三十六:人足

 声なき悲鳴を上げ、力無くのたうつ身体を全身で抑えつけて、胸に穿たれた銃創から長いピンセットとそれに掴まれた弾丸を引きずり出す。血と肉片のこびり付いたそれが二つ、ステンレスの医療用トレイキドニーディッシュに転がされた途端、暴れていた身体は死んだように動きを止めた。

 アルミのトランクケースに詰めた簡易医療セットから脱脂綿とガーゼを出し、大きく抉れた傷口に当てて、一考。こぽぽ、と小さな気泡が液面を揺らすと同時に、脱脂綿が薬品臭のする液体に湿る。悲痛な呻きはしかし声にならず、吐息となって掻き消えた。やめてくれ、と言わんばかりに弱弱しく首を振り、手首を掴んでくる手を強引に引き離す。そして、後少しだ、と慰めるように低く声を落とし、ガーゼを当ててテープを貼り付けた。


「オンケル、終わったよ。もう大丈夫だ、弾は全部取った」


 馬乗りになって抑えつけていた人の身を放し、手に生々しくこびり付いた血を持参した水で洗い落としながら、ファーマシーは努めてはきはきとした声で告げた。けれども、声を掛けられた方から――散々のたうち回り、逃げ回った挙句、疲弊しきったオンケルから、明瞭な返答はない。ただ、何か伝えたげに片手を上げかけて、力尽きたと言わんばかりに血まみれのコンクリートの上に落とすだけだ。

 オンケルは声を上げられない。苦悶の叫び声も、痛苦による呻き声すらも。元の所有者が、声を出すに必要な部分を取ってしまったからだった。物とは時にそうした所有者の不都合すら模倣してしまう。そしてその不便さが、今になって苛立たしい。

 何しろ――何故撃たれたのか、誰に撃たれたのか。下手人を見出したくとも、証言が得られないのだ。オンケルの手話は時に言葉よりも感情と情景を伝えたが、この息も絶え絶えの状況でまともにこえが上げられるとは、この場の誰にも思えなかった。

 気まずさが沈滞する。ファーマシーは「無理をするな」と一言上げたきり明後日の方を見たまま、テリーは医師が来るまでの間で返り血に塗れたコートを見下ろし黙りこくるばかり。そしてそんな二人を見たオンケルはと言えば、上がらない腕を無理に上げて、申し訳なさそうに両の手を合わせた。

 反応したのは、テリー。黒電話のダイヤルをジィイ、と微かに軋ませて、低く低く声は滴り落ちていく。


「謝らないでいい。いつも後手に回る私が悪いのだよ」

『でも ――』

「犯人捜しなどどうせ二の次だ。治ってからいくらでも教えてくれればいい」

『……撃たれる 心当たりは ない』


 ゆっくりと手を振り示した感情ことばは、心底からの疑問の色を帯びていた。探偵と医師、二人の意識が向く中で、疲憊と痛苦の名残に鈍る手話が、それでもぎこちなくことばを紡いでゆく。


『わたしは 何も 望んで いなかった ただ わたしの 主が 空けてしまった 穴を 塞ぎたかった だけ なのに』

「オンケル、もういい」

『何故 ? 何故 わたしなんだ あれは ただ 穏やかに 生きること すら 認めて くれないのか どうして』


 ――どうして わたしなんだ

 ――還りたがる 物は 他に いるじゃないか……


 疑問に答え得る物は、誰もいない。

 その内自分の発した問いと出ない答えに折り合いを付けられなくなったのだろう、オンケルは仰向けに横たわったまま、頭を抱えておいおいと泣き出してしまった。これには流石の二人も動揺するしかない。慌てて傍に膝を寄せ、もう大丈夫だから、と根拠のない励ましだか慰めだかをかけてはみるが、上っ面の言葉に癒されるほど傷は浅くない。人の身に穿たれた銃創の痛みと、精神を深く深く抉る心傷の痛み。二つは互いを打ち消しあうこともなければ道を譲ることもなく、ひたすらに無辜な物を苛んだ。

 そうして、どうすることも出来ず無為に時を浪費すること、十数分。

 いつもと変わらない日常が――ほんの数本だけ止まる各停汽車の一本が、何も知らずにホームへ滑り込んできた。

 弾かれたように駅長は身を起こす。業務は遂行せねばならない。しかし、身体を起こしきった途端、銃弾によって抉られ裂けた傷口が激しく悲鳴を上げた。咄嗟に胸を押さえ、貼られたガーゼを毟り取る勢いで服を握り締めながら、オンケルは失血にふらつく身体で無理やり立ち上がる。


「止せ、死にたいのか!?」

『触らないでくれ』

「いいや許可出来ない。あのなオンケル、その怪我でまともに切符が切れると思っているのか? とにかく動くんじゃない!」


 怒声混じりに諭され、腕を引っ張られて、肩を押さえ込まれる。ただでさえ力の入らない身体では抗うことも叶わず、オンケルは半ば倒れこむようにその場で膝を屈した。失意故か気力が尽きたか、ともかくもぐったりと俯く彼の聴覚が、停車する汽車から降りる一つの足音を捉える。

 漫ろな気持ちで顔を上げたならば、その視界に映るのは。


「大丈夫? 駅長さんが血まみれやって、汽車ん中大騒ぎやで」

「シンシャ!? どうして此処に」

「あんなぁファーム。僕んとこにアカネから電話あったで、「アスクレピア医院が開いてない、連絡も付かない」って。もぉ、白浜しらはまから名生ななしまで四時間も掛かるっちゅーに。勘弁してやぁ」

「ぅぐ……」


 作務衣の上と長着が合わさったような白い着物、色鮮やかな朱の帯に、清潔ながらも着古した白衣。頭は中に散薬を封入した薬包紙。古めかしい木に革張りの鞄を抱え、赤い鼻緒の草履の底でカラコロとコンクリートを打ち鳴らす。訛りのきつい言葉を操る彼――シンシャは、ぴりぴりとした空気を物ともせず三者の元まで歩み寄ると、浅く息を繰り返すオンケルの傍に片膝を立てて座った。

 固く腕を握りしめているファーマシーの手をそっと引き離し、シッシッとばかり追い払う。大人しく従った医師へ満足げに頷いて、骨張った手で柏手を一つ。ぱしん、と乾いた音を響かせて、漂う気まずさを入れ替えた。


「頑張りたい気持ちは分かるけどさ、血だらけなんはアカンなぁ。ちゃんと怪我治してからにし、そんくらいお客さん待ってくれるって」

『だが』

「ファームの言うことやあらへんけど、そんな傷深いんじゃ一日中立って仕事するのは大変よ。何するのも痛いし改札もおぼつかんし。それでまた倒れて無理して――ってなったら、君も僕等も辛いやろ?」


 オンケルは一度首肯。その所作に元気がないのは、何も無理に動かしてぶり返した傷の痛みばかりではないだろう。ぐったりとして、肩口に落ちて来た懐中時計の鎖をそぞろに払いのける駅長に、薬師は何事か言いかけて。

 駅舎から響く無慈悲な発車の合図に、薬包紙が引きちぎれんばかりの勢いで己の背後を振り返った。


「あ゛ーっ! 待っちょっ、僕のかば――待ってぇーッ!」


 有りっ丈の声量で叫び、縋るように伸ばした手の先で、汽車は嘲笑うように煙突から煙を吐き出す。手遅れを悟り凍りつくその姿にも、神は憐憫を垂れない。

 重々しく鋼鉄のレールを軋ませ、六両編成の黒馬は、ゆっくりと物の街へ向けて走り出していった。

 客車に取り付けられた窓の向こう、客の数人が革の鞄を手に何事か叫んでいるが、分厚い窓と走行音に掻き消されて聞き取れない。その内速度を上げた汽車は、騒然とする客の姿も荒野の向こうへ運び去る。それら諸々を呆然と見送り、シンシャはその場に土下座をするような格好で崩れ落ちたのであった。


「あれは店の鍵と財布が入った鞄だろう」

「う」

「次の便は一時間後だぞ」

「ぐう」

「以前にも似たことをしたな」

「ううっ」

「何で貴重品を汽車の中に置いたまま」

「せやかてファーム! 怪我人が泣いてたら助けるのが僕なんじゃー!」

「それと店の鍵が入った鞄を置き忘れることに因果関係はないと思うんだがね」

「ぐはぁっ!」


 冷淡な正論にシンシャは撃沈。薬包紙がぐしゃぐしゃになりかねない強さで頭を抱え、おうおうと涙もなく慟哭する。その有様を呆れ半分同情半分に見下ろしながら、受話器に引っ掛けた帽子の位置を直し直し立ち上がるのは、他でもない。黒電話の老探偵こと、テリーだった。

 白手袋を付けた手は、外套のポケットを探って葉巻入れを出す。取り出された葉巻入れの太い黒檀の胴には、文を秘めた伝書鳩と菖蒲アヤメの金蒔絵。そこから葉巻を取り出すのが、すなわち彼のを果たす合図なのだと。この場で知るのはファーマシーのみであった。

 ジィ、ジィイ。ダイヤルを回す音を幾度も立てながら、テリーはゆっくりと葉巻の頭を切る。急く気を抑えつけるような、わざとらしいほど緩慢な仕草には、しかし有無を言わさぬ威圧感があった。一言も言葉を発してはいないのに、ファーマシー達はいずれも手出ししてはならない空気を感じ押し黙る。

 やがて、ダイヤル盤の回る音が止まり、マッチで葉巻に火が灯され。葉巻を持たぬ手が、黒電話の胴に付けられた大きな傷を物思うように撫で付けたとき。


“――エア。エアーズ? 聞こえるかね”


 場所は、遠く離れ藤見台ふじみだいの一角。

 辺鄙な土地に住まう物、その元に荷を届けて一息ついた人足の元に、いつもと違う調子の“入電”があった。


「その声は、テリーのおっちゃん?」

“私以外にこんなことをする輩はおらんだろう。それよりエア、時間はあるかい?”

「うん? んぁーまあ、あるっちゃある」

“要領を得ない回答だね。はっきり応か否か答えてくれないかい”

「分かってるよおっさん、短気だなぁ。単刀直入に言うぜ、物の街の方面に向かうならある。逆はない。行き先はどっちだ? それから、荷物はなんだよ」

“ビンゴ、月の原駅から物の街だ。運ぶのは物三人。一人は心臓と肺を撃たれて重傷。可及的速やかな移送を頼みたい”


 頭に直接響く声へ当然のように声を返しながら、人足の行動は迅速。腰に巻きつけた上着を解いて羽織り、銀に光る腕時計の時刻を確認して、とんとんとスニーカーの爪先で地面を叩く。立てた人差し指には鍵束が引っ掛けられ、漫ろに弄ばれる度に曇天の下で鈍く煌めいた。

 道のりと時間を計算。藤見台から月の原、物の街まで、一直線かつ最速で行ければ約二時間の道のりである。しかしながら、それは荷物の状況を考慮しないときの話。怪我人がいるとなれば話は違う。車の振動は些細であってもかなりの負担だ。誰が怪我をしたにせよ、心臓と肺に凶弾を喰らったとなれば、事態はより深刻だろう。

 あれやこれやと考えて、彼はようやく結論を出した。


「うぃ、ちょっぱやで行くな。二時間半くらい見てそっちでどうにかしといて」

“どうにかって、お前ね”

「どーせ怪我に絆創膏くらい貼ってんでしょ? だったら大丈夫じゃん。死なないくらいに元気づけてやんなよ」


 テリーと会話を交わしつつも、その足は一帯に広がる藤棚を抜け、駐車していたトラックの元へと向かう。リモコンのボタンを押して鍵を開け、乗り込んだ運転席から広がる景色を刹那眺めて、ドアを閉めざまにバックミラーの位置を調整。その下にぶら下がる御守りへ、今日ばかりは念入りに願をかけてから、エンジンを始動する。

 助手席に放り出したコーヒー缶のプルタブを、頭のに引っ掛けて開封。理屈は分からないが、とにかく喉の奥まで二口ほど流し込んで、エアーズはアクセルをゆっくりと踏んだ。


“頼んだよ、ファンセル”

「けっ、真名で呼んだって二時間半は縮まんねぇよ。現場検証でもしてろオッサン。後焼肉奢れ」


 縋るような声に軽口を叩くその頭、古び年季の入った白い扇風機が、ひどく五月蝿い音を立ててファンを回した。

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