本録
十六回目
零:天球儀
『今日は寒いから鍋しよーよ』
妹の連絡はいつも唐突だった。
放課後の帰り道、急なお願いを叶える為に友人達と別れた彼女は、通学路からそのまま近所のスーパーへと飛び込む。冷蔵庫の中身を思い出しながら足りない具材を買い、ついでに食後のデザートを奮発して、自転車に乗り帰途を急いだ。
マンションの三階までの階段を昇り、ドアを開ければ、ダイニングの方でごとごとと音がする。夕食の献立へ口を出す代わりに、洗い物や配膳は妹の仕事だった。
今日も小さなわがままと引き換えに自身の役目を果たす妹を横目に、制服と鞄をリビングのソファに放り出し、着替えたパーカーの袖を捲り、きゅっと一つに髪を括る。苦労して重い土鍋をガスコンロへ置いた妹と、ダイニングの立ち位置を代わった。
彼女らに両親はいないが、日常生活に困ったことはない。妹はいつものように食事どきまで宿題を始め、姉は研いだばかりの包丁と板についてきた料理の腕を揮う。木のまな板の上、小気味いい音を立てて葱が薄切りになっていく横で、人参やら椎茸やら白菜やらと言った他の具材は既に切られ、ぐつぐつと煮え立つ土鍋の中に放り込まれていた。後は葱を入れて少し火を通せば完成するだろう。
入れ終わったら一度妹の勉強を見よう、そう心の中で密かに決めて、彼女は包丁で掻き集めた葱を土鍋の中に放り込み、蓋を閉める。そして包丁を片手に持ったまま、妹が座っているであろうダイニングテーブルの方を振り返った。
またあの彼氏に現を抜かしてやしないか。いつものように笑いながら、冗談半分に問いかける。妹は姉のからかいに対して、包丁を持ったまま歩かないで、と照れ笑いしながら、けれど半分は本気で諫めるのだ。青春を謳歌する妹を見ているのは気分が良かったし、今日もそれが見られると彼女は期待していた。
しかし。
「やあ、お嬢さん」
彼女の目に映ったのは、ただ
そこに佇む、人のようで人でない何かだけだった。
「何、ですか」
身体は確かに人間である。痩せた、恐らくは男性だろう。黒いスーツの三つ揃いと黒い革手袋に身を包み、黒いネクタイを結び下げ、黒い革靴を履いて杖をつく様は、ごく紳士的な雰囲気を漂わせている。ラペルのボタンホールから胸ポケットの懐中時計へと続く銀色の鎖が、上から下まで黒尽くめの中にあって、妙になまめかしさを帯びて輝いていた。
此処から視線を上げたなら、どうか。そこに人間の頭は無い。代わりに鎮座しているのは、虹色に偏光する小さな球体を中に封入した、星の運行を精緻に刻む
本当なら妹がいたはずの場所に立つ異形の男。その頭として誇らしげに輝く天球儀を睨みつけながら、悪癖に任せて持っていた包丁を握りしめた。汗ばむ手の気持ち悪さに思わず表情筋が引きつる。何とか平静を繕ったつもりが、男には筒抜けていたらしい。彼は微かに肩を竦めた。
「僕はアーミラリ。骨董品の天球儀だ」
「私、そんなこと聞きたいんじゃないんですけど」
「仕事を斡旋してる。君みたいな迷い人が、元の世界へ帰る為に必要な仕事を」
低く渋みのある声で織り上げられる言葉は存外軽薄で、親しみを持って彼女の耳に届く。悪意もてらいも感じられない声音に多少安心し、刃の柄を握る手を緩めた彼女の差し向かい、アーミラリと名乗った男は多少立ち姿を崩した。両足へ均等に掛けていた力を右に寄せ、杖に寄りかかる風に恰好を変える。その度に虹色の偏光を煌めかせ、天球儀は更に続けた。
この世界はね。そう諭すように切り出して、そこからの反応を試すように長く間を取り、変わらぬ空気にアーミラリは一人首肯する。
「分かってるだろうけど、君や君の妹さんがいる世界とは違う。形のない意志や想いが、あらゆるモノの
「……分かりません」
「ならもっと簡単にいこうか? 僕らは、君達の世界で言う付喪神みたいなものだ。大事にされたり打ち捨てられたりする間に染みついた人の意志を、あたかも自分のアイデンティティであるかのように振舞う物。そんなのが人間と同じ土の上で暮らしていると、君はまずそれだけ覚えなさい。良いね?」
優しく柔和な声音の裏には、有無を言わさぬ威圧感が滲んでいた。チカリ、と一度怪しくぎらついた菫色の光が、何とはなしに不機嫌な色を宿しているように見えて、彼女は口を
杖を握る男にしては細い手の親指、その腹で艶やかに塗装された杖の表面をなぞりながら、更に言葉は続く。
「当然ながら、僕もそういう物の一人だ。僕は長らく天動説を支持し、それを可視化するための実証として人々の信奉を得、常識が地動説に取って代わられた後も芸術品として人間の視線と関心を集めた。その好奇心や関心や、何より一つのことへと直向きに傾けられる情熱が僕を僕たらしめる原動力。僕は
「……情熱と、関心ですか。その割には冷めてる気もしますけど」
「僕は人である以前に天球儀だ。
「それで?」
「そ。僕は芸術家よりも博物家よりも、学者の方が性に合ってる」
かつん、と音。アーミラリが持つ杖の先は、暗闇の中で硬質な音を立てた。その硬さに気が逸れた一瞬を突き、彼は鋭い声音で彼女の意識の空隙に割り込む。
「そろそろいいだろう。僕がしたいのは僕の解説じゃない、君が知りたいこともそこじゃない。僕らの関心はすっかりこの状況を戻す“仕事”にある」
――違うか。何も違わないだろう。
念を押すように問われ、彼女が否定するわけもない。知りたい、と口にした少女へ、アーミラリは再び姿勢を正すと、告げた。神託を授けるかのごとく。
「“
沈黙。
相対する少女の顔に、露骨な疑惑と警戒の色が浮かぶ。
「要するに人殺しじゃないですか。なんでそんなことを?」
「僕らにとってのメリットは、そうすることで僕らの世界がより長く存続出来るから。……意志ってものは本当に頑強でね、一度生を享けると何百年でも生きて、自分からは絶対に死なない。そうして増えすぎた物は、僕ら自身の立つ瀬を、いずれは世界を圧迫していく。だから減らす」
「だから!」
「そりゃあ僕らだけで内々に処理できるならそれが一番良かったさ。だが出来ない!」
「どうして!?」
「僕らの世界にそれを出来る人が居ないからだ。君が君の大事な
「それは人の話でしょう? 物だか何だか知らないですけど、物が他の物を殺せないなんて、貴方は一言も言ってない」
「嗚呼そうだ、物同士で殺しあうことだって勿論可能だよ。現に、一部の物は人も物も構わずその手に掛けようとする。だけどね、――考えてもみやしないかい。僕らは言わば付喪神、誰かから大事にされないと生まれて来れない。そして僕らは、そんな意志を自分の自我として生きる。そんなものに……命を、奪えるものか」
溜息を交えた、重く疲れた声音だった。
この
アーミラリも、眼前の少女へ理解を強いることはしない。ただチカチカと浅葱色の光を明滅させながら、続きを発するだけだ。
「君が元の世界に帰る為に必要な数は分からない。誰を殺せばいいかはその時にならないと直感できない。一体どれだけ、何を殺せば元の世界へ帰る資格を得られるかは、完全に機運の次第だ。でも、そうした終わりの見えない仕事を完遂して、きちんと元の世界に帰った人は居るよ。僕の知るだけでも十人は」
「――――」
「そう言うことだ。君はやるしかない」
言われたところで、ハイそうですかとすぐに納得出来るわけもない。
思い切り顔をしかめ、微かに首を横に振りながら、彼女は掠れた声を絞り出す。
「めちゃくちゃ……!」
「そうだね、倫理的にかなり無茶苦茶なことを言ってるのは理解してる。ついでに言えば、この世界自体も大分歪んだ在り方の中にある。――だけどね、そんな目茶苦茶な世界でもひとは生きていけるし、手を差し伸べてくれるものがいる。僕は君を僕らの世界に放り出すけど、君のことをきっと無数の人が助けてくれるだろう。そこには僕も含まれている」
「そんなこと言って……その中に殺すひとが混じってるんでしょ」
「さあね? 君を助けてくる物を殺さなきゃならないか否かは時の運だ。もしかしたら、凶悪な意志の染みついた極悪人だけ殺し続けたら帰れるかもしれない。今こうして話している僕を殺すだけで帰れるかもしれない。君は君の直感と意志で――」
言い切る前に、アーミラリの身体が崩れる。
左胸に包丁が突き刺さっていた。投げつけたのだ。しかし本当に刺さると思っていなかったのだろう、彼女はその顔一杯に愕然とした色を浮かべ、投げつけた時の体勢のまま硬直している。痩せた男の身体が力を失い、暗闇の中に
大丈夫ですか。投げつけた当人とは思えぬ言葉を口走りながら駆け寄った彼女へ、アーミラリが取った行動は、その喉元に杖を突き付けることだった。正確に少女の喉元を捉えた杖の先が、ほんの軽く奥へ押し込まれる。それだけで彼女の足を止めるには十分すぎた。
杖で少女を牽制しながら、左手は突き立った包丁の柄を握る。まさか、と彼女が悲鳴を上げる暇もなく、彼は一息に凶刃を引き抜いたかと思うと、それを虚空へ放り出した。どこかで刃と硬い地面のぶつかり合う音が響いたが、それを拾いに行く余裕など彼女には無かった。
おびただしく流れ落ちる血に構わず、男はゆっくりと上体を起こし。介抱しようとした少女の手を丁重に断りながら、掠れた、しかしてはっきりとした言葉を紡ぐ。
「僕を殺せば帰れるかもって聞いて、馬鹿正直に僕を殺そうとしてくる。僕のこと言えないくらい無茶苦茶なやけっぱちだけど、その行動力と大胆さは大変よろしい。だけどね、僕らは人の身体を傷つけられても死ねないんだよ。痛いし苦しいけど、それだけ」
「――だったら?」
「僕らに死を定義づける条件は一つ、『心が折れた時』だけだ」
「心が折れる……ちょっとよく分かんないですね」
「実のところ僕も分からない。どうやったら折れるかは物次第、どうやって折るかも人次第。元の世界へ戻っていった人の中には、人の身をひたすらめった刺しにして無理やり折った人もいた。何時間も何十時間もかけて説得し、成仏させた人もいた」
「方法は任せるって、ことですか」
「そ。僕はそんな人たちの最初の実験台だ。君は可愛い方だね」
彼女は戦慄する。造作もない男の告白にも、包丁を投げられておきながら可愛いと言えるこの男自身にも。同時に覚えた仄暗い好奇心は、無意識の内に心の奥底へしまい込んで鍵を掛けた。
彼女は乞う。やり方を教えてくれる人が欲しいと。
果たして、男は承認した。
「ついでだから、僕から一つおまけしておくよ。“案内人特権”だ」
「何をですか?」
「君に相応しい力を。折角常識の通用しない世界に来たんだ、君にだって常識外れの力の一つや二つ、あったっていいだろう?」
是非使いこなしてくれ――楽しそうに囁いて、アーミラリはそっと杖を降ろす。そしてやおら血塗れの左手を掲げたかと思うと、何かを掴むように一度空を掻いた。
蝋燭の火を吹き消すように、視界と意識が昏きへ落ちていく。
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