十:試し切り

 日が沈んでも、街の活気はしばらく続く。

 嗜好品を売る店が賑わいだすのだ。立ち並ぶ街灯の下では生ける物たちが往来し、様々な佇まいを見せる酒場や料理屋へ出入りしている。そこに疲労や絶望と言った、酒場へ入るときに纏いがちな負の感情は含まれていない。要素がないからだった。

 陽気さや呑気さを一杯に湛えた夜。その賑々しさの中へ、アザレアは顔を出す。

 結局、彼女はシズの仕立て屋に夜まで腰を据えていた。本当ならば殺されてくれと尋ねた後ですぐ出るはずが、あろうことか当の本人に引き留められたのである。やや大きなサイズの外套を手にした彼は、それを強引にアザレアへ着せたかと思うと、その場で丈を詰め直したのだ。

 サイズ直しされたダッフルコートの裾を意味もなく弄りながら、視線は自分の背後。見送りに来たのだろう、立っていたシズがひらひらと手を振る。それでも中々外に出ようとしないアザレアへ、彼は寸秒何か考える素振りを見せたかと思うと、はたと自分の手を打った。


「急場しのぎの直しでごめんねー! でも、女の子がワンピース一枚で出るには寒いと思ってさ!」


 シズの気遣いは斜め上の方向に飛んでいった。

 湿っぽい話を吹っ掛けられるのだろうとばかり思い、身構えていたアザレアは、先刻の話などまるで無かったかのような口調と話題に目を瞬く。出てきたのは、困惑と微かな呆れの混ざり合う溜息だった。


「大丈夫ですけど、あの――」

「……気にしないで」


 声が微かに震えている。けれど、そこに滲む感情が何かは分からない。それは彼の隠し方が上手いわけではなく、単に読み取り手が物の感情を読む術に習熟していないだけの話だ。もし此処に他の物がいたのなら、シズが含ませた色を見ていただろう。

 しかし、そうした状況が都合よく訪れるわけもなく。アザレアは後ろ髪を引かれる思いを残しつつも、言葉を額面通りに受け取って街路へと足を踏み出す。丁寧に頭を下げた裁断士を、彼女が見ることはなかった。

 夕闇の迫る街路を、物殺しは歩く。街の外へ向かって。


「すみません、フリッカーさんからお話を聞いていると思うんですが」

「おお、物殺しの嬢さんか。可愛らしい恰好でまあ」

「これはシズさんとピンズさんのせいなので……」

「そう謙遜するでない、良う似合うておるよ」


 目的地へ辿り着くまでに、そう時間は掛からない。

 荒野の中に砦を成すのは、赤く焼成された煉瓦。ぐるりと円形に街を囲む壁を貫き、その内外を繋ぐ内の一つに、何処か知らぬ遠方へ伸びた鉄道の駅がある。彼女が足を向けた先は、まさにその駅。ナナシ、と言う名だと聞いてはいるが、それ以上のことは今のところ聞いていない。

 小さな駅舎には老人が一人。一昔前の鉄道員の服を纏い、蒸気機関車の一両目――ボイラー室から運転席までの辺りまで――を人頭大に圧縮したものが頭に成り代わっている。頭の機関車は、一見すると精巧なレプリカのようにも見えるが、そこかしこに付いた煤や傷が単なる玩具ではないらしいことを想起させた。

 ゆったりと煙管をくゆらせながら、老人は煙突から煤混じりの煙を上げて笑う。


「ま、探照灯あやつ女子おなごに無茶をさせるとは思わんよ。安心して行ってくるが良かろ。ほれ、そこの柵から向こうだて」

「ありがとうございます」


 丁寧に頭を下げ、アザレアは老駅長の前を過ぎる。

 そこで、ふと足を止めた。振り返る。泣きそうな顔に、駅長の意識がその方で止まった。


「ここの物は、皆私のような人を知ってるんですね」

「うん?……うん。ま、知らんとことはなかろ。此処に住んでおるのは大体長く生きてきた物だて、物殺しを何度も見とるのは多いな」

「殺されることに抵抗はあるんでしょうか」

「さてなぁ、儂はある物もない物も同じように見てきた。長く生きた物は大抵諦めが良いのが多い。だが長く生きんでも諦めのいい奴はおる。生きれば生きるほど頑なになる物もあろうて」

「貴方は?」


 黙り込む。そこに答えはない。

 故に言葉を待つ。果たして答えは、煤と煙の内に返ってきた。


「儂ァまだ死にとうないわ。殺されるのも御免じゃ。これでも大佐より物としちゃ年下だで、やることは山ほどもあるしの」

「そうですか、ありがとう。――ええと」

「キップじゃよ」

「キップさん。また」


 問うべきを問い、アザレアは微笑。会釈して離れゆく少女へ、キップは返事のように煙突から黒煙を噴き出しつつ、シッシと振り払うように手を動かした。早く行け、としわがれた声が続く。声からは炭の焦げるにおいがした。

 示された柵へ向かって歩きながら、アザレアは何とはなしに線路を見る。敷設されたレールは、街の中百メートルを突っ切った所で折り曲げられ、車止めが設置されていた。終点である。路線で言えば始発駅なのかもしれないが、ひどく寂れた雰囲気は終点と言う方がしっくり来た。

 何処から何が来て、何を載せてゆくのか。ぼんやりと物思いながら、柵を超えた。


「結構早かったな」

「シズさんの所にずっと居たんです。コートを貰っちゃって」

「嗚呼、あいつ気に入った相手にやたらサービスしたがるもんな。だがよ、別にシズ以外の所で遊んでても良かったんだぜ? 遊び場なら街中何処にでもある」

「街の中を一人で歩き回る勇気は出ないですね……」


 街の外は一面の荒野。人どころか草木も生えない中で、長身の男三人を探すことは容易い。高い壁に寄りかかり、思い思いに時間を潰していた彼等の元へと走ったアザレアは、からかうようなフリッカーの言葉に小さく肩を竦めた。

 がしゃん。白熱灯を点灯せず、ブラインドを一度開閉。何かを言いかけて止めたらしい、そのままふいとそっぽを向いた探照灯と入れ替わりに、隣のキーンが壁から背を離す。その動作に視線を向けたアザレアは、キーンの頭である包丁をまじまじと見て、怪訝そうに眼を細めた。

 違和感――包丁の刃に、革のシースが取り付けられていたのだ。刀身全体をすっぽりと隠すものではないが、刃の部分を包むように焦げ茶色の革が覆い、ベルトで留められていた。


「ケイさん、頭のそれは?」

「鞘だ。刀身を剥き出したまま歩くな、刃だけでも覆っておけ、と。……アザレア、これを」


 感触に慣れないのか、しきりに左手で革の鞘を撫で付けながら、右手はアザレアに何かを差し出してくる。受け取れ、と不愛想に続いた言葉に従ってみれば、掌大のナイフが一本。鞘にぴったりと収まったそれを両手に収め、アザレアをキーンを見上げた。

 これが武器なのか。てらいのない言葉で尋ねた彼女へ、キーンは是の意を示す。そしてゆっくりと彼女から距離を取った。

 空気が一変。害意はないが、ただ張り詰めていく。敢えて喩えるならば、何かの試験を受けているときのような緊張だ。実際、彼はアザレアを試験テストするつもりなのだろう。紡がれた言葉がそれを示している。


「試してみるか」

「少し、だけ」


 ゆっくりとアザレアは頷き、恐る恐る鞘からナイフを抜いた。

 否、と弱腰になって拒絶できる空気ではないし、彼女自身いつまでも状況に振り回されているほどか弱い小娘ではない。当人の気が進まずとも、やらねばならぬと言われたならばやってのけてしまうのが、このアザレアという少女であった。

 鞘を外套のポケットに押し込み、ナイフの柄を両手で握りしめる。切っ先が中々定まらない。手が震えているせいだった。自分の付き人たる物に刃を向けているのだから、ある程度は仕方のないことではあるが、キーンはそれを見咎める。

 落ち着け、と。凪の海のごとく静かな声だった。


「緊張しすぎるな。肩の力を抜いて、普通に立ってみろ」

「――――」


 硬直している。声は聞こえているようだが、非日常的な物を握っていることが、心身の不一致を起こしていた。キーンは青い顔で立ち竦むアザレアを頭の上から爪先まで見回し、穏やかに声を上げる。


 ――息を吸って。吐いて。もう一度。


「……それでいい」


 低い声に合わせ、深呼吸を数回。無意識の内に詰めていた息を吐き、アザレアは一度ぎゅっと目を閉じて、開くと同時に手の力を緩める。かたかたとランダムに揺れていた刃先が、完全にとは言わぬまでも、ひたりと静止した。

 ぎらつく刃先を心臓へ向け、よく似た怜悧さを鳶色の目にも光らせて、少女は男と対峙する。結構良い目をするものだ、と呟くフリッカーには目もくれない。意識は完全に付き人へと集中していた。

 横たわる静謐と緊張。

 打ち破るのは、少女から。


「……っ!」

「おっ、と」


 地面を蹴って一息に間合いを詰め、キーンの懐に入り込んで、掬い上げるように刃を喉元へ振り上げる。戦闘のせの字も知らなかった少女が、刃物を持っていの一番に狙う場所としては、中々に攻撃的と言えるだろう。

 思わず一声上げながら、しかし慌てることなく。キーンは素早く上体を逸らし、刃の軌道から自身を逃す。同時に右手を振り上げ、細い手首をがっちりと掴んだ。スペクトラの攻撃を止める膂力で掴まれた手は、太い首を切っ先に捉えたまま、しかし十センチ手前で止まる。

 再びの静謐が、数秒。

 ふっと、場に張り詰めていた緊迫の糸が切れた。


「筋は良い。だが、お前にスペクトラと同じことは出来ない」

「だって、人の身体をどうこうしても意味が無さそうだし……」

「アザレア。聞け」


 掴んだままの手首を解放し、キーンはその手でアザレアの肩を叩く。そのまま無言で身を屈め、頭をアザレアの耳の傍に寄せた。新品の革独特の臭いが鼻腔を突く。

 無知なる少女に、付き人は長く囁いた。

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