三十九:事故
長く、気を失っていた気がする。
「アザレア……アザレア? ねぇってば。大丈夫? 顔が真っ青だわ」
「ぅ……へ、平気……」
「全然平気って声してないわよもぉっ、本当に平気?」
「大丈夫、大丈夫です……」
ピンズの声でようやく人事不省から立ち直った時、アザレアがまず感じ取ったのは、鼻をつく草の香り。中学校のボランティア活動だか何だかの一環で毟った校庭の草、それによく似た青々しい匂いに、己の試みの成功を知る。確かめる為に顔を上げれば、軽く柔らかい感触が後頭部に感じられた。
ひしとしがみついていた肘掛けから手を離す。その手で周囲を探ると、もさもさと音がして指に何かが絡んだ。次いで眼を開ける。恐らくはスペクトラが頭の照明を点けたのだろう、存外に明るい視界に映るのは、そこら中一面を覆う――草、草、草。
そう――アザレアが咄嗟に引き出した“案内人特権”は、客車の一両を丸ごと白詰草で埋め尽くすに至っていた。
ゆっくりと、
後頭部に被さる草を自力で奥に押しやり、座席に背を預ける。どうも重力の方向が窓側に傾いている気がするが、今のアザレアにそれを気にするだけの余裕はない。猛烈な量の白詰草を生成したせいか、尋常でなく身体が疲労していた。
「大丈夫? 怪我してない?」
「どこも痛くないから平気……それより、何があったんですか?」
「わたしに聞かないで。スペック?」
大事そうに裁縫道具を抱えたピンズは、気丈に振る舞いつつも落ち着かない様子。神経質な所作で話を振ってきた彼女、その不安定な情緒を汲んだスペクトラは、冷静かつ柔和な声を出すことに努めた。
「車両が脱線したようです。先頭車両は――位置からして、街の中に突っ込んでいる可能性が高いですね」
「な……」
絶句。俯き、握りしめた拳を見せないようにしながら、スペクトラは念を押すように言葉を重ねた。汽車は街の中に突っ込んでいる、とのみ。
再びの絶句。頭の整理に長く長く時を費やし、ようようピンズは震え声を零す。
「駅の近くは歓楽街よ? 人も物も沢山集まってるはず……そんなとこに汽車なんか突っ込んできたら、そこにいたひと達は? どうなるって言うの?」
「――――」
沈黙は肯定なり。覚えている。
つまりは、そういうことなのだ。
だから、横で聞いていたアザレアの決断は早かった。注意しいしい傾いた床の上に立ち上がり、物殺しは
己の半分も歳を経ていない少女とはとても思えない鋭さ冷たさ。そんな彼女を、スペクトラは頼もしく思う一方で、僅かに恐れてもいた。だからと言ってそれを表に出すほど素人ではない。平静を取り繕い、目先のことにのみ集中できる程度には、スペクトラは経験を重ねている。
「スペクトラさん、この窓割れますか? 入口まで行ってる時間が惜しいので」
「やってみます。二人とも少し下がって、耳を塞いでいてください」
警告に従い女性らが距離を取る。十分離れたところで、軍靴の踵を分厚い窓ガラスに押し当てた。
嫌でも緊張する。何しろ古い車両である。負荷を一点に掛ければ粉々に割れる、と言った、近代的な配慮のある代物ではない。下手にぶち抜けば脚に破片が突き刺さってもおかしくはないし、それ以前に己の脚力で割れるようなものかも不明だ。慎重に見定めねばならなかった。
少し体重をかけ、再確認。片脚で破るのは不可能と判断。もう一度確かめ、数歩窓から引き下がる。間を置かず助走、下り勾配であることを利用して速度を稼ぎ、窓に向かって大きく跳躍した。
曲げた脚に力を溜め――
「ォラァアッ!!」
上官そっくりな裂帛の気合と共に、窓の中心へ正確に両脚の踵を叩きつける。
七十年以上現役を保ってきた厚いガラスも、成人男性の体重と速度の乗った一撃には耐えられない。ガラスが割れたと言うよりは、レンガを打ち砕いたような鈍く重い悲鳴を上げて、窓には蜘蛛の巣状のひびが入る。割ることは出来なかったが、こうなってしまえば後は簡単だ。空中で姿勢を整え足から着地、すぐさま立ち上がったスペクトラは、ひび割れに向けて思い切り拳を振り抜いた。
威勢のいい断末魔と共に、勢いよく窓の破片が飛び散る。尖ったそれを全て外に叩き落とし、自分が楽に通り抜けられるだけのスペースを確保して、スペクトラは女性らの方を振り返った。
「行きましょう。手を」
「ありがと……大丈夫?」
「この程度じゃ怪我しませんよ、俺は」
最初にピンズ、次にアザレア。片や恐る恐る、片や軽やかに、自分の身長ほどの高さから地面に着地した二人を確かめてから、自身も飛び降りる。砂利を踏む微かな音だけを残し、一挙動で立ち上がった軍人は、すぐさま物の街の方へと意識を飛ばしざま、頭に据えられた照明を最大光度で点けた。
白々とした光が、暗闇に隠れていた惨状を明るみに出す。無辜の民たるピンズに、物殺しに、何より己に、少なからぬ衝撃と動揺を叩きつけながら。
「ぁ、あ、嗚呼……っ」
「ピンズ、大丈夫?」
「だ……大丈、夫。大丈夫なのよ。きっと大丈夫。こんなに酷い時なら、案内人が来てくれるはずだから……きっと……」
線路から完全に脱落し、横倒しになった客車。ボイラー室があったであろう場所から、降り注ぐ大量の雨にも構わず、
そして、それら積み重なる瓦礫と死傷者を越えた先。ほんの数十メートル先にそびえるレンガの壁は、土砂崩れを起こした山の如く。大岩じみた壁の塊と細かなレンガの破片を周囲に撒き散らしながら、完膚なきまでに破壊されている。
テレビの向こうに見るような、惨憺たる事故現場。その只中。照明で照らされる時にのみ惨禍の光景を見せる様は、妙に現実感を欠いていた。
これは何かの悪い夢なのだ、と。己は未だ汽車の中で、眠り込んでうなされているだけなのだと。そう思い込みたくなる程度には、暗がりに浮かぶ地獄絵図は絵画じみて深い陰影を刻んでいる。
我を忘れて立ち尽くしていた三人。現実逃避に忙しいその意識を、まずは物殺しが現に引き上げた。
「スペクトラさん」
「はい?」
「何か、動いてませんか?」
指差す先を照明が照らす。明るく調整された光が浮かび上がらせるのは、大粒の雨の筋と、半ば横倒しに近いほど傾いた車体、重い鉄塊からの暴虐により建物としての寿命を迎えた廃墟。そしてそれらが積み重なる下、両脚を挟まれた状態で伏臥する物が一人。脱線時に何処かでぶつけたのか、紙箱は右側が大きくひしゃげている。それでも、箱に緩やかなアーチを描く緑と薄緑の線と、取り出し口からはみ出て雨に揺れる
そうだ。知っているのだ。彼は。
だからこそ、思わず名を叫んだ。
「ステアリィ、さん」
「ゔ、ぐ……ぁ……スペク、トラ……?」
倒れ臥していた男――ステアリィは、まだ生きていた。
しかし風前の灯火であることには変わりあるまい。上体を起こすことも出来ず、辛うじて三者の元まで届いた声は、全身から発せられる痛みにひどく弱々しい。最早意思の確認をするまでもなく、三人は伏臥する男の傍まで駆け寄る。
近くで見たステアリィの容態は、控えめに言っても良くはない。紙箱の頭は言わずもがな、人の身も切り傷や刺し傷多数。抜け出そうとして暴れ回ったものか、手はいくつもの擦過傷で赤くなっている。そして何より、男の腰から下は、
ただ、これですら物にとっては、物理的な意味に於いて致命傷ではない。人の身がいくら傷ついたところで、彼らは人ではないのだから。心が折れさえしなければ、物は死に至らない。
しかし。裏を返せば、心が折れてしまえばそれきり。どんなに小さな傷からでも、その痛苦が許容を超えているならば、物は死ぬ。とてもあっさりと。
ならば、ステアリィは?
「た、助かった……ぅ、すまないが、これを、退かし、……くれ、ないか……? な、るべく、早く……頼む、痛くて……し、死にそうだ」
彼はその点、人によく似ている。アーミラリのようには、やはりいかぬのだ。
今にも消え入りそうな声音で助けを求めるステアリィ、その傍に片膝をついたスペクトラの答えは、とうに決まっていた。
「当たり前です」
「はは……後で、礼を……言わないと、いけないな……」
「ええ、後で。貴方が物の街に赴く理由も説明して頂きたいところです。――アザレアさん、少し」
声音を変えて名を呼べば、皆まで言うなとばかり物殺しが廃墟の残骸へ近づく。原形をほぼ失いながらも、複雑に噛み合い折り重なったコンクリートや鉄筋は恐ろしく堅固で、スペクトラはおろかフリッカーでも、キーンですら動かせそうにない。徒手空拳ではどうしようもないものだ。
しかし。
アザレアは徒手空拳などではない。
「ちょっと、これは……えっと、ステアリィさん? ごめんなさい、痛いかもしれないです。なるべく痛くないように退かしてみますけど」
「瓦礫が、何とかなるなら、それで……構わない。だから、早く……」
「分かりました。――それじゃ、やります」
どんな特権も、使うもの次第。
瓦礫に手を当てて状態を確かめ、既に限界の身体へ鞭打って、特権を行使する。
明確なイメージなど必要でない。この状況を覆せるならば、どんな
先も見通せぬほどに堆積する瓦礫の、ほんの僅かな隙間。少女の細腕も通らないほどの狭い隙間に、白い靄が入り込む。ずっしりとのしかかる疲労を、アザレアは強引に無視。眉根を寄せ、握りしめた手に力を籠めて、更に事象を引きずり出していく。
鉄骨を押し上げる軋みと共に、瓦礫がほんの僅か、浮き上がった。
「あ……」
安堵と驚きを交えたステアリィの溜息。聞こえない。
ガリガリと彼方此方を削り、圧し折り、
枝の伸長は五メートルほどの高さを稼いだ後、ゆっくりと止まり。夜闇を裂く稲妻の如くに白い木が屹立したかと思えば、天から絵具を
後に残るのは、痛々しいほどに歪な形の、黒い樹皮の松。ギシギシと不穏な悲鳴を上げるそれは、しかし地面に対して強固に根付き、ステアリィの下半身に覆い被さっていた瓦礫を押し退けている。アザレアが這いつくばっても侵入出来そうにないほどの狭い空間だが、ずっと押し潰されていた男にとっては、この上もなく楽な空間だ。
――ありがとう、助かった。
そう言いかけたステアリィは、次の瞬間、少女の身体が傾ぐのを見た。
「あ、アザレアッ! アザレア!?」
駆け寄ったのはピンズ。受け身も取らず倒れそうになった身体を全力で抱き留めつつも、婦女子の腕で力を失った身体は支え切れず、一緒に地面に座り込む。しなやかに艶めく長い茶髪、その落ちかかった一房の間から覗く見開かれた瞳は、現実を見定めず茫洋と揺れていた。
しかし、それも寸秒のこと。何かを堪えるようにぎゅっと強く目を瞑り、そして開いた時にはもう、いつもの強くひたむきな輝きを秘めたものに変わっている。
「早く……」
「え?」
「早く、ステアリィさんを、外に……瓦礫が、重すぎる……多分、崩れる」
敬語を探している余裕はない。ただ、伝えねばならぬことだけを最小限に告げる。そんな物殺しの姿に、ピンズは状況の深刻さを悟ったらしい。黙って頷き、倒れたまま動けぬ物へ膝を寄せる。
眼前で命の恩人が座り込んだことで安心出来なくなったか、或いは単に痛みでそれどころではないのか、両方か。はたまた別の要因があるものか。ともかく、ステアリィは不安げに膝を寄せてきたピンズを見上げていた。その損壊著しい頭に、ピンズはなるべく、涙ぐましい努力を以って、平静を装った声をかける。
「大丈夫よ、スティ。きっと大丈夫……」
「ふふ、ふ。そんな、痛ましく繕った声で言われても、ね……その言葉は信じよう。でも、“君”の大丈夫は……信用できない。そっちは、助かってから信じるさ。助けてくれるんだろう?」
乾いた笑い声に、励まされたのはピンズだった。苦笑しつつ首を縦に振れば、うんうんと鷹揚に点頭を数回。力なく投げ出していた諸手に力を込め、ゆっくりと地面を掻いては、持ち上がった瓦礫の下から半身を引き抜く。途中からはピンズとスペクトラも手伝い、無事にステアリィの身体は破砕された家屋の下から救出された。
スペクトラが脱ぎ広げた外套の上へ、仰向けに寝かし直される。コンクリートの直撃した両脚の脛が折れていることと、投げ出されたときにぶつけたらしい腰をしたたか痛めていることを除けば、怪我自体は命を奪い去るようなものではない。人間が負えば後遺症の一つや二つは残るだろうが、物であれば十分な療養で完治する程度だ。
それは、スペクトラの容態を確かめる問いに対する、ステアリィの明瞭な受け答えからも察せられることだろう。
「脚以外に折れている箇所はない。打ち身は全身にあるが、それは大丈夫だ。休めばすぐに治る。――私はしばらく
「…………」
「
「分かっていますが」
「なら何故しない。死ぬほど痛いが、この程度で死にはしないさ」
「……違う。違います」
――何が?
ステアリィが問う、それより早く。
物の街の方で、目も眩む閃光が迸った。
驚く暇もない。閃光に次いで腹の底さえ揺らすほどの低い轟音と地響き、そして最後に、遠く離れながら尚軍人の姿勢をさえ崩す衝撃波が襲う。残るのは遠い悲鳴、断末魔の絶叫に、増えた慟哭と
もしもスペクトラが人であったなら、苦虫を百匹は放り込んで噛み潰したような渋面にでもなっていたところだろう。しかし物に表情はなく、ただ緩慢に、心を落ち着けるべく照明が点滅するばかり。ともすれば苦しさの滲む声を何とか平静に保ち、袖口で焦げ臭い風を遮りながら、彼はやおら絞り出す。
「貴方は、分析所に勤める分析官です。知能面で言えば物の中でも屈指と言えます」
「そうだろうな」
「外はもう夜です。そして先程の爆発……あれは奴等の目を引くに余りある。十分と経たず“粗悪品”が集まり始めるでしょう。そして、“粗悪品”が知性ある物を襲うことは貴方も御存知のはず」
「嗚呼」
「知能が高く、街の外に身を置き、怪我を負って動けない。――ステアリィさん、貴方は恰好の餌です。この場の誰よりも先に襲われるかと」
「成程。私らの護衛と言うわけだ」
そういうことだ、と。声にはせず、立ち上がる。
大雨に煙る荒野を、真っ白な光が一筋、真っ直ぐに貫いた。
先は、見えない。
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