中間テストが終わり、部活も翌日からということで、学生達はおおっぴらに遊んで帰ろうとざわついている。

 賑やかな中、敦は歴史研究会の先輩に借りていた本を返そうとして、部室に向かっていた。(今回の試験範囲に出る歴史ネタの書かれた雑学本だったが、ほぼ出なかった。面白かったが)

 移動途中、突然肩を掴まれる。

 何事かと思って振り払うと、相手は順次だった。

 ぎょっとして、敦は廊下の端に避ける。

「お前、どうしたんだよ、テスト失敗したのか? 名前間違えたとか」

「振られた」

「振られた……?」

 青ざめた順次が、立ち上がって芸をしたのに餌ではなくて猟銃を投げられた熊みたいな顔をしている。

「振られた……!」

 敦は壁際に追いつめられたまま、考える。

「振られたんだ……!」

 何度も言わなくても、分かる。分からないのは、純があれほど順次を連れ歩いて、にやにやして見せびらかしていたのに、あっという間に素っ気なく振ってしまったことだ。あんなに熱烈な恋歌を引用したくせに。

「あぁ、でも、諦めきれないなあ。でも迷惑はかけたくない、でも、やっぱり好きなんだ……」

 順次はぼろぼろと涙をこぼして、頭を抱える。

 とりあえず人目を気にして、敦は、順次を空き教室に連れて行った。

 順次の説明は要領を得ない。どうにかまとめると、「順次くんはいい人すぎるから別れたい」ということらしかった。

「悪い人じゃなくて、よかったな……」

 他に言いようがあったのかもしれないが、敦はようやく、それだけを口に出した。

 こんなに泣くほど、順次は純のことが好きなのだ。暑苦しくて重たい気持ち、でも、純は、あんなに楽しそうに、一緒にいたくせに。

 ……本当に?

「順次、」

 言いかけたとき、後ろから軽い足音がした。

 純が、いる。

「順次くん。返すね」

 順次が落としていったのか、それともあげたものなのか、何かを入れた紙袋を、純がこちらに差し出した。

「ハンカチ。この間、一緒に買い物に行ったときに、急に泣いてごめんね。そのとき借りたハンカチを返すね」

 じゃあ、と。泣いている順次の顔を見もしないで、純が紙袋を廊下に、直接置いて、背を翻す。

 思わず、敦は彼女を追いかけた。


 廊下の途中。敦は純を呼び止める。

 知りたいことがあって、と、敦は聞く。ヘッドフォンは首に引っかけたまま。

「契りきなかたみに袖をしぼりつつ末の松山波こさじとは」

 順次に渡して、純への贈り物にした、歌。

「って順次が言ったのは、……あれで合ってた?」

「合ってたか、ってどういうこと?」

「何で、君をおきてあだし心を我がもたば末の松山波も越えなむ、だったのかなと思って。引っかかって」

 ふと、純が笑った。

「やっぱり、あれは、敦くんだったんだ。順次くんに相談されたの?」

「相談は、された。絶対に思いを伝えたいって、すごい熱く語られたから、手伝っただけ」

「どのみちね、順次くんとは、見てるものが違いすぎると思ったから。もっと……出会う前に分かってもらえてたら、よかったのに」

 気のないそぶりで、純が自分の指先を見ている。綺麗に整えられた爪。敦たちとは違う、磨かれた爪。柔らかな肩の稜線を、髪がゆっくりと撫でていく。

 風、が、ある。

「何で、こんなことになったんだろうね」

 あんまりにも、他人事みたいに、純が言うので。

「あんまりじゃないか」

 思わず敦が口に出すと、純がぶたれたみたいに顔を歪めた。

 それまでの、何もかも他人事みたいな顔つきが、一瞬で崩れてしまった。

 身がすくんで、敦は動けない。

「あんまりって……それは、私の言いたいこと」

 純が声を震わせる。

「歌を返したのは、順次くんじゃなかった」

「え、」

「知っていた、分かっていた、分かっていたけど、順次くんが優しかったから、つきあってしまった!」

 あんまり大声だから、教室名のプレートがびりびりと小刻みに揺れた。


「貴方だったら良かったのに!」

 純の、絶叫みたいな声は、喉で潰れた。強い光をたたえた目が、淳の視線とかち合った。

 目が、焼け焦げそうで、ふわついた足が下がりかける。

「なんで私がそんなこと、言われなきゃならないの! 私は!」

「あの、」

 聞けなかった、聞いてはいけない、だってそれは、

「私は……」

 ぽろ、と、大粒の涙が純の頬を滑る。

 こんなときどうしたらいいのか、淳は突っ立って、逃げ出せもしないで、聞いているしかなくて。

「順次くんは優しかった、すごく明るくて、私は、陰気な羽虫みたいな気持ちだった、すごく、みじめで」

 純は、袖で、頬を浸した涙を拭う。

「私、ばかなのに、どうして勝手に、神格化するの。順次くんは優しかったよ、でも、順次くんは私を見てない……あぁでも、最初に私が、彼を見ていなかったから、同じことか」

 それは低い、小さな囁きだった。ほとんど聞こえない、聞かないふりをしたってよかった、小さな、小さな声。

「私が好きなのは、ほかのひとだったのに」


 敦は呆然と突っ立って、走り去る純を追えず、泣いたままの順次の元へも戻れなかった。

 順次は元気よく部活に打ち込み、あまり変わった様子は見られない。ただ、敦の母親に頼まれて、敦と二人でキャベツやじゃがいもの買い出しをさせられると、何も喋らないことが多かった。

 純とは、ときどき廊下ですれ違った。一瞬だけ鋭い眼差しで敦を射て、それからそっぽを向いて通り過ぎる。

 このままなし崩しに「何もなかったこと」になると、何となく思っていた。

 放課後、歴史研究会の前が賑やかだ。

 時期はずれで、転入部員が出たという。

 どんな歴史好きか、または運動部などで具合が悪くて、帰宅部になるのも届出が面倒なので幽霊部員になりに来たのか。

 少し気になりながら、先輩の頭越しに、敦は見る。

 知っている人だった。

「……何で?」

「いや、俺も考えたんだ。少しは、こういうのも楽しめるようになりたいって」

 順次が照れ笑いをする。

「兼部だから、たまにしか来られないけど」

「いやでも、だって、」

 順次の体の後ろに、もう一人、知っている人が立っている。

「何で?」

 先輩が、「お、敦がそんなに驚くとこ初めて見たなあ」と楽しげに言う。

「部室が狭くなったなあ、敦少し端っこに寄れよ」

「えっ? でも何で、何で三好さんと、順次が?」

 振った人間と振られた人間が、なぜ、示し合わせたように、ここにいるのだ。

「私は、先生に短歌をやりたいって言ったら、ここがいいんじゃないかと言われたので」

 純が取り澄ました顔で、パイプイスに座る。

「よろしくお願いします、ね?」

 うやむやにしきれなかったものが、うやむやなまま集まってきて、うまく処理しきれない。敦は静かに部室を出る。

 先輩がにこにこして、敦を捕まえ、廃材でイスのようなものを作るのを手伝わせた。

 彼女の本音は分からないが、あの歌の矛先がどこに向いていたのか、何となく分かりそうで、分かりたくなくて、敦は先輩に止められるまで、いくつもイスを作成し続けた。

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俳句少年 短歌少女 せらひかり @hswelt

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