げながらも、立ち上がり己を睨むカシーレの姿。やはり名家の当主に長く仕えているだけのことはある。銃弾二発程度では倒れてくれぬようであった。

 なればこそ、容赦はない。前振り一つなく銃口を向け、既に一発食い込んだ胸へ続けざまに弾丸を喰らわせる。しかし、カシーレの方も柱時計の行動は予測していたのだろう。瞬時に身体を低く屈めて銃弾を避け、片脚だけで石畳の地面を踏み抜いて、クロッカーの脚に掴みかかった。

 さりとて柱時計の余裕は揺るがず。くるりと爪先を半回転、黒い外套の裾を翻してタックルをかわせば、満身創痍のカシーレには勢いを殺せない。何とか無事な片脚の踵を石畳に噛ませ、手も突いて転倒することは避けたものの、無理な体勢の転換に噛み殺したような苦鳴が漏れる。


「優雅じゃありませんねぇ全く。名家の物らしくもないじゃありませんか?」

「……っ」


 降り注ぐ嘲笑は、侮蔑と軽蔑の色を隠そうともしない。かくも嘲られては、温厚な執事といえども多少は癇に障る。言葉は綴れぬが、せめても視線で威圧せんと睨んだカシーレは、

 しかし、視線の先にあるべき物を捉えられなかった。


「カシーレ!」


 ニトの悲鳴。

 振り向くよりも早く、首筋に鋭い痛みが一瞬走る。


「……ぁ、っ」


 ――これは、不味い。


 頸動脈から流し込まれる冷たい薬液、それが浸透する感覚に、カシーレは感じたことのない危機感を覚えつつも。

 それが身体を突き動かす衝動へと変わる前に、全身から一気に力が抜けた。


「皆Aばっかり警戒するんですけどねぇ。Bも物に効くんですよ。知ってました?」


 くすくすと楽しそうな笑声が、弛緩し倒れ込んだ金庫の頭に転げ落とされる。名家の物たるものがそれを知らぬはずがない、そう返したくとも、指一本どころか声帯すらもまともに機能しない。どんなに動かそうとしても、全身が瀕死の雛鳥の如く僅かに震えるだけだった。

 ぐったりと側臥そくがする男の頭を爪先で小突き、されるがまま揺れるばかりと確かめると、クロッカーは今度こそ踵を返す。一向に目を覚ましそうにない少女を引きずり、悠々と傲然と立ち去ってゆく背を、カシーレ達はただ見ることしか出来なかった。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る