一:包丁

「嗚呼、さっき放り出しちゃったきりか」


 アーミラリの手に、包丁が一本。

 先程迷い込んできた少女が持ち込み、そして己の胸へと投げ付けられたあの一本だ。中々に年季の入った古い包丁。研いだばかりなのだろう、鉄の刃は鈍く輝き、柄は使いこまれて黒ずんでいる。刃についた血は既に赤黒く固まり、指で軽く拭えばぼろぼろと剥がれ落ちた。

 少女を外へ放り出した後である。左胸に付けられた刺創は早くも塞がり、動くに支障もない。服に血が付いていることを除けば、彼が先程包丁で刺されたとは誰も思わないだろう。意志を以て動く物は、人の身の傷で命を奪われることはないのだ。

 ぎらついた刃を眺めながら、思い返す。少女の前に此処へ招き寄せられた男。明らかに危険な色を秘めたかの男の様は、まさしく修羅であった。死なぬ人の身を滅多矢鱈に切り付け、突き刺し、切り開き――治るより早く肉を削り、骨を砕いた。男が立ち去った後には肉塊の如く切り裂かれ崩れた人の身が残った。

 なぶられる痛苦で心を折ることを選んだ人間は数おれど、それを最初から最後までやり通したのはかの男のみである。男の壮絶な旅路は、百を超える物を還して終わった。元の世界へ戻った男は、この時の記憶を忘れて幸せに暮らしている。

 包丁を傍に置き、思い出す。最初に此処へ迷い込んできた老女。口の達者な女性だった。彼女は一人一人の元を回り、その生き様を知り、理解して尚根気強く言葉を重ねた。絶対に戻ると。親である娘を喪い、一人になった孫を守らねばならぬと。語らった後に人の身はなく、魂の抜けた物だけが残った。

 刃を取らぬと決めた人間は多い。一度の戦闘もなく、自前の弁舌のみを以て、生ける物に還ると決めさせそれを成し遂げたものは、老女の他に三人いる。彼女はその最初の一人だった。彼女は五年の歳月を掛け、五十人と語らい世界から認められた。元の世界で彼女は育て上げた孫に看取られ、大往生を遂げている。

 他はどうか。一方的な殺戮であった。何処ぞかからチェーンソーだの芝刈り機だのを持ち出し、逃げ惑う物どもを手当たり次第に肉と無機物の塊へ変えていった者ら。吐き気のする殺戮の宴で、一体全体何人が血の海に沈んだか、アーミラリは今でも知ろうと思わない。兎角おびただしい量の命ある物を無惨に殺し、彼等は下卑に笑いながら帰っていった。何をしているのかは、気にしたくもない。


「あの子への付き人か……」


 惨劇を振り払い、アーミラリは思考に耽る。あの少女が――自棄を起こして己の胸に包丁を投げつけ、当たったと見るや心配して駆け寄ってくる彼女が、果たして今までの人々の如く振舞えるであろうか。

 否。答えを出すと同時に、チカチカと赤く光が明滅した。

 彼女はただの少女だ。生ける物を屈服させられるほどの暴力は持っていない。その上“案内人特権”と称して与えた能力は、確かに世界の理からはみ出したものではあるが、起こせる結果はそう大したものではなかった。かの凄絶な修羅鬼の道を歩ませることは叶わないだろうし、それを彼女が望むとも思えない。

 特殊な精神構造や規格を持っているわけでもない。妹にはあれこれと情を抱いているようだが、それを糧にして立ち回るには弱い。死期を垣間見たものの望郷の想いには到底敵わないだろう。ならば、老女や法律家の如く在ることも、武器の性能に飽かせた殺戮の徒として振舞うことも難しい。そも、言葉で物の意志をげさせることが。或いは虐殺を楽しむことの難しさは如何ばかりか。アーミラリ自身が身を以て知っている。


「包丁、包丁ね」


 再び、彼は包丁を手に取った。使いこまれた包丁。家族のささやかな幸せとわがままの為に使われ、此処に来る直前までもその職務を忠実に果たしていた――刃。

 アーミラリは直感した。自身の前に包丁を横置きし、杖をついて立ち上がる。ぴしりと背を伸ばし、杖の先を軽く刃に触れさせて、彼は朗々と宣言した。


「あの子を護れ。降りかかる火の粉がある時、それをあの子自身が払えるようになるまで。あの子の力になってやれ、未来を拓くための刃に。その為に足りないものがあれば、僕が。積み重ねた智と賢を以て補償しよう」


 それはある種の儀式であった。人間を模倣しながらも、人間の如くには子を遺せぬ彼等が、それでも自身の如きものを造り出すための、人の営みにも似て泥臭い儀式だ。

 ――それによって起こる変化は、唐突にして瞬時。

 カタカタと呼応するように包丁が揺れたかと思うと、無明の闇がその真下に凝り、包丁を巻き込みながらぬっと音もなく盛り上がった。何もかも吸い込みそうな黒は、背の高い人の形をまず外形だけなぞり、次いで服の形を浮かび上がらせ、細部の質感を再現し、最後に足先から色彩を模倣していく。

 天球儀アーミラリの頭の光が数度明滅し、消え。それから数呼吸の時が経ち、包丁があった場所に立っていたのは、彼のものによく似たスーツを纏う男。アーミラリよりも随分と大柄な彼の、その首から上には、あの使いこまれた包丁が当然のように据えられている。彼女が彼女の世界から持ち込んだ護身は、今此処に彼女から得た意志を以て、人に近き命を与えられたのであった。

 男は黙って小さく会釈する。ぎらついた刃は恐ろしく、男そのものの放つ雰囲気はそれだけで獣を殺せんばかりに鋭い。しかし、周囲に発散する殺気のような気配とは裏腹に、向けてくる視線は穏やかな静謐さに満ちていた。

 アーミラリも気取った会釈を返し、命を得たばかりの物に語り掛ける。


「急に“起こして”すまなかったね。でも、君以外にあの子のぶきになってくれるような奴が咄嗟に思い浮かばなくて。君ならあの子の事を良く知ってるだろうし、適任だろう」

「何でも構わない。どうせ俺は使われるだけの物だ」

「ぉっと……また険しいこと言ってからに。あの子を護れって呼びかけで“起きて”こられたんだから、大切には扱われていたんだろう」


 男は何も言わない。無駄なことを口にする気はないと、隙の一分もない佇まいが雄弁だった。

 どれほど少女が大事に丁寧に手入れを続けていようと、どれほど家族の為を思い愛情を注いで振るおうと、結局包丁なのだ。命を傷つけ、奪い取り、加工する剣呑けんのんな道具であることには違いない。道具そのものとしての危うさが、そのまま彼のつっけんどんな性格でもあった。

 天球儀は少々首を傾げ、そして言葉を選び紡ぎあげる。


「大体のことはから、この世界の歩き方は知ってるだろう。それに、包丁ほど命を日常的に扱う道具は他にない。……あの子に君の知っていることを教えておやり。作法も」

「分かった。彼女は何処に?」

「此処に泊めても良かったんだけど、生憎客室は掃除中でね。街の近くに送り出した。君もすぐに同じ所へ送るよ。――何、すぐ分かるさ。何だって君はあの子の道具だったものな」

「…………」


 無駄口は叩かない。最早、単に口下手なだけなのかもしれなかった。

 スーツのポケットに諸手を突っ込み、ただ静寂に身を預ける男へ、アーミラリは音もなく杖を向ける。虚空にぴたりと固定されたその先は、男が持つ人の身の心臓。何だ、と思わず尋ねた包丁へ、案内人は問うた。


「君の名前は?」


 少女にはついぞ聞くことのなかったことだった。


「君は君の名前をもう知っているはずだ。僕は案内人として、或いは君を起こした主として、それを知る必要がある。親として権利もある」

「何故彼女には聞かなかった?」

「知ってて敢えて尋ねるのかい?」

「…………」

「まあいい。あの子は違う世界の人間で、僕とは何の関連性もない。だから彼女の名前を知る権利は僕にはない。で、僕ら物は、秘めた真名まなでこの意志と魂を身に縛り付けている。――あの子は信頼に値すると、そう思ったのさ。まあ、彼女が自分で符丁を付けて、それに縛られるって言うなら、僕もその名前を聞くにやぶさかではないけども」


 なるほど、彼は真っ先に己の名を名乗っている。真名――言い換えなば、物が動き出した瞬間から持っている名――は物にとって重要な意味を持つのだから、それを初対面の少女に躊躇いなく預けたというのは、全面的な信用と信頼を意味する行為だ。彼女がそんな意図を汲んでいたかはともかく、今アーミラリの信を疑う余地は無いだろう。

 そして今、彼は案内人として、何より自身の親として、親に対する信認を示せと男に迫っているのだった。それ自体は要求してしかるべき行為だろう。何しろ、子に名を与えない親も、親に名を預けない子もいない。

 男は更に少し考えて、小さくうなずいた。


Keキー……ケイだ」

「ふむ。君の真名じゃないね?」

「動かしたのは貴方だろうが、俺がこの俺たる要になったのは他でもなく彼女だ。俺がまず親と認めるのは彼女を置いて他にない。俺が俺の知る全てを語る相手も、彼女以外は認めない」


 ――されど貴方も親であることに違いなく、案内人を不認と言うわけにもいかない。それ故、貴方には一部を預けよう。それを信頼の証としてほしい。


 ケイは冷めた声で宣言し、アーミラリは、その考え方も一理あると声に苦味を含めて笑う。

 誰に最も信頼を置き、その存在を託すか否か選んで良いのは、その物の意志のみ。そこは仮令世界の案内人という特権的な立場であっても、安易に踏み込んではならぬ個人の領域である。好奇心の権化たるアーミラリであるが、立場には忠実だった。

 故に彼は首肯する。ケイの意志を尊重したのだ。


「それじゃ、行っておいで。君の認める親で、君が護るべき子の所に」

「当然だ」


 ぶっきらぼうな言葉一つを残して、ケイの姿は闇に溶け消えた。

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