六:水薬

 くるくると白いツツジの花を指で弄び、一方ではずり落ちかけた怪我人を度々担ぎ直し、他方では街中に伸びる石畳の道を複雑に折れ曲がりながら進む。異形の物三人と人一人、何とも奇妙な道行きにも思えるが、物が人の身を得るこの世界ではとりたてて珍しいものでもない。

 ただ一つ。この世界の住人でも見ることの少ないであろう光景は、担がれている探照灯の重傷ぶりである。街の外に身を置いて“粗悪品”と戦う以上、手傷を負うことはしばしばあれど、気を失うほどに手酷くやられたことなど今までに数度もなかった。

 しかし、それを驚きを以て迎えぬ物が一人。スペクトラが案内の末にその扉を叩いた、古い医院の長である。くたびれた白衣を無造作に羽織った、四十代後半と思しき男の頭は、液体とヤナギの枝葉が入った茶色い薬瓶に成り代わっていた。

 寝台の上に伏臥ふくがさせられた探照灯、その背の傷を検め、一通りの処置を施して、医師は処置室から隣の診察室へと戻る。木の引き戸がガラガラとやかましい音を立て、スペクトラと見知らぬ男女が顔を上げた。うち一人、少女の顔には濃い疲労の色が見える。

 しかし、彼は一度見て見ぬふりをした。引かれたままの椅子にゆっくりと腰掛け、つい先程診察した探照灯の容態をスペクトラへ告げる。


「とりあえず残っていた異物は取って消毒しておいた。まあ、人の身の傷で物が死ぬことはないから、そこは心配しなくてもいい。――ただそれでも、損傷が酷いね。アーミラリならそれでも一時間で治るんだろうが、彼はそうも行くまいよ」

「どの程度掛かりそうで?」

「二日……いや、三日。勘を戻す時間が要る」


 今までが戦い漬けだった、人の身の感覚を忘れていることも良くある、と。医師は当たり前のことのように言い放ち、ぎしりと椅子に背を預けた。意識の向く先がスペクトラからアザレアとキーンに変わる。そのことに気付いたのだろう、二人もまた彼を見た。

 アザレアの方は小さく会釈。彼にとって見覚えのない娘であるが、どう言った用件で此処へ来たかはそれとなく分かった。かけるための言葉を慎重に選びながら、医師も頭を下げ返す。傍にいた男の方がすぐさま自分から興味を失ったことにやや引っ掛かりを覚えるも、まずは少女と話すのが先だった。


「私はファーマシー。この医院を経営している医師だ。貴方には見覚えがないのだが、物殺しかな」

「はい。アザレアと言います」

「アザレア、ね。悪くない名前だ」


 少女が口にした名が偽物であることはすぐに察しがついた。

 その手に持っていた白い花が、まさに同じ名を持つものであると知っていたからということもあるし、何より彼女は物殺しであることを否定しなかったのだ。それはすなわち、彼女が異世界から招かれた客人であることと、生ける物がある意味で敵対者であることの証左である。

 そう、物殺しにとって、生ける物とはその命を還すべき敵に他ならない。だからこそ、物殺しが真の名を物に預けるのは稀な行為である。ファーマシーの知る限り、本名を名乗った物殺しは一人。それも、物殺しとしては最悪のケース――仕事を完遂出来ずに心身を傷だらけにされた挙句、“粗悪品”によって殺されてしまった、いつかの哀れな少年だけだ。

 然るにアザレアは気丈である。手にした花の瑞々しさからして、通り名を決めたのはかなり直近のことなのだろう。しかし、彼女はそれを迷いなく自分のものとして提示してきたのだ。状況の荒波に揉まれ、尚立っていられるだけの堅牢な精神力を持っていると言えた。

 つらつらと過去を思い返すファーマシー。長い沈黙の後、彼はアザレアへ続ける。


「招かれたばかりで疲れただろう。空いている部屋を一つ貸してあげるから、今日はもう休むといい」

「良いんですか」

「構わないさ。どうせ今日のようなことが無ければ呑気な町医者だ」

「その後は?」

「……さあね」


 夜が明けた後の処遇について、医師は口にしなかった。語らぬ裏にどんな事情があるのかは分からないし、想像することも出来ない。先行きさえ見える気がしない。今彼女に出来るのは、彼の厚意に甘えることだけだ。

 それを証明するかのように、声が続く。


「身の振り方は一緒に考えよう。一晩時間をおくれ」

「――はい」


 疲憊ひはいの色を隠すように、アザレアは頭を下げた。のろのろと億劫そうに立ち上がる少女に続いて、キーンが腰を上げる。

 この段になって、ようやくファーマシーは男の素性について尋ねる気になったらしい。椅子に座り直し、一言だけ問いかける。貴方は、と。

 対するキーンは、いつもの如く名前だけ放り投げようとして、何か思い直したらしい。少々思案する素振りを見せたかと思うと、おもむろに向き直り、きちんと文言を並べた。


「ケイ。彼女の付き人として、アーミラリに“起こされた”物だ」

「嗚呼、道理で落ち着いていると思った。それに戦闘慣れしていると見える」

「包丁だからな」


 包丁だからの一言で片付けられるものではないだろう、とファーマシーは一笑。対するキーンの返答は、棘を含んだ沈黙である。不用意に立ち入って良いことは何もないと、殺気じみた威圧感が物語っていた。アザレアはいちいち剣呑な態度を取る付き人が心配らしい、はらはらした表情で彼を見ている。

 いたいけな少女を無駄に不安がらせるのも良くない。分かっている、少し試しただけだ、と彼に背を向けながら答えると、威圧感は緩んだ。足音も遠ざかっていく。

 二階の廊下の突き当たって右だからね、と空き部屋の場所を教え、それに対するアザレアのか細い返答は軽く聞き流した。その後落ちてきた静謐は、払わずその場に積もらせていく。診察室へ残ったのはスペクトラとファーマシーのみだ。

 は、と小さな溜息が一つ。堪えに堪えていたものを緩めたような、苦痛を交えた吐息を、この静寂の中、医師の耳が聞き逃すはずもない。傍の机に転がっていた竹軸の万年筆を取り、同じく机に散らばっていた白紙に素早く何かを書き留めながら、水薬は首を巡らせてかの方へ意識を向ける。


「随分な我慢じゃないか。初対面の二人相手に恰好を付けたつもりかね」

「そうとも言うんですかね。いつか俺を殺しに来るであろう物殺しに、最初から舐められたくなかったんです」

「最初から、か。殺されるつもりはあるんだね」


 小さく点頭。椅子を立ち、歩み寄ってきた医師へ、スペクトラは掠れた声で呟く。


「アザレアは大佐も――フリッカーも殺さねばならないと直感しています。百余年の戦場を生き延びてきたあの彼をも。ただの女の子が経験する波乱としては十分すぎると思いませんか」

「彼女の障害になりたくないんだな」

「俺は物殺しに元の世界へ無事に帰って欲しいと思っています。いつでも。あの子が“粗悪品”に解体された後は、より強く」


 絞り出すような声音は、決して痛みや疲労からくるものばかりではない。

 チカリと、一瞬だけ照明が点滅した。


「アザレアは先の暴徒とは違う。俺達とも違う。元の世界に希望も未来も、生きる目的も残してきているはずです。それを俺達の都合で剥奪していいわけがないでしょう? もし彼女の帰り道に俺がいるのなら、手助けはすれど邪魔にはなりたくない」

「その割に付き人へは刃を向けたようじゃないか。その首の痣は何だね」


 医師の鋭い切り返しに、スペクトラは黙り込んだ。

 首に痣が残っている。それはつまり、それだけの力で目一杯締め上げられていたことと同値だ。恐らく彼の態度からして、望めば首の骨を枯れ木の如くへし折ることすら出来たのだろう。ケイと名乗ったかの男、その膂力と静かな殺意に、改めて慄然とする。

 “粗悪品”によって傷付けられた左腕を強く抑えながら、彼は自嘲気味に笑った。


「単なる自惚れです」

「そうか。……とりあえず、傷を見せてくれるかな」


 明言は避ける。要らないとも言うだろう。

 異世界の夜はしじまの内に過ぎてゆく。

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