七:戦友
「……肩痛ぇ」
ファーマシーの見立てより、少し遅く。二日目の朝に、探照灯――もといフリッカーは目を覚ました。
うつ伏せのまま二日。無論床ずれ防止の為に何度か動かされてはいるものの、それでもかなりの長時間を不自然な恰好で過ごした人の身は彼方此方がガタついている。背の傷は痕も残さず癒えているが、フリッカーはそれでも、自身の上体を起こすことに難儀した。
軋む関節を叱咤し、倦怠感の残る筋肉に喝を入れて、尚五分。大怪我から立ち直った人の身としては大変早いほうだが、当人の体感としてはかなり遅い。もたもたせざるを得ない肉体に湧きたつ苛立ちを丁寧に隠しながら、フリッカーは周囲を見回す。
ぎしぎしとスプリングの五月蠅い寝台、古いが清潔感のある白い床と壁、少しだけ開けられたガラス窓と、入り込む風に揺れるレースのカーテン。寝台横に設えられた小さなテーブルの上では、ジャム瓶に活けられた白いガーベラが一輪、微かな風に揺れている。辺りに人や物はない。
馴染みのある医院の病室であることを確かめたフリッカーは、何とはなしに一輪挿しのガーベラへ手を伸ばした。武骨な太い指が花に添えられ、瓶から引き抜く。少しでも力を入れたなら容易に握り潰せるであろう儚さは、それが安っぽい造花でないことの証拠だ。
「花屋は、殺されてるんだがな」
独りごちてガーベラをジャム瓶に残し、彼は寝台からゆっくりと立ち上がった。服は着ているが、意識を失う直前までの分厚い軍服ではなく、着脱のしやすい丸襟のシャツとズボンに変わっている。軍靴など当然履いている訳もなく、素足に古ぼけたスリッパを突っ掛けた。
ぱたぱたと間抜けた足音に、がらがらと喧しい引き戸の音。古い医院の廊下だけによく響く。癖で左右を警戒しつつ、そっと廊下へ出た。がらんとして、無人である。ファーマシーの医院が忙しい所を彼は見たことがない。“粗悪品”に襲われる心配がないからだ。彼にとって、暇を持て余す医師の姿は喜びだった。
白紙のネームプレートを掲げる病室を横目に、階段を下りる。三階へ上がれば屋上に出られるが、上がったところでどうせ誰も居ない。大量のシーツとタオルが揺れているだけの虚しい空間である。ならば、医局に顔を出してちょっかいを掛ける方が彼には面白く思えた。
リノリウムの打たれた階段を下り、右折。医局はもう見えていた。
「ファーム。いるか?」
「嗚呼、おはようフリック。だがもう八時だ。
四方の内二方の壁が取り払われ、受付用の机と本棚が間仕切りの代役を務める、半開放的な空間。その一番奥にファーマシーはいる。昼間であれば診察室にいるが、朝方は昨日のうちに溜まった仕事を片付けるために此処で釘付けになっているのだ。無二の友人の行動は熟知していた。
一方のファーマシーも、行動派な大佐の習性は良く知っている。突然上がった声にも動ずることなく、彼は溜まったカルテの山や領収書の確認を進めながら軽口を叩いた。まさか、とフリッカーも肩を軽く竦め、勝手に医局の中へ入ってくる。付き合いの長い彼なればこその非常識であろう。
歩きながら室内を物色し、手頃な椅子を引き寄せて腰掛ける。ぎぃい、と悲鳴を上げる椅子に構わず、探照灯は首を傾げた。
「あの包丁と物殺しは何処行った? 俺が此処にいるってこた、多分空き部屋貸したんだろ」
「ケイとアザレアなら、今シズの店に行っているよ」
「シズの?……まあ、あの薄っぺらな服じゃやりにくいわな。ついでに聞くが、俺の服どうした」
「ズボンはともかく、シャツは廃棄したよ。血液と土埃と鉄錆びで汚染された衣類なんか保管しているわけがない」
さらりと当たり前のように、けれども多少棘を含んだ声音で告げる医師。姿勢としては何ら間違っていない。それだけに反論の余地はなく、フリッカーはもごもごと口の奥で曖昧な文句を呟くばかりだ。
手動のシュレッダーへ要らないメモを飲み込ませるファーマシー。薬瓶に半分ほど満たされた水薬が、ごぽりと大きな気泡を上げる。乱れる水面をじっと見るフリッカーに、医師の問いかけはやや力ない。
「追いかけるのかい、二人を」
「まあな。安心しろ、殺される気はねぇが殺す気もない」
飄々とした語り口。饒舌だが、真意は友人としての長い付き合いを以てしても読み切れない。
低く唸りながら、ファーマシーは立てた親指を自身の左胸に突き立てた。
「貴方の心臓を抉りだしてくるかもしれない子だよ」
「構うかよ。物に還る時と場所は俺の意志が決める。俺の敵味方になる相手も俺が決める。
「呪いか」
言い得て妙だ。ファーマシーは笑った。寂しそうに。
頭の悪い俺なりに頑張って捻ったんだ。フリッカーも小さく笑声を零す。
くすくすと微かな声は、次の瞬間掻き消えた。
「それとなファーム。“粗悪品”に殺される人間を見るのは、もう御免だ。あいつが“粗悪品”相手にもまともに戦えるようになるまで、少なくとも俺は死なんしあいつも死なせんよ。仮令人の身を砕かれても」
「……分かる、さ」
水薬は呻く。
百余年“粗悪品”との戦闘に明け暮れ、人の身の感覚を忘れかけても尚人の身を以て戦場に在り続け、それでも眼前で罪なき人間が殺された事実。それは、
思わず握り潰しそうになった竹軸の万年筆を机に横倒し、その手でコツコツと薬瓶の茶色いガラスを叩きながら、苦悶の声を絞り出した。
「分かるよ、フレデリック。良く分かる……」
「あんたは特にな、フェリックス」
フレデリックと、フェリックス。
それぞれフリッカーとファーマシーの本名である。互いに真の名を預け合い、呼び合うことに全く抵抗を覚えないほどの深い付き合い――その年月は容易に想像しがたくとも、凄絶な背景があることだけは確かだ。微かに震える医師の肩と、それを叩く力強い腕が物語っている。
重苦しさの内に、フリッカーはファーマシーの傍を離れる。その背に、頭を伏せながら上げられた声は、それでも次の瞬間には平静を取り繕っていた。
「外套はスティンに何とか染み抜きさせた。靴は来賓用の靴箱に入れてある。大事なものだろう?」
「ん。助かった」
返答は短い。それでも彼なりに感謝はしている。
戦友の後ろ姿が取り払われなかった壁の向こうに消え、正面玄関のガラス戸を開けて出ていくまで、医師は俯いていた。探照灯は無言を貫く水薬の悲愴な空気を感じながらも、声はかけない。下手な慰めは余計に心を抉る。身を以て知っているからこそ、言葉は選んでも出さなかった。
古い医院である。見舞客用の出入り口のドアは錆びが浮き、開け閉めする度にキイキイと耳障りな悲鳴を上げた。しかし意に介さず、フリッカーは外へと歩み出た。歩くにも億劫だった身体はそれなりに元の調子を取り戻しつつある。だが走るには
だから、歩いた。のんびりと。今まで自身が背にしてきた街の中を。自身がその魂すら賭けて守り抜いた街を。
「静かなんだよな」
静謐の中にフリッカーの声だけが落ちる。
街の朝は遅い。日が高く昇って尚活気が出ないこともある。生ける物ばかりが寄り添って暮らすこの街は、あくせくと働いて経済を回す必要が特にないからだ。いざとなれば、人の身は滋養を得ずとも生きていられる。物たちが求めるのは、もっぱら人の身の感覚を再認識し、摩耗する精神を充填するための嗜好品だった。
フリッカーはとりわけ人間の嗜好品を好む一人だった。歩きながら早くもそわそわとして、ズボンのポケットをまさぐる。果たして求めるものは、尻ポケットに突っ込まれていた。
煙草と、マッチ。本来禁煙であるはずの医院では見ない品物である。それでもあるのは、ファーマシーが気を利かせたのだろうか。とにかく煙草を手に入れた彼は、そそくさと一本を引き出し、くしゃくしゃになった本体を真っ直ぐに伸ばした。
右手の中指と人差し指に煙草を挟んだまま、箱からマッチを一本。側薬に頭を擦り付け、点いた火を煙草の先に移す。用済みの燃えカスは、多少の逡巡の後、箱と共に元の場所へ押し込んだ。
紫煙が空へ立ち昇り、消えてゆく。探照灯の何処から空気が出入りしているは分からないが、とにかく人間のような呼吸を意識すれば、先の火はより赤く輝いたし煙は息を吹き掛けたように揺らいだ。そして独特の強い香りは、戦いに塗れてささくれた意識へと染み入り、人の身と物の認識とを結び付けてゆく。
――仮にも自身と同じ物を傷つけ、命を奪う。毎晩のように繰り返す熾烈な闘争。心身を削るように強さを追い求める日々の中、徒手にて正常な認識が保てるはずもない。彼の正気は曖昧な紫煙に依存して何とか形を作っているのだった。
「……シズの店は禁煙だったっけ」
小さな喫茶店の前で、ふと立ち止まる。意識が向くのは、ドアの前に立てかけられた「全席禁煙」の札。玩具や女性向けの家具が生を享けると、その物は極端に煙草を嫌うことがあるのだ。喫煙者はこの街ですら排斥される運命にある。
一方で、シズの店――仕立て屋の禁煙事情は、喫茶店のそれとは少々異なる。煙草の煙が布地を傷めるからというものであった。煙風情で、と嗤うことは、フリッカーには出来ない。硝煙漂う戦火と修羅場を潜り抜けてきた、探照灯には。
故に、彼は煙草を素手で握り潰した。先に灯っていたままの火が手を焼くが、無視できる範疇の傷だ。煙まで潰え去ったことを確認した彼はきょろきょろと周囲へ意識を飛ばすと、空っぽのごみ箱に吸殻を払い落し、すぐ先の仕立て屋へと足先を向けた。
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