十二:墓守

 窓際に寄せたパイプ椅子の上、足と腕を組んで寄り掛かっていたキーンの浅い眠りを覚ますのは、風に乗り漂う甘い花の。ふと頭を上げ、まだ慣れないのか刃を覆う鞘を軽く撫でつけた彼は、首を巡らせて香りの元を探した。

 此処に来た初日、ファーマシーが二人へ貸し出した病室の一つ。そこがそのまま、彼等の滞在場所である。元々特殊な患者を受け入れるための個室ホスピスだったのだろう、部屋はそれなりに広く、ベッドが一つだけ置かれている。白で統一された壁は劣化が進み、綺麗に掃除されてはいても日焼けによる黄変は隠せていない。

 南向きに大きく取られた窓には薄いレースのカーテンが掛かり、隙間風に小さく揺れている。そして桟の所には、クチナシの花が三輪、葉と共に瓶挿しされていた。半開きの窓から吹き込む微風に乗り、部屋中に舞う芳香はまさしく活けられた花のものだろう。けれども、それを咲かせたであろう主は、今や彼の前には居ない。


「……朝が遅いのは共通、だな」


 失態。付き人であるにも関わらず、付かねばならぬ人より遅く起きるとは。

 しかし、それでも時刻は午前六時半。原則緩慢な生活リズムを刻む案内人の、朝に弱い性質を“起こされた”際に引き継いでしまった物としては、かなり早起きの部類と言っていい。しかし、そうと頭で理解わかってはいても、目が覚めてアザレアがいない時の無力感と喪失感は耐えがたいものがあった。

 小さくかぶりを振り、ゆっくりと椅子から立ち上がる。開けっ放しの窓を閉め、指先で瓶の花を手持ち無沙汰に弄んだ後、彼は音もなく病室から離れた。

 出入り口から顔を出す。患者はいない。“粗悪品”との攻防に勝った――害意のある物が街へ侵入出来なかった――のだから当たり前とも言えるだろう。“粗悪品”が入り込みさえしなければ、この街は平和そのものだ。

 しかしてアザレアも見当たらない。数度廊下を見回し、現れる気配もないことを確かめた後、キーンは引き戸を閉めて足先を医局へと向けた。余程の繁忙でもない限り、早朝の医局には院長ファーマシーが詰めているはずだ。そして今、医院は繁忙の二文字から最も縁遠い場所である。朝の街がまだ眠りの中にある以上、彼女が時間を潰せる場所は医局そこくらいしかない。

 いなければむしろ何処を探すべきか。案内人から得た知識を総動員して万一の事態をシミュレートしながら、付き人は階段を下りる。半ば駆けるように段を飛ばし、一階と二階を繋ぐ踊り場を曲がったところで、はたと足を止めた。

 医局から廊下まで、線香の匂いが漂っている。


「…………」


 息を潜め、ただでさえ薄い気配を殺し、索敵。

 話し声が、一つ。二つ。

 否――三つ。


「花屋の亡き今、わたくしどもの墓地は枯れ果てています。アザレア様の“案内人特権”の練習と言う点でも、私どもの色褪せた墓地に再び彩りを取り戻すと言う点でも、利害は一致していると思いますが」

「だが墓地は街の外だろう。君はまだ来て間もない、足ごしらえも済んでいない女の子を荒野で歩かせるつもりかね?」

「あの、まず墓地の事を説明してほしいんですけど……」

「墓地は墓地ですアザレア様。生けるものが死したものの安息を祈る地。死者の記憶を留め置く手段の一つ。貴女の世界にも同じ機能を果たす場はあるでしょう? 変わりません」

「人も物も等しく受け入れていること以外はね」

「な、なるほど」


 一人は、聞き馴染みのない三十代ほどの男性の声。もう一人のゆったりとした低いバリトンはファーマシーのもの。残るか細い少女の声は、聞き間違いようもない、自身が付いておくべきアザレアその人。

 そこまで立ち聞きで把握したキーンは、すぐさま大股で階段を降りきったかと思うと、挨拶も何もなく医局へ足を踏み入れた。ぎょっとしたように振り向き、何か言いたげに水薬を波立たせる医師の傍に、彼は数歩で歩み寄る。

 一声掛けてくれ、と溜息混じりの声は無視。意識は聞き馴染みのない声色の主へ、はっきりとした敵意と警戒を以て向けられた。初対面の物へ向けるものではない態度に、アザレアが止めろと諫めるも、やはり無視する。付き人の役目は彼女を護ることなのだから、得体の知れぬものを警戒するのは彼の中でこなすべき仕事だった。

 思い切り不審な眼をされた方はと言えば、自若としたものだ。


「貴方のことはアザレア様より伺っております、ケイ様。それと、私はただ貴方の主にお頼みしたいことがあるだけです」


 安物のパイプ椅子の上で優雅に足を組み、悠然と包丁のことを見上げているのは、中肉中背の男性である。どうやら先程の墓守なる自称に間違いはないらしい、黒く長い法衣の上から更にすっぽりとフードを被り、頭を覆っている。それでも、その下の頭が造花の花束と火の点いた線香であることは窺い知れた。

 線香の煙は緩やかなペースで――恐らくは彼の呼吸だろう――ローブの下から吐き出され、白い渦を巻いている。アザレアはその渦の消える先を眺めるともなしに眺め、キーンも寸秒その方へと気を取られたものの、すぐに煙を吐き出す本人へ意識を向け直した。

 男は小さく会釈。顔を上げると同時に、話し出す。


「私はフリード、ゾンネ墓地の墓守を勤めております。此度は貴方の主であるアザレア様に、私どもの元へご足労願えぬかと思っております」

「ゾンネ墓地……人物共同墓地ビーイングセメタリーか。此処へは汽車か何かで?」

「いいえ、私はフリッカー様からの御誘いを受けて此方へ参じた次第です。帰りもあの方が送り届けて下さるとのことですが」


 さも当然と言った風な墓守――フリードの返答に、キーンは思わずアザレアへ意識を向けた。主もまた付き人を見ていた。

 あの探照灯が。毎夜“粗悪品”を相手に暴れまわるかの男が、一体誰を悼んで墓地に足を運ぶと言うのか。アーミラリから厖大な量の記憶を与えられたキーンであっても、流石に彼の個人的な事情にまで情報は及んでいない。そして彼は、天球儀の探究心もそっくり引き継いでいる。

 付き人としての使命感で押さえ付けて尚、隠し果せぬ未知への関心。主たるアザレアも、そんな彼の様子に気付けぬほど鈍感ではないし、気付いて無視できるほど無関心でもなかった。好奇心と行動力が旺盛な点で、両者はよく似ている。

 二人が出せる答えは決まっている。応の一言のみ。

 フリードは噛みしめるように頷く。


「性別も体格も、性格も違われていると言うに。貴方方はどうやら似たもの同士であらせられる」

「!」


 図星。ハッと同時に息を呑み、咄嗟に明後日の方向を向いた二人を、墓守は微笑ましいものを見る目で眺めていた。

 そんな目で見るな、との二人の抗議は弱弱しく。くつくつと喉の奥で笑いをかみ殺しながら、黒衣の男は音もなく立ち上がる。静々とその爪先を向け歩む先は、この医院の外だ。

 アザレアとキーンはもう一度だけ、ほんの一瞬目配せしあうと、後は目を合わせることなく中背の男へ追随した。



「フリッカーさんって車持ってたんですか?」

「いんや、“案内人特権”で作った。俺の元の所有者が使ってた武装と車両なら――まあ、出し放題だな。よっぽどデカいもんじゃなけりゃ」

「あ、やっぱりそう言う……」


 助手席にはアザレア、フリードとキーンは狭い後部座席に押し込んで、古い軍用車両が荒野を疾駆する。大きな起伏も草木もない荒涼とした地では、無骨な旧式の車両の中も然程揺れはしない。アザレアはフリッカーから返された答えに眼を細めたきり、運転席でハンドルを握る物の方は見なかった。

 窓の向こうで流れる景色を見つめながら、更に問う。


「どうして私を墓地へ連れて行こうと思ったんですか。“案内人特権”の練習だとか、花屋さんがいないからだとか、それだけの理由で誘ったわけじゃないんでしょ?」

「花を供えられる奴がいないってのは本当の話だし、多少なりと練習を積んどいた方が良いのも本当なんだが……まあ、長いこと生きてると、葬送おくりたい奴の一人くらいは出てくるもんだ。初日にけてやった分、個人的な見返りを求めてもいいだろ?」


 誰を。

 ――とは、聞かなかった。聞いたところで出来ることは何もない。下手に場をとりなそうとして引き出した言葉が、時に人の傷を大きく抉るのだと、彼女は知っていた。故にアザレアは何も言わず、フリッカーの言葉尻に是の意を示す。感謝する、と僅かにトーンを落とした声は聞き流した。

 横たわる静けさ。それを助長するように漂う線香の匂いに、どことなく脳裏をくすぐられたような気分になりながら、アザレアは物思う。


 ――なりふり構わず襲う“粗悪品”を素手で圧倒する戦闘力。物殺しを隣に乗せたばかりか、脅威とも見做さない胆力。武器や車を思いのままに作り出す“案内人特権”。いくらキーンが教え導いてくれたところで、己がこんな男の頸にナイフを突き立てることなど、十中八九不可能だ。触らせてもらえるかどうかさえ怪しい。

 ――それでも殺さねばならないと直感したのは、アーミラリの言うような“時の運”、素っ気なく言えば単なる偶然によるものなのか。或いは何らかの理由があってのことなのか。

 ――後者。その確信だけはなぜか、今もう既に持っている。彼を物に還さなくてはならない理由があるから、己の第六感がそれを成せと示したのだ。

 ――ならばその理由は。そこが分からない。そもそも声音から感情を読み取ることからして少々難儀しているのに、声にも出さぬ心境を見取れる道理がない。日数を重ねれば徐々に読み取る術も身に付いていくだろうが、果たして自分が納得出来るほどの理由を見出すことが、これから出来るようになるのか。

 ――それも分からない。先行きは限りなく不透明のままだ。


 そう。分からない。不安なのだ。

 意識に無秩序な線を引かれたような、不愉快で怖気の立つような心地。しわが寄りそうになる眉間へ手の甲を当てながら、アザレアは視線を掌に落とし、意識を軽く集中する。白い靄が手の内に集まり、あっという間にカモミールの花が咲いた。

 自身の名を決める際に散々苦労した経験があったからだろう、掌に収まるだけの量を生み出すのならば、最早仰々しく目を閉じる必要さえないのだ。ほお、と後部座席からフリードの感心したような声が上がるも、彼女の表情は渋いまま。

 隣にはより複雑で精緻な構造物を生み出せる猛者がいるのだ。花をたった一輪生み出せたところで自慢にもならない。却って打ちひしがれるだけだった。

 小さく首を横に振り、花に顔を寄せる。リンゴに似た、甘く爽やかな芳香。自然に生えているものよりも強く、快を呼び起こす香りは、無意識の内にそれを求めていた精神の反映である。


「大丈夫、死ななきゃいい……」


 決意を表したかそけき声は、乱暴に停止した車の揺れに掻き消された。

 いきなり何事か。非難の視線を浴びつつも、フリッカーは平然として答える。


「着いたぜ、ゾンネ墓地――の、受付だ」


 意識の先は、水垢一つなく磨き上げられたフロントガラスの向こう。

 すり鉢状に凹んだ窪地と、その傍に佇む小さな牧師館だった。

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