四十:幻像
“傷病者及び婦女子計三名あり “粗悪品”の去るまで此方を優先す 上官のみにて対処願いたく 以上”
“了解 何事もなく連れ帰るべし 本日廃棄日にては数の多きこと予想されたし 健闘を祈る 以上”
光の暗号にて互いの意思を伝えあい、ブラインドを下ろしざま背後の男へ向き直る。探照灯の頭に備わる視界、その中心に収めたるは、地面に伝い落ちるおびただしい血にも構わず、死んだように息を潜めて佇むスーツの巨漢。アーミラリの自若さを以て仁王立つその姿を一瞥し、フリッカーは頭を再び前に戻した。
聞けば、瓦礫の下敷きになった物を引き出す際、崩れかかってきた建物の残骸をまともに背で受けたのだと言う。その際に降りかかってきた鉄骨は背から入って肋骨一本を砕き、片肺を完全に潰しながら右胸を貫いていた。しかし、彼はそんな素振りをおくびにも出さぬ。歩み寄ってくる所作にも乱れなく、強いて言えば、鉄骨による貫通創を手で押さえている程度であろうか。
ややあって付き人が隣に並ぶ。その時知覚した、むせ返るほどの強い血の臭いに、一旦は前方へ向けた意識を再び男の方へ向けざるを得なくなった。
「シャツ真っ赤だぞお前。平気か?」
「死ぬ傷ではない」
「どう見ても致命傷だが」
「他にとってみればそうだろうが、俺はアーミラリに“起こされた”身だ」
「……それで納得できちまうのがなァ」
控えめに評価しても、まともに立ってはおられぬ傷なのは確かだ。そのはずだが、キーンは少々語尾を掠れさすだけで平然としている。明らかに規格外が過ぎる気がした。流石にアーミラリの、あの死を知らぬ化物の“起こした”物と言うべきか。
空恐ろしさを誤魔化そうと、おどけた風に肩を竦めた。同時。
「ぅはははははッ! やったやった、大成功だっ! やったぞ、“粗悪品”どもを壊滅してやったわァ――!」
その名、モールディ。名乗る階級はフリッカーの自称するよりも低い中尉だが、探照灯の方は個人的に敬意を払っている。
何しろ少年の纏う軍服は、彼と付き合いの長かった海兵が勉学の合間に憧れを語ってくれた、旧き時代のものであるから。そして、少年の口から語られる、古色蒼然たれども深淵なる智慧と懐かしさにあふれ、アナクロなれど精緻に組み上げられる知識と計略の数々は、それを想起させるに十分すぎたから。
意識を研ぎ、大雨に煙る荒野の状況を粗方確認。気を取り直し、フリッカーは走り寄ってくる古辞書の中尉に向かって、丁寧に符丁を送った。
“戦況伝えたし 以上”
「おう! やったぞフリッカー大佐、罠が上手く効いた! 敵の数は半減だ!」
“何時も
「勿論であろう大佐! 貴殿らもだ、十分で片付けて来いッ!」
“可及的速やかに”
以上――そう暗号で伝える間もなく、モールディは二人の前に姿を現した。かと思うと、子供らしいすばしっこさと軍人らしい体力を以って荒野を走破し、瞬く間に物の街に向かって走り去っていく。けれども、ちらとキーンが向けた視線に聡く気付いて、その足は軽やかにその方で爪先を反転させた。
同じく身体をモールディの方へ向けたキーン、その胸元が赤黒く染まり、地面にも濃い血溜まりを作っている様には、少なからずぎょっとしたようだ。肩をひくりと震わせる。
「おぉっ何だどうした貴様、服が真っ赤ではないか」
「同じことをフリッカーにも言われたわけだが。鉄骨が刺さった」
「てっこつ、って――また貴様は。それは致命傷と言うもので」
「俺は貴方の言う渾天儀の起こされ子なわけだが?」
食い気味に返したキーンの声は、ややうんざりとしていた。自分は大丈夫だと何度も言っているのに、判子で捺したように同じ心配ばかりされては、返すのも面倒になるというものだ。
しかしながら、突っ撥ねられた方は当然ながら面白くない。この偏屈な少年ならば尚更にそうだった。
「こンのっ……折角心配してやっておると言うに、揚げ足を取るでない馬鹿物! 血止めするのであれば『ペンテシレイアの瞳』でも貼っ付けておくがよいッ!」
「ペンテ……何だ?」
「
つらつらりと述べられる薬草の知識に、キーンは密かに嘆息した。
『ペンテシレイアの瞳』の名は、アーミラリの持つ知識を辿る限り、三百年以上も前――少なくとも付き人がすぐに思い出せないほど古い時代――に使われていたものである。以前から片鱗は見えていたが、時にこの少年は、恐ろしく古い知識を引き合いに出してくるのだった。
さもありなん、とすぐ結論付ける。モールディの頭の辞書は年代の特定も困難なほどに古く、着ている軍服はどうやら数世紀前のそれである。安直に推理するならば、彼の頭となった辞書が編纂されたのは、着ている服の年代に近いであろう。そして人の身を得た彼が、
自身の中でギャップに折り合いを着け、思考を中断。少しばかり考えて、モールディのお節介に返答した。
「この程度の傷なら、放っておけば止まる」
「はぁあ? 馬鹿か貴様、その傷の大きさで自然治癒など、一体全体何日かかると思っておるのだ!? あのなケイよ、物にとて限界というもんがあるぞ! アーミラリの経験ばかり信じるな、先人の言うことも聞いておれィ!」
「いや、しかしだな」
「手立てが無いなら安静にしておけ大馬鹿物っ! ではなッ!!」
困惑げなキーンの声は食い気味に叩き潰し、黙り込んだところで踵を返す。そのまま何処か苛立たしげに駆け出していった少年の背を呆然と見送り、じくじくと血の滲む傷口をほんの少し強く押さえて、キーンは心中にじわりと広がる不安を殺しながら正面へと向き直った。
放置すれば止まると自信満々に言ったはいいものの、よく考えればかなり前から流血しっぱなしなのだ。これで死なないことは百も承知だが、こうまで止まらないと流石に身体が震えた。精神的な不安感のためと言うよりは、血を流しすぎて降下した体温を戻そうとする、人間によく似た生理反応のために。
そこに気付いたか否か、フリッカーが再び声をかけてくる。
「本当に大丈夫か? 手が真っ白だぜ」
「支障はない……」
「あー……はいはい、分かった分ァった。OKOK――」
はっはっは、と妙な朗らかさを以て大笑。余韻をたっぷりと含ませて、
「大人しく座ってろ」
脅迫は簡潔に温厚に、トーンを数段も下げて放たれた。
付き人の性質なのか生まれたてだからかは分からないが、彼はどうも自信過剰の傾向があるらしい。口ぶりからして、アーミラリに持たされた経験があるから大丈夫とでも言いたいようだが、あれは他者の体験があるだけで立てるような境地ではない。案内人の重ねた二千年とは、付き人が思うよりもずっと途方もないものだ。百余年生きた己はおろか、千年生きて尚及びもつかぬものに、最初から持っている手札だけで挑む愚を犯すならば。それは止めねばならないだろう。
そんなフリッカーの思惑を汲んだか否か、脅されたキーンはと言えば、最早声も出ない。失血による寒気と震戦で立ってもいられず、右膝を屈して座り込む。その拍子に服の裾が水溜まりの中に浸かっても、それを気にしていられるだけの余裕は失われていた。
大人しく休戦の体勢を取る付き人に対し、軍人は満足げに首肯。肩に掛けていた外套の雨滴を軽く手で払いつつ、広がる荒野の方へと意識を向け直す。視線の先には、雨に濡れてもお構いなしに群れなし来る、総勢数百の“粗悪品”ども。
「一人で防衛戦か。いいね、五十年前を思い出す」
「すまない……」
「けっ、そんな殊勝なタマかよあんたは。謝る余裕があるなら大人しく震えてな」
周囲の心配と脅迫にやり込められ、すっかり弱り切ったキーンの謝罪を笑い飛ばしつつ、探照灯は身を屈め。ぬかるむ地面に軽く指を触れ、意識を集める。途端、砂礫を押しのけて地面より飛び出し、男の手に収まったのは、見るも無骨な拳銃一丁。
特権による武装の生成である。尤も、今はより新しい武器が戦場の主流であろうし、性能とてそちらの方が上なのだろうが、彼に許されたのは旧型の武装のみ。もっと言えば、探照灯に命を吹き込んだ者が使った武装に限られていた。
だが。“粗悪品”と戦うには、それで構わない。
「あんたにゃ助けられてるんでね、借りを返すいい機会だ。任せな」
「は……ならば、任せた」
何処か面白げに一笑する付き人には、振り返らず。両手で構えた自動拳銃の
雨音を掻き消す重い発砲音。目にも留まらぬ速度で飛翔する弾頭は、豪雨に紛れながら空を裂き、狙い通りに半壊した陶器の頭を粉砕した。どうと倒れ伏す“粗悪品”の肉体を、他の“粗悪品”どもはしかし、気にもかけない。体温を失っていく肉塊を避け、或いは踏み潰し、或いは避けもせずつまずきながら、一心に崩れた壁の方へと向かい歩いていく。
――“粗悪品”が動く原動力は、欠けた知性理性への渇望。なれば、それを元々持たぬ同胞など、意識の片隅に置く価値すらないのだ。
「……考えても仕方ねェな」
憐れだと思いかけた自身を呪う。“粗悪品”に情が湧けば、戦いにくいのは自分だ。己は他に害成すモノを無心で潰すのみ。それだけでいい。弔いは後でやればいい。
同情心を。憐憫を。或いはほんの少しの共感と、恐怖を。諸々まとめて、湧き立たせた闘争心の内に押し殺す。銃の構えは解かず、まだまだ距離のある“粗悪品”どもの群れに向かって、一発ずつ弾丸を叩き込んだ。
多少照準が適当でも、今の密集状態ならば当たる。銃声が響く度一人ずつ倒れ、還っていく物ども。知性の喪失した“粗悪品”は、眼前で起こる異常と、知覚する銃声を結びつけることすら出来ない。ただただ、巨大な目標に向かって足を進めるのみ。フリッカーにとってこれほどやりやすいことはない。
打ち尽くした弾倉を投げ捨て、再装填。銃弾が尽きるまで撃ったらまた装填。単調な作業を数回繰り返し、五十体近い“粗悪品”が斃れたことを確かめて、フリッカーは手にした拳銃も投げ捨てた。
「結局は徒手空拳なのか……」
「やっぱ直接殴るのが一番早ェんだよ。それに、あんまり派手に特権使うと叱られちまうんでね、案内人に」
「派手にやったのか」
「嗚呼。
――何だって?
聞き返す暇もなく、探照灯は迫る物どもに向けて駆け出していく。間を置かず、轟音を立てて吹き飛ぶ数体の“粗悪品”。ぼろ雑巾の如く地面を転がり、己の近くまで飛ばされてきた力無き肉にちらと視線を落とし、キーンは胸を押さえていた手をそっと離した。
血はまだ止まっていないが、勢いはそれでも少しは落ちた。とは言え、この防衛が終わるまでにはやはり止まりそうにないし、それでなくとも一度失われた血は当分戻らぬから、助太刀はおろか立ち上がることも厳しい。大人しくフリッカーの背を見届ける他に、やれることは無かった。
……否。
本当にそうなのか?
「何だ?」
知性ある存在を認知したことで、フリッカーの方へと群がり始めた“粗悪品”。その間で、明らかに何かが異質な動きをしている。他がどれも蛾のように探照灯へ向かっているのに対し、それだけは明らかに避けているのだ。その足取りはふらついていたが、明確に物の街の方へ至ろうとしていた。
見過ごすわけにはいかぬ。咄嗟に石を投げる。スナップを効かせて飛ばされた小さな礫は、カンッと硬い音を立ててそいつの頭に当たった。そいつはそれでも尚街の方へ進もうとして、立ち止まる。キーンの薄い気配を察知したのだろう。
「――!……、ッ――!」
声なき声を砂嵐と共に吐くのは、薄汚れたスーツを身に纏う、テレビ頭の男。
ひどくみすぼらしい恰好をした彼は、じっとキーンを見て立ち尽くしていたかと思うと、よろよろと覚束ない足取りで歩み寄ってくる。そして、両者の距離が近づく度、血と排泄物を混ぜたような汚臭が湿った空気に混じった。顔をしかめたいところだが、生憎と動かせる表情筋など持ち合わせていない。代わりに、先程礫を投げた手を頭の前にやる。それで遮断できるわけではないが、それでもやりたくなる程度には酷い臭いであった。
男の方はと言えば、キーンの所作の意味が分かっていないのか。首を不思議そうに傾げつつも、更に距離を詰める。いよいよ強まる悪臭に、付き人が息を詰まらせているとは思いもよらず、彼はキーンを見下ろした。
「――――」
「…………」
膠着。双方とも言葉を探して黙り込む。
けれどもその静寂は長く続かず、数秒で包丁が切り裂いた。
「お前が“廃物”と言うものか?」
「……、……」
首を横に振る。
それが質問の答えなのか、それとも“廃物”と言う単語が理解出来ていないのか、どちらであるかをキーンが判ずることは出来なかった。しかし、質問に対して答えが成り立つ時点で、無作為に人を襲う物でないことは分かる。
ひっそりと膨れ上がらせていた殺意を鞘に納めながら、付き人は続けて問うた。
「人を襲いに来たのか」
「……!……!!」
否。首が強く横に振られた。
そうか、と何処か気のない返事を一つ、最後の問いを放る。
「鉄道事故が起きた。犯人を知っているか?」
「!――、――ッァ、ヵ゛――!!」
首肯。余程に何か伝えたいのか、喉笛を潰されたような声が零れ落ちる。しかし、言葉にならない。出来るほどの語彙を引きずり出すに、今の一瞬では時間不足だ。
一考。手短に決議を終わらせ、思考をまとめて、キーンは自身の右隣に座るよう男を促した。豆鉄砲を喰らった鳩よろしくきょとんとしていた彼も、やがて意図に気付いたらしい。足を引きずりながら付き人の隣に位置付け、精魂尽き果てたように腰を下ろす。
その頭に、キーンは黙って、自身の羽織っていたスーツの上着を被せた。
「……――?」
「
「――、――……」
こくこく、と小さな点頭。中途半端に頭を覆っていたスーツをきちんと被り直し、膝を抱えて座り込む。随分と小さく縮こまった男を見下ろして、キーンは降りしきる雨に冷える身体を、男が見咎めない程度にそっと抱きしめた。
豪雨は続く。
「派手な事故が起こった割に、此方へはあまり来ませんね」
「お陰で私は、練習が出来るんですけ……どッ!」
思い出したように道を外れてくる“粗悪品”の首にナイフを叩き込み、出来た遺骸は脇に退けて、再び警戒態勢に入る。最初のあの恐れは何処へやら、今や蚊を叩き殺すような軽薄さで、アザレアは“粗悪品”を還していた。
無論、こんな気軽さで戦えるのは、スペクトラが傍にいるからと言うのが大きいだろう。戦闘慣れしている物が隙を埋め、厄介な相手を肩代わりしてくれるからこそ、アザレアはまともに戦場で立ち回れる。もしも一人で今と同じ状況に放り出されていたなら、救助が来るまで汽車の中で籠城戦でもしているところだ。
そうこうする間にも、今が幸いと掴みかかってくる手を刃で切り払う。痛がる素振りを見せる隙に身を沈めて懐へ潜り、コンパクトな突きを喉元に入れた。そのまま力を込めて押しきれば、ガラス板の割れるような音と共に“粗悪品”の身が崩れ落ちる。
もたれかかるように倒れた身体を地面に横たえ、頰を濡らす雨を拭って、溜息を一つ。ナイフを革の鞘に納め、物殺しは今しがた還したばかりの遺骸を見下ろした。
「どうかした? アザレア」
「いえ……その。何でこう、ガラスの割れるみたいな音がするんだろうって。前から気になってたんです」
そう言えば、とピンズも賛同。
それなりに、そう人と同じように生きていれば、物が還る現場にも一度や二度は立ち会うものである。なまじピンズや兄のシズは、アザレア以前に街を訪ねた物殺し――街を火と血の海に沈めた若者らの横暴を、直に経験しているのだ。ならば、物が還る瞬間の音にも、馴染みはなくとも覚えくらいはあった。その理由にまでは思い至らなかったが。
二人で首を捻れば、果たして、答えを挙げたのはステアリィであった。
「心が折れる音だろうと言われているよ」
「あら? あなたも詩的なこと言うのね」
「いいや、ただの引用だ。二代目の物殺しが残した手記にそんな記述がある」
二代目の物殺し。その一言に、アザレアとピンズは思わず互いの顔を見ていた。
束の間見合わせた視線はすぐにステアリィへ向けられ、載せられたたっぷりの疑念に男は苦笑。少しばかり言葉を選び、紡いでいく。
「もう何百年も前に招かれた物殺しなのだがね。物をひたすら滅多刺しにして還し続け、結局最後までその方法でやり通した男だった」
「あ、それは――」
「あぁ、案内人から聞かされたかな? その男だ。彼は招かれたその日から元の世界に帰還するまでの三百日間、ほぼ毎日欠かさず日記を書き続けた。どれも書いてあることは同じ。もっと安楽に物を還せないかと考察し、実践し、失敗を悔いていた」
声音は敢えて平坦に。己が読んだ内容のみを、ただ事実として伝える。それが出来なくて分析官とは名乗れない。分析するとは即ち。如何な凄惨さも辱め、秘められた事実を白日の下に晒すことであるから。
大きく息を吸い、吐き出す。
「物が還る時の音については、最初に気付いた後から十日ほどを掛けて結論を出したようだった。何処に刺そうとも関係なく、とどめを加えた時に音が鳴る。そして、その音が鳴る一撃の直前になると、物は決まって同じことを言ったそうだ」
聞かずとも分かる気がした。
しかし、アザレアは待つ。予測する答えが紡ぎ出されるその瞬間を。
果たして、その内容は。
「『死にたい』と」
豪雨は、続く。
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