四十八:拘禁
手足は自由。服と身体に異常無し、さりとて武器も鞘ごと無し。ついでに財布やポーチ類も無ければ、髪の毛を纏めていたヘアゴムや髪留めの類までもない。
およそ武器に使えそうなものを全て剥奪され、身一つの状態にされたアザレアが目を覚ましたのは、連れ去られてから一時間ほど後のことである。
一人用のベッドと書き物机、医学書や薬学書ばかりが並ぶ本棚。鍵付きの戸棚に、クロスの掛かったテーブルが一つ。書き物机の上には丸底のフラスコや試験管がケースに入れられた状態で静置され、床の片隅には空の遮光瓶が転がっている。事情が事情でなければファーマシーの部屋かとでも思いたくなるような、薬品臭の漂う部屋だ。
ゆっくりと部屋を見回す。普段はあまり使われていないのか、綺麗に掃除されてはいるが空気が微かに澱んでいた。板張りの床にも日焼けによる色褪せが目立ち、布団にも何処か古めかしい気配を感じる。転がっている遮光瓶に貼られたラベルの新しさと、机の上に置かれたガラス器具の清潔感が、妙にアンバランスなものに思えた。
「何処……?」
たっぷり数分の時間を掛けて
――己は、今一人なのだ。
そう認識した途端、急に焦燥と不安が身体を冷やした。咄嗟に掛けられていたブランケットをぎゅっと握り締め、それでも足りずに膝を抱える。その拍子に落ちかかった髪の毛を払う余裕も、今は持てそうにない。強く強く自分自身を抱きすくめ、渦巻く感情が収まるのを、ただひたすらに待ち続けるばかり。
そうして、塑像のように硬直した身体。動くに動けなくなった少女を突き動かすのは、彼女自身ではなく。
何者かが扉を叩く、コツコツと言う小さな音が、物殺しの身を解く。
「誰?」
「巷で噂の誘拐犯ですよ。物殺しさん」
聞き慣れないが聞いたことのある、やや高めの男声。抑揚の効いた口調で綴られる言葉に、アザレアは弾かれたように腕を解き、ベッドから降りて立ち上がる。悲しいかな、此処で怯えるほど彼女は愛らしい精神性の持ち主ではない。瞳に宿る光に揺らぎなく、得物はなくとも身体は自然と臨戦態勢へ移り、返す声には僅かな動揺も含まずに、静々と床を転がった。
「何の用ですか」
「
「何かする気なんですね?」
「当たり前でしょう、その為に貴方を此処へ連れてきたんですから。……ただ、今はもっと面白い玩具が手元にありますし? 別に貴方を今どうこうする必要性は感じませんかねぇ。まあ、これから先のことは考え中です」
いちいち癪に障る言い方だが、虚言の気配は感じられなかった。第一、彼にアザレアを弄ぶ気があるなら、とっくの昔に部屋へ押し入られているはずだ。それをしないと言うことは、つまるところ物殺しに何かする気は、本当に今はないらしい。
信に足ると判断し、臨戦態勢は解かぬまでも殺気は引っ込めて、分かったと一声。男はそれに何も言わず、さも当然と言わんばかりに扉を押して入ってくる。
警戒心を剥き出しにして身を固める少女を余所に、クロッカーは寝台の横に置かれたテーブルの上に銀の盆を置き、二脚並んだ椅子の片方にゆっくりと腰を下ろした。まあ座れ、そう言いたげに、革の黒手袋を着けた指が天板を軽く叩く。
盆の上にはぶつ切りの野菜が入ったスープと、堅く焼き締められたパンが数切れ。パンの入った籠の中には銀紙に包まれたバターが二つ。瀟洒な絵付けのされた陶杯には紅茶が注がれ、白い湯気を音もなく虚空に渦巻かす。簡素だがきちんとした食事だ。しかし、提供しているのは他でもない、かの罪科の権化である。混ぜ物をされていない保障など何処にもなかった。
立ち尽くしたまま動こうとしないアザレアに、柱時計は小さな笑声を投げた。
「普通の食事ですよ」
「証拠は?」
「貴方が自分で定義して下さい。僕はただ単に作って提供するだけなんで」
テーブルに頬杖を突きながら吐き捨て、昨日から何も食べていないだろう、と追い討ち。
言われてみれば、汽車が脱線してからアーミラリの家の布団に潜り込むまで、まともな食事らしい食事など全くしていない。そして、一度意識してしまえば最早それまでだ。今まで静かだった腹の虫が急に騒ぎ出し、緊張感と静寂の漂っていた部屋に、間抜けた音がこだまする。
真面目な空気など出すべくもない。特にからかうでもなく構えている男の差し向かいに、少女は顔をリンゴのように赤くしながら、おずおずと座った。
添えられていたスプーンを手に取りかけて、止める。眉根をひくつかせながら目を上げた先には、穴が開かんばかりに見つめてくる柱時計。じっと、一挙一頭足を監視するような粘っこさの視線に、思わず刺々しい言葉が零れた。
「出てってくれません?」
「何で? 見てるだけでしょ」
「ジロジロ見られながら食べたくないんですけど」
「じゃあお断りです。僕は人の嫌がることこそやる物なんで」
何処までも嫌な奴である。いっそ自分から出て行ってやりやかったが、それをこの男が許すとは思えない。はぁ、と諦念交じりに溜息を零し、取りかけていた匙を再び手に取った。
スープを一口。少々塩気とハーブの香りが強いものの、異常らしい異常はない。ごく普通の味だ。それでも警戒を解くことは出来ないが、生存本能には抗えない。ややぎこちない手つきで、けれども黙々と皿の中身を減らす少女を、男は何処か興味ありげに眺めていた。
少しして、奇妙な沈黙の満ちる食事が終わりに差し掛かる頃。無言を貫いていたクロッカーが、不意に小首を傾げる。
「何で物殺しやってるんですかね、貴方は」
ぴたり、と。アザレアの手が止まった。嫌悪感すら滲んだ表情が柱時計に向き、いきなり何なんだ、と平坦な声が問う。対する男は、そんな物殺しの言動をむしろ心地良さげに受け止めた。
意義を問うて動揺したと言うことは、つまり彼女自身吹っ切れているわけではないということだ。物殺しが自身の在り方に疑問を感じるならば、そこにつけ込む余地がある。そして、それを見逃すほどクロッカーは節穴ではない。
「多分、案内人や他の物からは『この世界に物を殺せるものはいない』って聞いてると思うんですよ。人は物を自分の分身と思うから、物はその根が善良だから、なんて理由を付けてね。――でも、僕は殺します。華神楽や洞臥の連中も勿論殺し合いますし、一般人だって殺します。案内人が言うほどこの世界の人間や物は同族分身殺しを嫌ってはいません。それでも貴方が此処で物殺しをやる意味が、果たしてありますかね」
「…………」
「あ、やらなきゃ帰れないって言い訳は無しですよ、当然。案内人を脅して何もしないで帰った物殺し、いますんで。帰りたけりゃ今からだって帰れますよ?」
愉しそうに紡がれるクロッカーの声に、アザレアは口を引き結ぶことで応えた。しかし、答えに迷っている風ではない。あるが言わないだけだ。そこに秘められているであろう言葉も予想した上で、柱時計はケラケラと耳障りに嗤う。
「言えないほど陳腐なんですかねぇ」
「……“仕事は丁寧に、弔いは丁重に”」
アザレアの口から放たれたのは、クロッカーの予想から外れた独白。
「“冷淡であれ、冷酷にはなるな”」
何処か哀れむような瞳が、
「――“お前は命あるものを殺すんだ”」
男を真っ直ぐに見つめていた。
「私に、この世界の作法を教えてくれたひとの言葉です。私はいつでもこれに従います。私が聞き耳を持つのは、友達の無責任な言葉でも、貴方の挑発でもありません」
「おや、論旨を違えちゃ嫌ですよ。貴方自身でお考えにはならないので?」
「論点を外した気はありません。……貴方みたいなのがいるから、私はここにいるんです。ひとの尊厳を守る為に、私は物を還す。それが私です」
歳若い娘のものとは思えぬ、淀みなく直向きな、冷たい敵対宣言だった。どのような人生を送ればかくも冷静に敵を突き放せるのか、さしもの柱時計もすぐには想像できなかったし、する気もない。クロッカーにとって、重要なのは物殺しの態度と回答だ。此処で彼女の存在意義が揺らぐならば放置するつもりであったが、自分と己は違うと堂々言い切った彼女に、そんな生易しいことで留めておく気はさらさらない。ぐつぐつと喉の奥で笑声を噛み殺しながら、柱時計は頬杖を解いて立ち上がった。
そのまま踵を返す。しかしそれを追従する気配はなく、背に視線も感じない。完全に興味の対象から外されたのだ。何か打算があってか否かは分からぬが、実に心得た行動を取る娘である。
ならば此方も興味を向けさせるまで。一旦少女を放置し、クロッカーはゆったりと部屋を出でて、扉に鍵を掛けた。流石に鍵を掛けられると動揺したのか、扉の奥で微かに気配が揺れたものの、すぐに平静を取り戻す。何処までも普通の少女とは構造を異とした精神であるが、しかし。この程度で揺れるならば、突き壊すのは容易い。
わざと木の床を鳴らして、クロッカーは廊下を渡った。
階段を降り、二重扉を開けて、更にもう一枚の扉を開け。コンクリートを打ち放したままの狭い部屋に足を踏み入れ、置かれた椅子にどかりと腰掛ける。
椅子の肘掛けに頬杖を突き、不遜に足を組んで、ただじっと視線を下ろす先には。
「……また、お前か……」
「おや、まだ正気でしたか。つくづく強情ですねぇ貴方も……さっさと手放した方が楽じゃありません? 薬だって無限に出てくるわけじゃないんですよね」
手錠で四肢を戒められ、力無く床に転がされた、六十路の男。憔悴しきった様子で呻くその身には無数の擦り傷や打撲傷が見え隠れ、着けた白手袋の指先には血が滲んでいる。そして、その首から上でぐったりと投げ出された黒電話の頭には、痛ましい引っ掻き傷とひび割れ多数。
目を覆わんばかりの悲惨な
「戯言を……
「最初は皆同じこと言うんですよ、貴方も変わりませんね。再現性が取りやすくて楽です」
弱々しい反駁には冷笑を。ゆっくりと近づき、クロッカーはテリーの目の前で黒い箱を取り出すと、取り出した瓶の蓋を開けた。老探偵がそれに慄き暴れることはない。瓶のラベルに書かれた文字を追うほどの気力は最早なく、それ以前にされることはもう分かりきっている。足掻いたところで、かの
されるがままに首を晒され、注射針を刺される。ひやりとした薬液が血管に流し込まれ、全身を廻り――
「ぐぁ゛、ゔ、ぐぅ……っ」
火で炙られるような悦楽が、理性と神経を灼いた。
何度受けても慣れることの出来ない苛烈な刺激。存在意義を満たすよりも尚至高の多幸感。理性を繫ぎ留める気力ごと押し流そうとする感情の奔流を、テリーは胎児の如く背を丸め、縮こまって堪える。それでも抑えられない強引な幸福が、緊密に練り上げられた男の精神をやすりのように削り取った。
気を抜けば上がりそうになる呼吸を意識して鎮める。爪の剥がれかけた手を握りしめ、その痛みに理性を繋ぐ。頭を叩きつけて無理に引き戻したこともあるが、却って自分を追い詰めるだけだと悟って止めた。頭を打ち付ける代わりに、息を吐き出し、吸わずに止める。酸欠にのたうつ身体は柱時計が戒めた。がちゃん、と手錠の鎖を鳴らし、手首足首に擦過傷を増やしながらも止め続けなば、ふつりと糸の切れるように意識は暗転する。
不意に動かなくなった老探偵を見下ろすクロッカーの様は、ひどく楽しげ。浅く上下する胸に軽く手を当て、くつくつと企む少年のように嗤って、スーツの内ポケットへと手を差し入れた。
「火に放り込んだ薪です。どんなに足掻いたって、貴方は燃え上がるしかない」
やや高い声は謳うように言葉を紡ぎ。毒と、それと同じだけの憐れみを交えて独り言ち、黒い手袋を着けた手が、違う箱を取り出した。
中より取り出だしたるは、ラベルのない瓶。その中に満ちた無色透明の液体を新しい注射器に吸い上げ、晒した首に針を刺す。そのまま
傷からの出血が収まったことを確認し、手を離す。その手で素早く瓶の蓋を閉め、箱に収めて立ち上がったクロッカーは、足元に零れた苦しげな呻き声に、己の企みの成功を知った。
「ぁ゛、ぁ……っ、何、が……」
束の間の眠りから叩き起こされ、身を苛む多幸感と身体中から沸き起こる妙な熱さに身をよじる、テリーの姿。呼吸は鎮めることも出来ずに上がりきり、急に上がった熱が内に篭ってひどく居苦しい。然れど
そんな彼を見下し、柱時計は嘲笑う。
「僕が『inferinone』しか使わないなんていつ言いました? 普通の興奮剤だって使いますよ。貴方みたいに心得た物の為にね。何、正確な結果を取るのに寝てもらっちゃ困るんです」
「……!」
――不覚。
熱に浮かされたように浮沈を繰り返す意識、その夢と現の間で、テリーは己の認識不足を心底恥じた。否、実際悔悟の声を上げたかもしれない。それも分からぬほど、精神は不安定だった。
クロッカーは、何も偶然知り得た知識を濫用しているだけの物ではない。薬理知識を持ち、調剤技術を持ち、その為の資材と道具を持っているのだ。いくらヒントが少なかったとは言え、思い至るどころか考えもしなかった己の愚かさに、ただただ意味のない後悔が募る。
うう、うう、と。喃語じみた低い呻きを漏らす老探偵に、クロッカーは余裕綽々の体で背を見せた。最早此処に用はない。後は、彼が理性を手放してしまうのを待てばいい。時間はいくらでもある。
「貴方はどのくらい耐える方でしょうか? 後一回? 二回? それとも、僕の望んだ結果を吐き出してくれますか。楽しみですねぇ」
「待て……ッ」
「待ちませんよ、僕にそんな義理ないですし。――じゃ、お達者で」
分厚い扉を閉めてしまえば、最早どんな言葉も通じない。
大股に、わざとらしく床を鳴らして立ち去るクロッカー、それと入れ替わりに。
「誰だね、君は……?」
衰弱しきった老探偵、その前に、一人の童女が立った。
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