八:裁ち鋏
茶色い煉瓦の二階建て、打ち付けられているのは『TAYLOR SISS&PINS』と金文字で書かれた黒い看板。特徴的な
フリッカーは試しにドアノブへ手を掛ける。奇妙なことに鍵は掛かっていない。そのまま引き開けると、カラカラと低くドアベルの音が響いた。蝶番が微かに軋り、僅かに重く澱んだ空気が間から流れ出す。やはり無言のまま、彼は大きく扉を引き開け、中へ身体を滑らせた。
まず目に付くのは、部屋の両側に設えられた大きな棚と、その中に収められた様々な布や糸。店の奥には高さのある樫の作業台が置かれ、その天板には一定間隔で線が引かれている。備えられたペン立てには羽ペンや長い定規が立てられ、傍らには三角形の白い蝋版数個と型紙が放り出されていた。
作業台から向こうには、埃避けの布が被せられたトルソーや様々な色の糸を収めたガラスケース、ボタンを収納しているであろう
違和感。店員がいない。普段であれば最低でも一人は作業台の傍にいるはずだが、今日に限っては何処にも姿が見えなかった。掛札を下げているからとは言え、不用心が過ぎる。フリッカーはおもむろに作業台へ片手をつくと、その奥の閉ざされた扉へ向かって声を投げた。
「シズ、シズー。扉が開いてんぞー」
「あー、またやっちゃった。ちょっと今手が離せないから、閉めといてくれるー?」
危機感の欠片もない返答である。これで良からぬ物であったら、声の主――シズは一体どうするつもりだったのだろうか。責めつけたい気持ちを押さえながら、フリッカーは扉のサムターンを回して鍵を閉める。シズは相変わらず出てくる気配がない。
再び作業台へ片手をつき、閉めたぞ、と一声。気の抜けたシズの声が投げ返され、それきり沈黙が漂う。
「シズ、俺も客なんだけど」
「そうなの? じゃあ入っておいでよ、多分知ってるお客さんも一緒だよー」
「あのなぁ……」
もし泥棒や強盗だったらどうする気だったのか。そう言いかけて、止めた。
街に住む物に他を疑えと言う方が難しい話なのだ。街の外に身を置く探照灯と、街の中で安穏としている物たちとの間には、埋められないほど深い認識の差違がある。そこに気付けないほど彼は愚かではないし、気付いた上で分かってほしいと強いるほど無理解でもない。
分かった、と気のない返事を代わりに投げて、彼は作業台の脇を回り込むと、分厚い樫の扉をそっと押し開けた。途端に漂う、ほんの微かな
小ぢんまりとした部屋だった。左右の壁に一つずつ置かれた重たげな机は、それぞれこの店に常駐している裁断士と縫製士のものだろう。片や書きかけのデザイン画やとりどりの画材が机の上に散乱し、片やアンティークな足踏みミシンが鎮座している。工程の全てが手作業、昔ながらの仕立て屋だ。
そんな工房の主――シズは、しかし存外に若い男であった。
「アザレアちゃんとケイさんに話聞いたよー。シャツ捨てられちゃったんだって?」
二十代後半と言った所だろうか。ツイル地の白シャツにぴしりと折り目のついた灰色のスラックスを合わせ、よく手入れされた焦げ茶色の革靴を履いている。襟をくつろげた首にメジャーを掛けているのが、何とも仕立て屋らしいと言うべきか。
頭はバラの花の掘り込みが入った裁ち鋏。鍛造されたものであろう、持ち手まで鋼で出来たそれは、刃先を下に向ける形で首から上に突き立っている。しかし、その刃が布を断つ用を成すことは最早出来ないだろう。鋏は細長い麻布でぐるぐる巻きにされ、硬く戒められていたから。
そんなシズのすぐ近く。やや緊張した面持ちで棒立ちになり、肩にメジャーを当てられている少女が一人。アザレアである。フリッカーは彼女の通り名を知らないが、シズの付けた人称からして彼女がそうなのだろうと、ぼんやり察することは出来た。
それ故に、慌ても驚きもしない。肩を竦め、シズの問いに答えるばかりだ。
「寝てる間に患者の服捨てるたァとんでもねぇヤブ医者だぜ。訴えてやろうか」
「あはは、ファーマシーさんらしいねー。オーダーは前と一緒でいい?」
「構わん。それ以外知らんしな」
再び笑声。折角だから他の生地でも作ってみないか、と冗談半分な提案を丁寧に断りながら、尻ポケットに突っ込んだ煙草とマッチの箱を取り出そうとして、止める。喫煙厳禁の場であることをうっかり忘れていたのだ。咄嗟に腰を叩いた探照灯へ、シズは疑問符一つ。
何か言いかけて、小さく首を横に振る。裁ち鋏の興味はそれきり探照灯から離れ、華奢な少女の採寸に集中した。フリッカーの方も、場に出しかけた言葉を掘り起こそうとはせず、閉じた扉へそっと寄り掛かり、裁断士の仕事ぶりへと意識を向ける。
人の身の齢は若いが、彼を動かすのは肉体の経験ではない。頭である裁ち鋏に染みついた、所有者の意志と記憶だ。手際よく進められていく採寸は、彼が熟練した者の手で使われていたのだと思わせる。服飾分野に疎い彼ですら、シズの要領の良さは見て取れた。
見ている前であっと言う間に採寸を終え、シャツの胸ポケットに忍ばせていたメモ帳へ素早く書き留めて、シズはアザレアの肩を叩く。楽しみにしておいてね、との言葉に頭を下げた少女は、外へ出ようと扉に足を向けかけて、はたと立ち止まった。
鳶色の双眸。僅かにつり目がちの眼が、扉に寄りかかる探照灯をただじっと凝視する。しかしお互いに敵意はなく、膠着はすぐに崩れた。
「そう言えば、お名前言ってませんでしたっけ。アザレアです」
「フリッカーだ。“粗悪品”に襲われたのは災難だったな」
「いいえ。あの時はお世話になりました」
苦々しさを隠すことは出来なかったが、それでも笑顔を作る。その笑みに彼が一体何を思ったか、彼女には読み取れない。ただ、そうか、と無感情な一言を放り、扉から背を離したフリッカーの横へ、扉を開けるべくアザレアは歩み寄った。途端、武骨な手が華奢な肩を掴む。
ぎょっとして見上げた先、首から上に鎮座する探照灯はアザレアの方を見てはいなかった。言葉だけが矛先を向けているばかりだ。
「明日……いや明後日の夜、街の外に来な。同じ場所だ」
「一昨日言ってたことですか?」
「察しがいいじゃねぇの。そう言うこった」
最後まで視線は合わない。フリッカーは黙って肩から手を離し、アザレアはそのまま扉を引き開けて部屋を辞した。
少女の瞳が向く先は、作業台の傍に並ぶトルソーの陰。気配を消し、物音一つも立てることなく、キーンはそこに腕を組んで立っていた。アザレアが彼に気付けたのは、キーンが彼女を見た瞬間に動き出したことと、最初から立つ位置を知っていたからに他ならない。
裏を返せば、それは知らされなかった物全てが誰も気付けなかったことの証拠でもあるだろう。かのフリッカーでさえ、すぐ傍に居るにもかかわらず見逃しているのだ。
にわかに増えた気配をドア越しに背で感じながら、フリッカーは肩を竦めた。
「気になってたんだが、さっきから花の匂いがするのは何だ?」
「木犀ね。アザレアちゃんがくれたんだよー。「練習用に作ったけど、捨てるのはもったいないから」ってさ」
いいでしょ、花屋が物殺しに還されて以来だ、と嬉しそうに一笑。
しかし、すぐに首を傾げる。
「でもさ、“案内人特権”で貰って嬉しい力じゃないと思うんだよねー。アーミラリさんって物殺しの役に立つ力をくれるんじゃないっけ?」
語尾を上げながら、シズは部屋の隅をちらりと一瞥した。フリッカーも続く。
ミシン糸や布見本を収納した洋箪笥の上、細長いガラスの花瓶に、たっぷりと白い花を咲かせた銀木犀の枝が一本活けてある。随分と時季外れの一輪挿しであるが、見ていて気分の悪いものでは決してない。少なくとも、街の外で迎える朝の景色よりは何倍もまともだ。
脳裏を掠めた情景――ぐずぐずに崩れた肉と鉄屑の山を心中で払い消しつつ、探照灯は呟いた。
「掃き溜めに花ってことかね?」
「それ言うなら鶴じゃない?」
「うるせ」
いいんだどっちでも。いやよくない。
無意味で平和な応酬が続く。
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