九:双子
緑青色の屋根を頂く煉瓦の建物。シズの仕立て屋である。
『営業中』の掛札が下がった扉を開ければ、奥の作業台でカーキ色の布地に
後ろ手にドアを閉め、左右に並ぶ棚を何とはなしに見て回る。平たい紙芯に巻き取られ、色や材質ごとに整頓された布の束はいかにも高級そうだ。しかし、真に値打ちのある布が店頭に置かれることはない。見本の一つ――或いは、物好きが自分で仕立てるための材料――として客が手に取れるのは、あくまで大衆品である。
作業台の傍まで歩み寄る。裁断に集中しているのだろう、手元を覗き込んでも注意を向けさえせず、蝋板で印をつけた布へ縦横無尽に裁ち鋏を走らせている。分厚い布の上を、まるで撫でるかのように刃が滑っていく様は、シズの技量と鋏の切れ味の良さを伺わせた。
裁断が終わるまでに、およそ一分半。恐るべき手際である。言葉もなく見入る内に、どうやらシズの集中は途切れたらしい。用を成した裁ち鋏を柔らかい布で磨きながら、はたと布地から意識を離した彼は、傍に突っ立っていた者を見て驚きの声を上げた。
「うわっ! い、いつからそこに」
「へっ!? あっ、いや! さっきです!」
動揺の一声に慌てふためく人間の少女、もといアザレア。彼女は初日に着ていた薄いパーカーではなく、春物のニットワンピースと黒いタイツ、そしてブーツと言った出で立ちだった。部屋着とスリッパのままで女の子を歩かせるわけにはいかない、そうしつこく主張し、シズが仕立て屋として受注したものとは別に贈ったものである。
きちんと着てくれていることを密かに喜びながら、シズは訪ねてきた少女へ用件を問うた。返ってきたのはやや困ったような笑みと言葉。
「特には無いんですけど、ファーマシーさんの所は何にもなくて。暇を潰せそうなお店もまだ開いていなかったので、此方に」
「あー、昼からしかお店が開いてないことも多いからねー。良いよ、しばらく居ちゃって。丁度妹が君の服を縫ってるところだから」
裁ち鋏を抽斗の中へ丁寧に仕舞い、シズは自身の背後を指さした。いいんですか、と喜色を交えたアザレアの言葉に頷き、作業室の扉を押し開ける。促されて中へ入った彼女は、昨日は無人だった右の作業机に、一人の女性が向かっている様を見た。
シズと同じくツイル地のブラウスにぴったりとフィットしたベスト、黒いスラックスに革靴。どうやら仕事着のようであるが、着ているブラウスは左腕の袖だけが明らかに短い。腕に針山を着ける際、邪魔にならぬようにとの配慮であろう。
そして、物であるシズの妹である以上、彼女もまた生を享けた物。その首から上は、竹籠に入った針山に置き換わっている。頭の針山に刺さった針には色付きの糸が通され、先は小さなビーズで留められているようだ。籠から垂れ下がるリボン状の布に花や猫柄の刺繍を入れているのが女性らしい。
シズ達が入ってきた気配に気付いたか、彼女は手を止める。そして、自身の手元にある縫いかけの服とアザレアへ交互に意識を向け、小さく針山を傾けた。針に通された糸が揺れる。
「あなたがこの服を頼んだ人?」
「はい。アザレアです」
「素敵な名前ね。わたしはピンズ、この店の針子だわ」
その場で小さく会釈するピンズへ、アザレアも頭を下げ返した。それ以上とりたてて会話することはなく、ゆっくりしていきなさいね、とだけ告げて、縫製士は作業へと戻ってゆく。一方のシズはと言えば、場の空気を掴みあぐねて立ち尽くした少女のために、店の表から椅子を一脚引っ張って戻ってきた。
籐で編まれた椅子の座面にふかふかの座布団を敷き、その上にすとんとアザレアを降ろして、自身は作業室の更に奥へ。二階に繋がる階段を上がるシズへ、少女は戸惑いがちの視線を向ける。
「お店、大丈夫なんですか?」
「うん。だって表にケイさんがいるんでしょ?」
「いえ、今は……」
刃物を扱う店に行っている、とアザレアからは一言。階段を上がりかけた足を止め、シズは束の間怪訝そうな空気を漂わせたものの、すぐにその気配を消して段に足を掛ける。かの包丁が刃物専門店に行くのなら、その理由は聞かずとも察せられることだった。
店の方は心配しなくても大丈夫。自信満々に告げ、しかしやや足を早めて、彼は二階へと姿を消す。その姿を見送り、ぎぃと
どうやら彼女も一度仕事に熱中すると周りを気にしなくなるタイプらしい。既にある程度の下準備が整えられた布地へ、丁寧に針を通していく。机のやや右に鎮座するミシンは、どうやら彼女の服を作るにあたっては用無しであるようだ。尤も、ピンズの縫製はミシンの如く早いし、針目もまた然り。ミシンはあくまで補助用か、急ぎ仕立ての時に使うものなのだろう。
熟達した職人の手仕事は見ていて飽きない。いつの間にやらアザレアは戸惑いや緊張と言ったものをすっかり解き、肘掛に頬杖をついて、縫製士の手元を穴が開くほど見つめていた。
そこへ、銀盆を片手にシズが戻ってくる。どうやら上の居住スペースで茶を入れていたらしい、とたとたと軽い音を立てて階段を下りてくると共に、部屋中へ紅茶の香りがたちこめた。作業に没頭しているピンズはそれでも俯いたままだが、アザレアの気を引くには十分だ。
「シズさん」
「お待たせー。ピンズの手仕事は見てて楽しい?」
盆を机の上に置きつつ、シズの意識は隣のピンズへ。兄の視線にも関わらず、妹は運針に集中している。自身の方を見向きもしない彼女に、こりゃ駄目だとシズは肩を竦めて、自分も椅子へ腰掛けた。
三人分用意したティーカップの内、二つにだけ紅茶を注ぎ、角砂糖を一つとミルクを少し。小さなスプーンで手早くかき混ぜ、一つはソーサーごとアザレアに手渡す。礼と共に受け取ったことを確かめると、自分も杯を手に取った。思わず、少女の視線が裁ち鋏の所作へ集中する。
カップの縁を当てたのは、彼女から見れば鋏のカシメ辺り。どうやらその辺りが彼の思う口らしい。そのまま傾ければ無惨に零れるはずの紅茶は、しかし傾ける端から何処かに消えていった。一体何がどうなればそうなるかなど、最早彼さえも知らないだろう。何しろ、認識が常識を変質させる世界だ。
ぱちくりと目を瞬きつつ、アザレアも紅茶を一口。良い茶葉を使っているのだろう、芳醇な香りが鼻に抜ける。濃い目に入れてあるにもかかわらず苦味は薄く、飲みやすい。厚くもてなされているのが身に染みた。
二口。喉を潤し、決意するように口を開く。
「シズさん、一つ伺っても」
「んー? ぼくに答えられることならね」
「……殺されてくださいって言ったら、どうしますか?」
ぴたり、と。ピンズの手が止まる。しかし、意識はアザレアに向かない。作業が止まったのも一瞬で、物殺しが気付く前に作業は再開する。
一方のシズはと言えば、大変あっけらかんとしたものだ。くい、と軽く紅茶の杯を傾けて、小さく笑いながら返答した。
「棺桶一杯にアマリリスを敷き詰めておくれ」
今度はアザレアが固まる番だ。一瞬呆気にとられたような顔をしたかと思うと、彼女は信じられないと言った表情で彼を見た。
それで良いのか。震えた声。ソーサーに紅茶のカップを置きながら、裁ち鋏は答える。
「ぼくねぇ、前の持ち主がすごい腕のいい仕立て屋の家系だったの。最後の所有者はそう――キリッとしたきみとは似ても似つかない、ふっくらした女性でね。ぼくのことは中学校の頃から使ってた。お婆ちゃんから貰った裁ち鋏だって言って、お店を継いだ後もずーっと」
「……でも」
「うん、ぼくが命を貰った時にこうしたの。どしてか分かる?」
刃に巻き付けられた麻布を突き、語尾を上げて放り投げられた声へ、アザレアは首を横に振った。しかしその表情は暗い。無知であるとはどう考えても言い難い。
そう。正確を期すならば、シズの言いたいことを察することは出来た。記憶の中に、本来そう使うべきでない道具をそう使ってしまった者がいたからだ。しかし、未だ癒えぬ心の傷を抉ってまで口に出す勇気を、少女はまだ持っていない。
裁ち鋏は彼女の心中に勘付いていただろう。ほんの微かに雰囲気が揺れ動く。けれども、声は温和に、泰然としていた。
「ぼくねぇ、その子のこと殺してるの。その子、ぼくを振り回して家族を全員突き殺して、最後に自分の喉突き刺して死んじゃった」
「どう……して」
「言わせる気?」
物殺しの追及を諫める、ぴしゃりとした声は女性のもの。ピンズだった。
針山の頭は机の方へ向けられ、アザレアを見てはいない。ただただ、縫いかけのシャツの上で握りしめられた手の震えだけが、声音からは読み取り切れない激しさを語っている。
だが。シズはかぶりを振った。喋らせてくれと。
「限界だって。自分は頑張っているのに誰からも認めてもらえない、なのにお母さんもお父さんもお兄さんも自分を追い越していく、人から認められる素晴らしいものを作ってしまう。比べられて嗤われるのが辛いって。――それじゃ、物殺しさん。一つ考えてみよっか」
色を少し変え、無理やりにトーンを明るくした声で。
彼は綴る。自身に待ち受けるであろう未来を。
「物は所有者の意志を自分のアイデンティティのように思って生きる。アーミラリさんからはそう聞いてるはず。それはつまり、ぼくたちは元の所有者の在り方を真似して生きていることでもある。そして
刹那の静謐。
続く声は、強い諦観と苦悶の色が滲んだ。
「人殺しになんかなりたくない。そりゃそうだろう。でも……もう後が無いんだ」
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