第5話
宮廷というのは不思議なところだ。
頂点には魅了と清浄の力を継ぐ帝を奉りながら、数多の強い見鬼と数多のあやかしにはちきれんばかりの最も深い影に満ちている。
天孫の光に惹きつけられる妖かしの姿は不思議としか言いようがない。
惹きつけられて
触れたくて
でも、近づきすぎれば焼かれてしまう。
苦痛なら近づかなければいいと思うのに、結局彼らは引き寄せられてしまうのだ。
そういえば、源氏のまわりの女たちと少し似ている。
どうしようもなく惹きつけられて、離れることは出来なくて、まるで傷つくために恋に堕ちてゆくようだ。
ちょうど晶子の母がそうであったように。
私は、ああはなるまい。
晶子はずっとそう思ってきた。
よりにもよって自分の母親がそんな風に傷つく姿を見ることが、娘にとって苦痛でないはずはない。
しかも、母は確かに父を愛していた。
晶子に父の話をする母はいつも穏やかで、大切な、幸せな思い出を話す安らぎに満ちていた。
それでも、母は源氏に惹かれずにいられなかった。破滅を招くとわかってもその執着を止められなかった。
私は、ああはなりたくない。
晶子の胸にその思いが刻みこまれたのも当然だ。
源氏、というだけでなく、恋やそこから起こる執着の全てを疎ましいと思う。
なぜ、他者に執着などするのだろう。
自分の心でさえままならないものを、他者の心など思うように動かせるはずもない。
恋などして執着すれば、苦しくなるばかりなのが道理ではないか。
そう思うからこそ伊勢の清らかな生活に安らぎを見いだし、年が離れた帝の話し相手として入内もした。
晶子は母のようにはなりたくなかった。
母が好きで、その人柄と教養を尊敬してもいた。その母が恋の執着に狂うのが余りに辛かった。
母が源氏を迎えるために身につける、香染の単が嫌いだった。
その単を身につける母のことも、たぶん。
しかもそこまで母を狂わせた源氏は、誠実な男ではなかった。
男なら数多の女性に心を動かし、通うのは当たり前。世間ではそういう事になっているし、そういうものなのかもしれない。
けれど、死の床にある母の前で、あからさまに晶子に食指を動かした酷薄さは、そういう理屈では割り切れない。
もともと晶子にとって源氏は好もしい人物ではなかった。しかしあの日以来、その声も、視線も、気配も、天孫の光でさえも、晶子には疎ましく汚らわしく思える。源氏の来訪のあった後は身を清めたい衝動にかられる程だ。
そんな時、帝にお会いすると、ほっと体が緩んで感じられる程に嬉しい。源氏の残した汚れが浄化されてゆく心地がする。
帝の優しい気配は時に甘露のように、あるいは暖かな白湯のように、晶子を満たす。
宮廷というのは不思議なところだ。
あらゆる汚れにまみれた深い闇を抱えながら、その頂点には確かに美しく清浄なものを宿している。
朝廷の権力争いがいかにあろうと、後宮には穏やかな時間が流れた。実をいうとこっそりと絵の貸し借りもあった。文を交わしてみると弘徽殿女御は愛らしい快活な少女だった。暗い痛みを芯にした優しい帝に、彼女ならば相応しい。素直にそう思った。
やがて、女院の病臥が伝わってきた。
折しもこの正月に女の厄年を迎えられた女院の病は思いの外あつく、帝がお忍びで御見舞に向かわれる事態になった。
晶子が暮らすのは梅壺。その名に相応しく梅の大木が植わっている。ほころび始めたそのひと枝を、晶子は帝に届けた。
桜の盛りに女院は危篤におちいり、正式の行幸があった。幸い女院には意識がおありになり、帝は少しお話しすることもできたようだったが、穢れを避けねばならぬ帝は、臨終の床にお付きになる事はできない。形ばかりのお別れで、戻ってこられるより他になかった。
桜はある日、おびただしく散った。
まさに吹雪を思わせる強い風に、きらきらと白い花びらのこぼれ落ちたその日、女院はこの世の他の人となられた。
尊い内親王として生まれ。
親子ほど年の違う帝に配され。
立后し。
国母にまで上り詰めた。
女院のご生涯はお幸せだったのだろうか。
晶子にはわからない。
他人の人生を簡単に、推し量ることなどできるはずもない。
けれど、母の死を悼み悲しまれる帝は、きっと女院にとっての最も大きな幸いであったに違いない。
女院の死を悼むのは帝だけではなかった。
もちろん宮廷中が深い悲しみに包まれてはいたが、とりわけ源氏の悲しみは深いもののようだった。
その事に油断したというわけでもなかったのだが、一度几帳だけを挟んで対面したことがある。
六条の邸の建て替えのためもあり、二条院に里下がりした折の事だ。
しばらくは普通に話をしていた。
それがいつの間にやら妙な方向に話がそれた。几帳を透かしてじっと晶子を見つめている。
おぞけたつ気味の悪さに、晶子は几帳から退き、扇をかざして顔を背けた。
「これは妙なことを申し上げました。私が悪い。」
我が家の気楽さもあってか、いつまでも居座る鬱陶しさは例えようもない不快さだ。
ふと、春と秋のどちらを好むかと問われた。
「どの季節も美しいものですわ。簡単に決められるものではありませんけれど。」
母の死に際が、あの振り絞るような遺言が心をよぎる。
「やはり母を失った秋はことさらしみて思われます。」
静かに、打ち込むように答える。
私は、あの遺言を忘れない。
お母様にあの遺言を、振り絞らせたあなたを忘れない。
「きみもさはあわれをかはせひとしれずわがみにしむるあきのゆうかぜ」
源氏が詠んだ歌に、こみ上げてくる吐き気を強いておさえる。
なんと気味の悪い、なんとおぞましい男なのだろう。
あの、母の遺言に、死に様に、何も感じるところはなかったのか。
まして、今も袖に数珠を隠して、亡き女院の喪に服しているのではないのか。
母代わりであったから?
あるいは、道ならぬ恋をしていたから?
どちらにしてもその喪の数珠を腕にかけたまま、晶子に道ならぬの恋をささやこうとするこの男のおぞましさを、なんと表現すれば良いものか。
「そのようにあからさまにご不興をお見せになるものではありませんよ。貴い御身にあられるのですから。こんな話はもうよしましょう。」
さすがに晶子の不快が表に出たようで、源氏はやっと腰を上げて去って行った。
源氏が晶子につけた若い女房たちが敷物に源氏の移り香の染みたのを、良い香だと喜んでいるのを尻目に、晶子は奥に下がった。着ていた衣を全て着替える。心得た古参の女房たちは素早く晶子に新しい衣を着せ、晶子の好む香を焚いた。
帝にお会いしたい。
この汚れを払って欲しい。
いやだ、いやだ、いやだ。
あの視線、おぞましい源氏の視線の感触が消えてくれない。あの歌などまるで、耳に直接汚れを注ぎ込まれるようなおぞましさだった。
早く、帝のお側へ帰りたい。
そもそも二条院へ里下がる理由となった六条の邸の建て替えも、勝手に源氏が決めてしまった事だった。
確かに古びてはいたが、母の記憶の残る邸は、晶子にはとても大切な場所だったのに。
元々気乗りしなかった二条院滞在は、今や晶子にとって只々厭わしいものとなった。晶子はどうにかして一刻も早く後宮へ戻ろうと考えを巡らせ始めた。
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