三十七:邂逅
覚束ない足取りによたつく背は、何処までも続く藤棚の間へ入り込んだ。春の近い今頃はまだ葉も伸びていないが、複雑に絡み合う太い枝は十分に雨覆いの役を果たしている。適当に降り込みが少なそうな場所を見つけ、彼は深く重い溜息と共にその場へ座り込んだ。
膝を抱え、腕の中に壊れかけた頭を押し込むように身を縮こめる。肩や背を少ない雨滴が叩いたが、最早それを気にするほど壊れかかった精神に余裕はなかった。全身に出来ては癒える傷が痛んでそれどころではなかったし、少しでも気を抜けば見境なく暴れ回りそうになる。それを堪えて歩き回るのは、控えめに言っても地獄のような苦行だ。いっそ何もかも投げ捨てて死にたくもある。あるが、いつだかに交わした約束を履行しないまま死ぬのは、何故だかいけない気がした。
手を握りしめる。割れて剥がれた爪の痛みに、砕け散った意識を僅かにも集める。焼け火箸をいつまでも当てられているような激痛は、正気を更に削り取ることと引き換えに、著しい精神の飢餓を束の間忘れさせてくれた。
けれども、それも長くは続かない。
「ほ、珍しや
「!!」
無神経な声が、上から降ってきた。
弾かれたように頭を上げる。激痛の枷をはね飛ばし、今すぐにでも襲い掛かりたい衝動が――まともに動いて話せることへの限りない憧憬と、嫉妬と、存在意義を果たせないかもしれない己への恐怖と、兎角滅茶苦茶に混ざりあった感情が――
自身にしては驚くべき速さで立ち上がる。傷つき、治り、その上から更に傷を重ねては化膿し、血と膿で汚れに汚れた手を、声の方へ伸ばした――途端。
そっと、傷を刺激しない程度の柔さで、声の主は手首を掴み止める。
「おやめ、おいらを齧っても何の意味もないさァ」
声を上げたのは、網代傘を斜めに被った桐の箪笥。
腕を掴まれ、動きを止められた男に、最早先程までの感情の爆発はない。そして一度勢いを削がれてしまえば、全身を苛む激痛や寒さに、か弱い精神は耐えられる由もなかった。
「――、――……」
糸が切れたように膝を屈し、壊れかけたテレビから
次いで、地面に落ちていた沈丁花の花束を拾い上げる。自失していた“廃物”が、大事に抱えていたものを取り上げられて、恨めしげに網代傘の下の頭を睨んだ。
「折角綺麗な沈丁花なのに、
「――――」
「嗚呼、そっか。お前喋る言葉も失くしちまったんだっけ」
この物は、一体何を知っているのか?
勿論、記憶の忘却甚だしい“廃物”がそれを覚えているわけも、知っているわけもない。だからこそ
一歩、二歩。見えない何かに押し出されるかのように足を背後へにじる。今までついぞ感じたことのない、強烈でどうしようもない恐怖と、何やらよく分からないが胸を打つ――それが後ろめたさというものであることを、今の彼は知らない――感情に引っ張られ、身体を打つ雨の冷たさも何処かに吹き飛んでいた。
そして、そんな“廃物”の動きに、桐箪笥の男が気付いたとき。
「あれ、置いてっちまった」
墨染の羽織一枚と沈丁花の花束を残し、彼は忽然と姿を消していた。
互いに何を残すわけでもない。ただほんのひと時、袖が触れ合っただけのことだ。
それでも、雨の中立ち尽くす和装の青年には、この出会いが偶然であるとは思えなかった。
そして、時は数時間の後。
広がる藤棚も最早見えず、周囲はただ無尽と見紛う荒野が広がる。いつだったか、何とかいう戦争で焦土と化し、未だ快復に至らぬ渇いた土地を、いよいよ本降りとなった雨が涙のように濡らしていた。
茫洋と広がるそんな地を、エアーズの駆るトラックが行く。水溜りを散らし、泥濘になりかけた滑りやすい地面を物ともせずにトップスピードで駆け、乱立する看板や建物の残骸を器用に抜けていくその技量は、物としては稀有なものと言えるだろう。その運転技術を以って疾駆する重い車体は、荒野の中にぽつんと孤立する駅舎の傍に、泥を撒きながら停まった。
エンジンは掛けたままドアを開け、高い運転席から飛び降りる。小走りに駅舎へ駆け寄り、階段を登ったところで、待ち人の方から声が掛かった。
「遅かったじゃないか」
「待たせたな!」
やや疲れの色が滲む壮年の声はテリーのもの。彼はやることはやったと言いたげに葉巻を蒸かしては、血だらけになった外套を風に揺らしている。エアーズはそんな黒電話の側面に軽口を叩きつけ、ぐるりと視線を巡らせて状況を確認。駅舎の壁に寄り掛かってうなだれているオンケルと、その傍で道路脇の蛙よろしく潰れているシンシャ、そしてそんな二人の横でやっていられないとばかり頭を抱えているファーマシーを視界に据えて、ぱちんと指を鳴らした。
雨音を貫く軽やかな音に、物どもの意識が集まる。
「行くぜやっこさん方。いきなり呼びつけた上にこんな土砂降りだ、後で絶対焼肉奢ってもらうからな?」
「任せておきたまえ」
「おっ……期待しとく。高い焼肉じゃねぇとやだかんな!」
一体何を想像したものか、期待感も露わにエアーズは声を低め。ぐったりしていたオンケルの元に大股で近づき、投げ出された腕を自分の肩に回して、慎重に立ち上がる。重症人がふらつきながらも動いたことを察し、隣で崩れ落ちていたシンシャも気を取り直したようだ。一歩一歩、確かめるように歩く駅長と人足の後に続いて歩き出し、その後ろにファーマシーが続く。
駅舎から降りようとする一行。その背を老探偵はただ見つめて動かない。真っ先にそれを見咎めたのは、さっさと降りようとしていたエアーズだった。
「んぁ、おっさん?」
「私は現場検証の続きだ。終われば帰る。私のことは気にせずに行きなさい」
「財布が乗らないでどうすんだよ」
「じゃあ財布は預けていこう」
言うが早いがテリーは外套のポケットから黒革の財布を出し、人足に向かって放り投げる。泡を食って受け取ったエアーズ、その頭に据えられた扇風機が、バリバリと錆びた軋みを立てて翅を回した。すぐ傍で掻き鳴らされた騒音に、担がれていたオンケルが厭わしげな素振りを見せたものの、それは見ないふりだ。
険しさを交えたエアーズの視線が、地面を見つめる。来た時にはあまり気にしていなかったが、そこら中に細かい血の粒が飛び散っていた。それは所々で不自然に大きな血だまりを作り、引きずった跡を数カ所残して、一際大きくグロテスクな血痕の付近に終末している。
逃げ惑ったのだ。現場検証に関してはど素人のエアーズであっても、そう勘付くのに時間は要らなかった。
そして、そんな現場を残すような何かと、老探偵が対峙しようとしていることにも。
「危ねぇんじゃねぇのおっさん」
「嗚呼、危険だ。危険だからこそ私だけが此処に残る。逃げる無力な物に四発も、しかも急所にばかり当てる相手に、果たして君達は太刀打ち出来るかね?」
聞かれてエアーズは言葉に詰まった。
自分も人足故に力はあるが、銃を持った相手にそれが通用するかと聞かれると、首を横に振らざるを得ない。荒事など経験したことは無論ないし、あったとしても荷を奪おうとする無手の暴漢や、夜間の配送中に襲ってきた“粗悪品”を多少小突いた程度。それ以上の肉弾戦はまず逃げる。
だが、それとテリーが残ることは別だ。絡む視線を鋭くして、問い返した。
「確かに俺はそんな強くないけど、じゃあおっさんはどうなのよその辺」
「荒事には慣れているよ。
「お、おう……」
華神楽も洞臥も、人の街の統治者――名家と対立する武闘派の極道、いや
そんな裏組織と関わり合いを持つと言いながら、テリーは飄々としたものだ。ついでに此処で虚言妄言を放つ必要性もない。ならば、彼の言は嘘ではないのだろう。
だが……
オンケルの吐息めいた苦鳴を搔き消し、エアーズのいつになく厳しい声が響く。
「俺、暇してる探偵のあんたが一番安心なんだからなー。無茶すんじゃねーぞ」
「心配しているのか貶しているのかはっきりしないね君は。危険ならすぐに帰るさ、私だって命は惜しい」
「嘘つけやい。華神楽と洞臥なんて、掟破った日にゃひっでぇゴーモンされるって話だぜ? 椿通りで目ん玉抜かれたシタイが出たっての、あれ華神楽の奴なんだろ」
エアーズはそれでも引き止めた。
もしもテリーが裏組織を相手にしかけているのなら、それはとても危険なことだ。華神楽も洞臥も、確かに堅気へは手を出さないが、内情を知られたときの対処にそれは適用されない。彼等は極端なまでに秘密主義で、執念深く、何より残忍である。それは彼が人足として彼等の荷を運んだ時に見た光景から得た感想だが、時折起こる構成員の無惨な殺害事件からも断片は読み取れるだろう。探偵業という、現場の空気にいち早く馴染み、なおかつ聡明さを売りにする職に長く就いているテリーなら尚更よく知っているはずだ。
或いは、聡明だからこそ危険に身を晒せるのか。否、そんなことはあるまい。
「いいかよテリー。一緒にだ、一緒に焼肉すんだよ俺らは。金だけ貰って酒池肉林とか、そんな後ろめたいこと俺にさせんな。つか出来るか。そこまでケチじゃねぇわ」
結局、エアーズは心配なのだ。テリーのことが。敢えて無法地帯に足を踏みいれようとする老探偵のことが。
その心理を恐らくは透かしていたのだろう、テリーはごく快活に笑ってみせた。
「安否を心配してくれる友人が私に出来るとはね。有難いことだ」
「けっ! 俺ぁそこの薄情な医者とは違うんでぃ。いいから無茶だけはすんなよ! いいな!」
「分かった分かった。少し見て回ったらすぐに帰るよ。帰る時には連絡も入れる」
「おう。んじゃな! ぜってぇ無理すんじゃねーぞ!」
最後までずるずると食い下がりつつも、時間の制約とオンケルの容態の悪化に背を押されて、エアーズはようやく駅舎を降り去っていく。停まっていたトラックに医師と薬師を追い立て、エンジンを一度空吹かししてから去っていくその様をじっと見つめながら、老探偵はやおら虚空に敵意を投げつけた。
「何故、撃たなかった?」
声は届いたか否か。周囲には雨音ばかりが飛び散る。
返答は、そこに紛れる形で届いた。
「さぁー? 何ででしょうね」
侮蔑と嘲弄の響きを隠そうともしない、慇懃無礼な声と口調。その恐ろしく不快な声音に、テリーはぼんやりとした予想に今度こそ確信を得る。
彼の元に届く少女の行方不明事件、年頃の娘の薬物中毒死事件、そして今しがたのオンケルに対する四回の銃撃。これら全てに関わる
弾かれたように振り返る。視界には佇む人影一つ。
茶のスーツに黒い外套、鏡面のように磨き上げられたブーツ。チェックのシャツと首元のアスコットタイ。そして何より特徴的なのは――傷一つなく磨き上げられた、紫檀の柱時計に似る頭。
気付かないはずがない。キーンから得たあの証言と、瓜二つ。
「クロッカー……」
「ありゃあ、まさかもう聞き出されているとは。流石です」
含みを持たせた声音で笑い、今の今まで確信を得られなかった老探偵に皮肉すら零しつつ、クロッカーは肩をひょいと竦めた。何をするか分からないを相手に、敵意と警戒心を剥き出しにするテリーとはまるで対照的だ。
両者の間に嫌な緊張感が漂う。背を変な寒気が突き抜ける。
――華神楽と洞臥なんて、掟破った日にゃひっでぇゴーモンされるって話――
テリーの脳裏に、先ほどのエアーズの声が何度も
何故か? 分かれば苦労などしない。
先に、分かりさえすれば。
「先に駅長を消そうと思ったんですが、気が変わりました。貴方にします」
翻意の表明と共にクロッカーが拳銃を構えたのと、テリーが寒気の意味を悟ったのは、ほぼ同時だった。
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