二十七:袋小路
「あれ」
「まあ、久しぶり」
「お早うございます……」
物の街の名無し駅。
ちゅんちゅんと呑気な雀の囀りが空渡る下で、物殺しと物は邂逅する。
即ち、普段着姿で読みかけの文庫本を手にしたアザレアと、仕事着ではない服を着て紙袋を抱えたピンズ、そして力無く肩を落としたスペクトラの三人。朝に強い女性二人は、何時になくしょげた様子の男性を見上げて、きょとんと顔を見合わせる。
考えてみれば、スペクトラを見るのはいつも物が寝静まった後。“粗悪品”が夜にうろつくのだから、夜がリズムの主体になるのは、当然と言えば当然である。それでも、普段颯爽としている物が眠たそうにぼんやりとしている姿は、楽しみに飢えた女性二人の興味を煽るには十分な代物だった。
「随分眠そうじゃない。平気?」
「あまり。徹夜しているので……」
「物って別に寝なくても平気だと思ってました」
「安息は物にとっても大事な行為ですよ。物理的な傷であれば放置してもほぼ治りますが、精神疲労は寝るか休むかしなければ治りません。人もそうでしょう?」
確かに、とアザレアが首肯。そう言うことだと言わんばかりにスペクトラも頷き返すと、眠たげに照明をゆっくりと一度点滅させた。人であれば眠気覚ましに目でも擦っているところであろうが、器物の頭に目などない。ただ、それを模倣するように灯体を撫で付けるだけだ。
上体を捩って女性たちに背を向け、堪え気味の欠伸を一つ。振り払うようにふるふると小さく首を振り、しかしどうも眠気が取れない。遂には根を上げて壁に寄りかかった彼を見上げ、アザレアとピンズは視線を交錯させる。
すぐに離れた視線の向く先は、ぐったりと頭を抱えるスペクトラ。
「一晩徹夜したくらいで情けないわね」
「不甲斐ない物で申し訳ありません。ですが、一応戦闘明けと言うことも勘案して頂けますか」
「そんなに? いえ、大変なことは知ってるけどね――あ」
すっかり弱ってしまったスペクトラを更に追及しようとして、汽笛が高らかに駅への来訪を告げる。その朗々たる音を耳にしてか、のんびりとパイプを蒸かしていたキップが、拡声器と銀色のホイッスルを手にのそのそと出てきた。
汽笛へ返礼するようなホイッスルの音が、一度。機関車頭の煙突からしきりに煙を吐き出し、キップは腕にはめた時計と汽車の動向を忙しなく見比べながら、一定の規則を以て数度笛を吹き鳴らす。呼応するように汽車は速度を緩め、レールの折り返し手前でぴたりと止まった。
――ナナシ、ナナシ駅。終点です。
――御忘れ物の無きよう御注意下さい。
――四号客車、五号客車、六号客車は当駅にて切り離しとなります。月の原、藤見台経由、白浜へ御越しの方は、御乗り間違えの無きよう御注意下さい。
――当列車は切り離し作業の為十分ほど当駅に停車致します。発車まで暫く御待ち下さい。
拡声器越しに駅長の声が駅中に響き、ぞろぞろと客車から人や物が出てくる。
月の原と違い、物の街の駅には自動改札機が備えられているから、誰しも向かうのはその方だ。或いは足早に、或いはのんびりと、思い思いの歩調で改札を通り出ていくひとびとの流れに逆らって、アザレアたちは同じく汽車を待っていた物に混じって車内へ乗り込んだ。
比較的朝早い時間の故であろう、乗客は疎らで、四人がけの席などもがらがらに空いている。三人はそんな誰も座らない四人がけのシートの一つに陣取った。
「大変失礼ですが、少し寝ます。月の原で起こしてください……」
席に着き、弱りきった風に頼んで、スペクトラは返事も聞かぬうちから背もたれに身を預けて壁に寄りかかる。そのまま早々に眠り込んでしまったのか、死んだように手を垂らして動かなくなった彼を、アザレアはぎょっとして見つめていた。
鳶色の視線は隣に座るピンズへ。しかし彼女は彼女で、抱えてきた荷物の中から黒いローブと思しき服を引っ張り出し、銀糸を針穴に通している。汽車の中で仕事をする気らしい。
感情のやり場を失って、アザレアは溜息を殺しながらシートに寄りかかった。そこに声がかかる。
「別に心配しなくて大丈夫よ。物って熟睡すると息しなくなるの多いの」
「そうなんですか!?」
「ええ、兄さんもそうだったしわたしがそうなんだもん。考え事に耽りすぎたり、わたしが仕事するときもそう。意識が一点に傾きすぎると忘れちゃうのよね、人らしくするの」
「えっ……それ、危ないんじゃ」
「平気。人の真似っこしてるだけで人じゃないもの。本当は何も食べたり飲んだりしなくても、最悪生きてたいって考えてるだけで生きられるのが私たちよ」
刺繍枠に黒布を張り、銀糸を通しながら、縫製士はあっけらかんとしたもの。針山の頭に刺さる三本の縫い針、その針穴から垂れる糸の先で、様々な色形のビーズがきらきらと光をはね返した。
へぇ、とやや気のない声で相槌を打つ物殺しに、物の女は何を見るか。
「ただ、四六時中「生きたい」なんて考え続けてられるほど頑丈じゃないのよね。希望や願望だけで生きるのなんて、暗闇の中で出られるって希望を抱いたまま閉じ込められてるのと変わらない。だから物は人の真似をする。「生きてる」って実感で、代わりにしてるんだわ」
「嗚呼、だから」
――この街には、娯楽が多いのか。
――物自身の願望以外で充足感を満たせるような、物や場所が。
密かな納得を、隣の物は知るか否か。ただ黙々と、縫製士は黒布に描いた図案を正確に銀糸で縫い取っていく。
中心はケルト結びの模様が入った十字架。その周囲蔦が下部の切れた円形に取り巻き、円の上部からは太陽が燦然と顔を覗かせる。デザイン性はどうあれ、精緻な図案だった。
ピンズの運針を見つめながら、物殺しはふと、思い出したように問う。
「もしも「死にたい」って思ったら、どうなるんでしょうか」
「……正気じゃなくなるわね」
少しの間に何を思ったか。
刺繍の手は止めず、ピンズは告げる。
「もっとちゃんと言うなら、死にたいって思ってる物自体は結構一杯いる。元々の所有者がもう亡くなってて、でも所有者にこっちでやり残したことがあるから死ねない、とかね。そう言うのはやり残しをなくすことに情熱を傾けてるし、未練がなくなれば整理が付いちゃうから大丈夫よ」
「じゃあ、大丈夫じゃないのは」
「希望や願望に対して、自分の力が及ばないことを知ってしまったとき。それで努力して力を付けて、その限界を見て――それでも、そこに自分の希望がないことに気付いてしまったとき」
それが一体誰のことか。勘付かぬほどアザレアは鈍感で幸せな少女ではなかった。
そうですか、とあからさまに表情を暗くした少女に、ピンズはこつんと軽く握った拳を当てる。
「これでもわたし感謝してるのよ。兄さんが正気を失くす前に還してくれたもの」
「ピンズさん」
「そんな顔しないでアザレア。後、さん付けはむず痒いからやめて欲しいわ」
ね、と。念を押すように針山の頭を少し傾ければ、刺さった縫い針に通る糸がきらきらと光る。アザレアはきょとんとした風に目を丸くし、彼女の言葉をじっくりと噛み砕いて飲み下すと、小さく笑った。
それじゃあ遠慮なく。そう言って間を取り、意を決したように名を呼ぶ。
「ピンズ」
「うふふー。嬉しいわアザレアー」
「わっちょっ、抱きっ」
「えー。散々男の物に頭撫でられたり抱きしめられたり、男の物と手繋いだりしてたんでしょ? だったらわたしがスキンシップを図ったって」
「そうじゃなくて。えっと、針。刺さってるし思いっきり布地引っ張ってます……」
「きゃん!」
ピンズは速やかにアザレアから離れた。
「スペーック、スペック。起きてー」
「ん……嗚呼、もう月の原ですか」
眠りこけていたスペクトラの肩を揺すって起こし、自身も膝に広げていた黒衣を紙袋の中へと押し込んで、先に降りたアザレアの背を追い。寝起きの舞台照明を無理やり急かして、ピンズは月の原駅のホームへ降り立つ。
片手には黒衣を入れた紙袋、片手には裁縫道具を詰めた手提げの鞄、そして貴重品と諸々を詰めた肩掛け鞄。中々の大荷物を手に、ひょこひょことアザレアの隣まで歩いてきた縫製士を見咎めたのは、大欠伸とちょっとした伸びで眠気を掃ったらしいスペクトラであった。
「持ちますよ。重いでしょう」
「ほんと? ありがとー、これ持って」
押し付けられた黒衣入りの袋を受け取り、肩に掛けた外套の裾を翻して、スペクトラは一足先に駅舎の出口へと向かう。その背を追って女性二人も足を進め、ホームから降りて数歩進んだところでふと止まった。
視線の向く先は、空。薄灰の分厚い雲が覆い、一雨来そうな様相を呈している。受入所に行くまでは辛うじて持ちそうではあるが、それ以降は暫く――恐らくは夜まで――続くだろう。傘を誰も持ってきていないのが悔やまれた。
誰からともなく振り仰いだ曇天から視線を外し、歩き始める。足取りは澱みなく、歩調に滞りなく、さも平然として横たわる野を、複雑に折れ曲がる。
「俺、は……送った方がいいですね」
「嫌な天気だものね。アザレア、あなた気を付けてよ?」
「いつも気を付けてますー」
荒野を往く三人の背が、ふっと霞のように消え失せた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます