三十八:警告
ある程度名簿の整理を終え、重たいボール箱を部屋の隅に何とか積み上げたところで、クロイツが仕事終わりの合図と紅茶を淹れる。
ここ数日ですっかり馴染みになった終業後の茶会。巡回や墓の手入れを終えた墓守達も交えての休憩をのんびりと過ごし、最後にピンズがクロイツへ縫いものの終わった
外は既に日が落ちて暗い。おまけに大雨である。親切な守長は停泊も薦めてくれたが、流石に墓守と一悶着あった後で部屋を借りるのは、いくらなんでも図々しさが過ぎる気がした。持たせてくれた傘は有難く借りていったが、それとて微妙に後ろめたさは残る。
先導はピンズの荷物を抱え、舞台照明の頭を煌々と光らせたスペクトラ。殿は護身用にとベストにナイフを携えたアザレア。光に照らされた大粒の雨滴が虚空に白線を刻み付ける中、貸し出されたチェック柄の傘を頭上に差し掛けながら、三者は水たまりを避けつつ荒野を歩く。
今日の荒野に、惑いはない。
「誰も、いない」
がらんとした駅舎、無人の駅長室、隅々まで雨の降り込んだホーム。
五分の短い道のりを歩いた三人を出迎えたのは、誰もいない月の原駅。そこにアザレアがまず感じたのは、とてつもなく嫌な予感だった。具体的に何がどうと記述するにはまだ情報量が少なすぎたが、しかし物殺しとしての勘が告げている。あってはならぬことが此処で起きたと。
それは仕事と墓参を終えて一緒に帰ってきたピンズと、その送迎役を引き受けていたスペクトラにも、少なからず感じ取れたようだ。ぞっとするほど静まり返った駅舎には、掠れた舞台照明の声だけが転がり落ちてゆく。
「血の臭い……」
「血?」
「実際に臭うわけではないですが。しかし、直近数十分の間――長くても一時間以内に、此処で何か起きたようです」
「ちょっと、墓地の最寄駅よ? 縁起でもないこと言わないで頂戴」
耐えがたい空気にピンズが神経質な声を上げる。髪の毛のように垂れた長い縫い糸の先、結び付けられて揺れるビーズの輝きが曇るのは、果たして曇天の光量不足だけで説明し得るか否か。
不安がる女性陣をよそに、スペクトラは床を検分。ホームは線路に近い側からその反対の端まで満遍なく濡れている。いかな大雨とは言え、これを雨滴の降り込みと言うだけで説明するにはあまりに不自然だ。しかし、本当に此処で血が流れ、それを洗い流した痕と仮定するならば、この有様にも納得がいった。
問題はそんな刃傷沙汰を誰が起こしたかだ。
――嫌な予感しかしない。
取り急ぎ、アザレアとピンズには壁にぴったりと背を付けて警戒するように言いつけ、自身は着込んだ軍服の懐からナイフを引き抜いた。刃が細くなるほど研がれ使い込まれたそれは、彼を支えてきた大事なものだ。返して言えば、そんなものを抜かねばならない空気を感じたと言ってもいい。
周囲に巡らす探知網を意識。傍らで警戒を強める女性二人がまず掛かり、そこから更に数メートル――
引っかかった。
否。
現れた!
「誰だ!」
己の背後から感じた気配。敵意や殺意と言った悪感情ではなさそうだが、この寸秒の間に突然出現したのだ。警戒と猜疑も露わに爪先で地面をにじり、スペクトラは身体ごと頭とナイフの切っ先をその方へ向ける。気配の主は、そんな鋭利な意識を向けてくるものに、しかし大した反応はしなかった。
だらりと両腕を垂らし、幽鬼のごとく頼りなく佇む人影。頭の辺りでちらちらと薄暗い光が点滅している辺り、十中八九正体は物だろう。スペクトラは片手で女性二人をその場に制止しながら、ずかずかと大股でその方へ近寄った。途中からは自身の頭の照明も煌々と点灯させ、彼はその人影の前に立つ。
みすぼらしい
“粗悪品”だと、スペクトラは思った。
「こんな早くから“粗悪品”がうろついているとは思っていませんでしたよッ!」
素早く地を蹴り、接敵。逆手に持ったナイフを振り下ろす。
相手の反応は鈍い。挨拶代わりと言わんばかりの一線が肩のすれすれを裂いたところで、ようやく自分の相対する物が恐るべき力量の持ち主と察したらしい。動揺する素振りを見せながら、よろよろと後ろに引き下がろうとする。勇ましくも無謀に向かってゆくばかりの“粗悪品”が多い中、怯えて逃げようとする動きに少々引っかかりを覚えつつも、攻撃を止めるほどではない。雑念をすぐに消去し、スペクトラは刃を順手に構え直して、首筋に向け一直線に振り上げた。
刃は狙い過たず頭と首の間に潜り込み、
僅かなノイズと共に、すり抜ける。
「特権……っ!」
流石に“粗悪品”との交戦歴の長い物である。それが実体でないことを即座に察し、スペクトラはすぐに刃を退いた。幻をどんなに切り付けたところで、結局は消せないのだ。ならば諦めは早ければ早いほど良い。
深呼吸。高ぶっていた気を落ち着け、改めて虚像を眺める。
半壊し、空いた穴から千切れたコードを垂らすテレビの頭。身に着けているのは白いシャツと
“粗悪品”と判断するには十分すぎるほどの、あまりにもみすぼらしい姿。少々異様な点があるとすれば、ボタンが取れて露わになった胸元に、綺麗な縫合痕――明らかな外科処置の痕があることか。それがどのような意図で付けられたものにせよ、傷の処置を施された“粗悪品”など、スペクトラは見たことがない。
恐る恐る手を伸ばす。それが幻覚と分かっていても、そうしたくなる。けれども、その虚像は逃れるように二歩後ろに引き下がった。切りつけられた恐怖を覚えているとでも言うのだろうか。もしこれが特権で作られた幻ならば、その特権は想像を絶するほどの強力さであると言えよう。
ともあれ、スペクトラ達と一定の距離を置く、“粗悪品”の幻。ぐったりと力なく地面を見ていた頭が、ゆっくりと三人を見る。
「――、――――、――……」
「あれ? ピンズ、スペクトラさん」
まず気付いたのは、スペクトラの背後まで歩み寄った、アザレアだった。
襲い掛かりもせず、どころか若干距離を置きつつ、それでも消えることなく三者を見る、満身創痍の男。その頭に光る液晶が、ゆっくりと、何かの規則を以て明滅している。具体的にどんな内容かは分からないが、規則性があることだけは、その聡明さが見抜いた。
そんな彼女の声にスペクトラは改めて男を見、そして気付く。
「……a、t、t、i……“あっち”? 何を言ってるんでしょうか……」
命得る前の
困惑しいしい暗号を読解したスペクトラ、その声に、幻は反応を示した。よろりとその方へ向き直り、速度を速めて暗号を送る。スペクトラは背後の女性達に目配せし、三人揃って頷きあうと、ちかちかと点滅する画面を見つめた。
スペクトラが、声なき言葉を代弁する。
“駅長 銃 血 時計 誘拐 探偵 レール 歪み 街 物”
示されたのは、断片的な単語の羅列。所々に混じる物騒な単語からして、重要なことを告げているのは誰しも理解出来ることだが、それと事態の把握は別物である。スペクトラが解読して告げた内容に、告げた本人も含めて疑問符を浮かべた。
いまいち伝わっていない、そのなんとも言えぬ空気を感じ取ったのだろう。男は一旦テレビの画面を消し、俯いて考え込むような素振りを見せたかと思うと、後ろから押されたかの如く座り込む。相変わらずの幻覚とは思えぬ精巧さに、思わずスペクトラが後じさったのも構わず、それは苦しむように頭を抱えて画面を明滅させた。明滅に伴って映し出される画像は目まぐるしく切り替わり、砂嵐に戻っては、また切り替わる。伴って、画面横に付いた二つのダイヤルも複雑に行きつ戻りつを繰り返す。
狂態。男の苦悶を、スペクトラにはそうとしか形容できなかった。
「だ、大丈夫です?」
「……! っ、ッ――、!」
思わず溢れた問いに答えはない。ざ、ざざ、と、雨音にも似たノイズを血のように吐き出し、ただただ身を捩り震える。
――否、本当は言いたいのだろう。声に出して。言葉にして。だが、今のこの幻覚は、どう言うわけか言葉を発することが出来ないのだ。
スペクトラは知っている。物が知性を失って出来た“粗悪品”は、彼のように声を失うのだと。そして、それが己の能力の範疇ではどうにもならないことも。
故に、待った。彼が言葉と声を見つけ出すまで。
「――ぁ゛、ガ……あ゛……!」
「!」
幻覚の
油断などしていない。スペクトラはその場にそっと片膝をつき、まさに紡がれんとする忠告に耳を傾ける。幻もそれに応えんと、喘ぐように喉を掻き毟り、既に痛々しい傷の上に更なる生傷を増やした。
「ゔ……ぁ゛、あ゛……ぉ、ル……」
「ル?」
「ォン、けル……」
心臓が痛いほど縮んだ。
“粗悪品”から、顔見知りの、しかも危険に巻き込まれているらしい物の、名が出たのだ。確実に彼は何か知っている。
ズキズキと痛いほどに跳ね上がる心臓を抑え、そっと調息。尚も何か言おうとしている幻に、黙って続きを促す。果たして彼は、がちがちと震える指で、物の街の方を指差した。
「ゔ、づ、つレ、で……いかれ、タ……ゔぅ゛……あ゛、ェあー……ズ」
「エアーズ、人の街の人足ですね。その彼が、手段はどうあれ物の街にオンケルさんを連れて行ったと」
相槌を打つスペクトラに、男は理解の色を見たか。安心したように腕を降ろし、そしてまた俯く。もう何処に誰が連れて行かれた、とは言い切ったのだから沈黙してもいいはずだが、まだ言い足りないらしい。
「ゔ……ぇ゛、い……ぅ゛……」
「何です?」
「ぇ、え゛……て、リ……」
より強く喉を掻き、言い辛そうにようやく一言。聞き取る意識をより強め、頭を縦に振る。
頼むからまだ消えてくれるな、もう少しだけ気張ってくれと、そんなことを“粗悪品”に思うことなど、もう後にも先にもこの一度しかないだろう。内心で苦笑したスペクトラは、溢れてきた呻き声の切迫した響きに、否応もなく意識を引き戻される。
「ひ……ぇ、ゔ……てリー……さ、らワ、れタ……ぁ、……が、ぐ、ゥ゛ゔ……」
「テリーさんが、攫われた? 誰に!」
「クろ、っかー……ぁ゛……いヅ……ヵ゛……ぁ゛あ、あ……ゎガ、ラな、ぃ゛」
わからない。その一言に失意を滲ませ、幻は遂に力尽きた。
ぶつりと何かを断ち切る音がして、画面にちらついていた光が消える。待て、とスペクトラが手を伸ばすその前で、しかし待つわけもない。男の輪郭が一瞬大きく色ずれを起こしたかと思えば、画面に油をぶちまけたように全体がぼける。突然の変貌に怯む軍人を置き去りに、男の虚像は音もなく消え去った。
後には何も残らない。ただ、濡れたコンクリートと、静寂のみが横たわる。
それからややあって、最初に声を発したのは、アザレアの後ろに庇われていたピンズだった。
「スペック? 平気?」
「……俺は平気です。貴女こそ」
「わたしにはアザレアがいるもの」
スペクトラはフリッカーに鍛えられた軍人で、アザレアもキーンの手ほどきを受けた物殺し。ことこの場に於いて、一番荒事へ抵抗し難いのはピンズである。であるならば、か弱い女子高生のアザレアであろうとも、頼もしいのは間違いなかった。
ゆっくりと脚に力を入れて立ち上がる。周囲を警戒しつつ、アザレアもピンズを連れて――もとい、左腕にまとわりつかせて――隣に歩み寄った。
「あの、さっきの物は」
「貴女が以前出会った物と、恐らくは同じでしょう。まさか、雨の日に此処で惑わされるとは思っていませんでしたが」
「雨の日は居ないんですか?」
「ええ、ほぼ確実に。駅の中で本体を見ることもあるらしいですが、俺は見たことがないですね」
晴れた日に本体を見たことはあるが、とは言わなかった。そんな瑣末なことを言っても仕方がない。此処で言うべきは、もっと大事なことだ。
即ち。
「どっちを優先しますか? 個人的にはオンケルさんの方を優先したいです」
オンケルと、テリー。同じく危機にある内の、どちらをより優先するかだ。
両方とも助けに行く。そんな都合の良い選択肢はない。この三人で出来ることの少なさは誰の目にも明らかであるし、それを何とかする手段が限りなくゼロに近いことさえも、皆理解してしまっている。なればこその問いであった。
婦女子の口から出たとは思えぬ冷徹さ。そこに対する驚きを丁寧に隠して、スペクトラは一考する。その時間は、恐らく数秒もないだろう。
「俺も同意見ですね、居場所が分かっている方を先にしましょう。テリーさんは荒事慣れした方ですから、少々放置しても何とかするはずです。……それに、少なくともピンズさんは、もう街に戻った方がいい」
「あ、うん……ごめんなさいね、スペック」
「いえ。荒事は荒事慣れしたものの仕事ですから」
遠くを見ながら語るスペクトラ。視線の先には、灯りを煌々と点け、大雨に濡れるレールを照らしながら走りくる汽車の姿が映る。同時に、駅舎に設定されたタイマーが、寸分の狂いなく停車の合図をホーム中に掻き鳴らした。
物の街に向かう各駅停車の汽車、その最終便。シンシャが乗り逃がした便より一時間遅れで来たそれに、三人はいそいそと乗り込んだ。
「駅長、銃、血。時計、誘拐、探偵。レール、歪み。街、物……」
物が一人二人乗っているだけの、閑散とした車内。その隅にある四人掛けの席に腰を下ろし、小一時間の時が過ぎて、最大速の汽車は
そんな時分、口の端からにわか転がり落ちた少女の声に、半分寝かかっていたスペクトラは目を覚ます。ピンズの方は気を張って疲れていたのか、自分の腕を枕にして眠り込んだまま。しかし、気にする必要はない。荒事慣れした二人だけが知り、共有すればいい話なのだから。
どうしたのか、と低く問いかける。こめかみの辺りを手で揉みながら、アザレアは視線を合わせずに答えた。
「血の臭いの理由は、
「あの暗号ですか。確かにそう言っているように思えますが」
「じゃあ、レールと歪みって何なんでしょうか。レールって、今乗ってる汽車の、このレールだと思うんですけど。それが歪んでるってことですか?」
「それは……」
スペクトラは、言葉を失った。
アザレアの言うことはただの予想だ。予想に過ぎない。だが、そうとも考え得るのだ。むしろ、駅に出没した物がレールのことを話題に載せて、それが汽車と何の関連もないと考える方が難しいだろう。
――ならば!
アザレアの問いに答えはなく。
ただ恐怖に満ちた猜疑だけが、喉の奥から絞り出される。
「……物の、街。物の街の、レールが歪んでいる?」
恐るべき情景が、二者の脳裏を掠めると、同時。
地の裂けるような轟音が、足の下より響き渡る。
「二人とも伏せてッ!」
アザレアが叫んだのは、ほとんど勘だった。
しかし、間違いでは無かったと直後に確信する。声を上げた直後、車体が大きく傾いたのだ。しかも、傾きは理解の速度より尚早く大きくなっていく。それが実際にどんな現象であるかなど、考察する暇すら与えられない。確信に近い予想はあるが、この場の誰もそれを証明してはくれなかった。
そして、勘頼りに発した声を信じて動いたスペクトラが、寝ぼけて理解の追い付かないピンズに素早く覆い被さる。突然のことに慌てる女の姿を尻目に、物殺しは座席の肘掛けに抱きつくような恰好で縋りつきながら、ぎゅっと強く目を閉じた。
それは、覚悟ではない。
諦めでもない。
「ァァアぁぁ……ああアああア、ゔあああぁあああアア――――ッ!!」
己の“
轟音を上げ倒れていく車内を、真っ白な靄が塗り潰した。
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