『ぼくらの冒険譚』
…………アニー・ロズヴェルトという名前を、知っている人も多いだろう。今でもいろいろと無茶なことをしている彼女は、幼い頃から活発で無鉄砲な女の子だった。彼女と僕はいわゆる幼馴染で、僕はしょっちゅう彼女の無茶に付き合わされた。具体的な話をここに書きだすと長くなってしまうので
それでも、彼女がいたからこそ経験できたことがある。彼女に振りまわされたからこそ、生まれた出会いもたくさんある。それらがなければ、きっと今の僕はない。だからこそ、アニーと過ごした日々の中で、もっとも刺激的だった――そして危険だった――一年間の出来事を、文章という形で残そうと思った。それが、この本を書いた理由だ。
僕一人の記憶と知識で執筆するのは不可能だった。だから、当時関わった人に改めて何度も取材した。その上で、あくまで「冒険小説」という
寒さばかりが厳しい冬も終わりが見え、久しぶりに、あたたかな日差しが降り注ぐ。外を歩く人々は上衣をぬいで脇に抱え、演習場を走る少年たちは額に汗をにじませていた。比べて、ぶ厚い窓を
シグルもまた、静かな部屋の片隅で静かに本を開いている一人だ。黙々とページをめくっていた彼は、けれど途中でその手を止める。物音のない場所では、自分に近づいて見おろしてくる気配にも気づきやすい。
「シーグルー!」
ささやく声は、妙に弾んでいる。シグルはようやく顔を上げた。
「なんだよ、いきなり」
好奇心むきだしの少女に、シグルは「邪魔だ」という心の声を隠そうともせず問いかける。けれど少女は気にもとめず、さらに顔を近づけてきた。ふだん多くの生徒から遠巻きにされている彼に、今年に入ってからやたらからんでくるようになった彼女は、距離感を保つということを知らないらしかった。
「シグルってさ。その本、好きだよね。私が見てるだけでも、十三回は読んでる」
「まあね。っていうか、数えてたのかよ」
「つい数えたくなって」
「なんだそれ」
彼は、開きっぱなしの本に目を落とす。その横で、少女がうんと伸びをした。
「まあ、その本、店じゃ売ってないからね。実は著者が持ってるのとこの学院のと、二冊しかないっていう噂」
「……いや、うちに一冊あるけど」
少年の呟きは、小さすぎて少女に届かなかったらしい。「なんか言った?」と訊かれたので、「なんでもない」と返す。
「私もその本、好きだよ。だってあの人の話が一番正確に書かれてるからさ」
「ロズヴェルト先輩? アンリは好きだよな。――でも、会ったことないのに、なんで正確ってわかるのさ」
「わかるよ。ほかの本が大げさすぎるんだもん」
少女は頬をふくらます。シグルは小さく吹き出した。確かに、著者の前書きにも名前が出ている遠い先輩は、だいたいの書物において優れた剣士、もしくは怪物的な女性という姿で描かれている。「活発で無鉄砲な女の子」としての彼女を描いているのは、この本だけかもしれない。さすがに、幼馴染というだけはある。
ふと、シグルはあることを思いつき、同級生を見上げた。
「なあ、そんなにあの人が好きならさ。今度、うちに来るか?」
「へ?」
「ときどき、遊びにくるから。アニーさん」
少女は
「ど、どうして?」
ささやかれ、シグルは、あっけらかんと答えた。
「アニーさんとうちの両親、仲いいんだ」
「えー! すごっ! いいなあ」
ぜひ行きたい、と勢いづく少女にシグルは、「じゃあ、今度、アニーさんがいつ来るか父さんに訊いてみるよ」と言った。「あいつはひょっこり現れることも多いからよくわからん」と返されそうな気もするが、それは黙っておいた。少女は今にも飛び上がりそうなほどに喜んでいる。が、すぐに表情を曇らせた。
「あ、でも、行って平気? お父さん、体悪いんじゃないっけ」
「今はそうでもない。俺が入学するくらいまでは、大変だったみたいだけど」
「そうなの?」
少女はまだ不安そうだ。シグルの父は、病気持ちというわけでも、大けがをしているというわけでもない。彼女に限ったことではないが、そこを勘違いされている気がする。シグルは何度も、それとなく訂正しているのだが。
ただ、どうしても専門的な話になってしまうので、ふつうの――いや、魔術師でない人々に理解してもらうのは難しいだろう。さすがにシグルもそのことに気づきはじめていた。だから今回は訂正せずに、手を振った。
「とにかく。またいい日がわかったら教えるよ。それより調べ物はいいの、アンリエット・ウィルカさん?」
「はいはい。わかりましたよっと」
皮肉っぽく名を呼んだシグルに向かって、少女はぺろりと舌を出す。それから体をひるがえすと、机に置きっぱなしにしていた
同級生を連れていきたい、などと言ったら両親はどんな反応をするか。母はともかく、父は不機嫌な顔をするかもしれない。母いわく、父の不機嫌な顔はだいたい「そう見えるだけ」らしいのだけれど、シグルにはまだ違いがわからない。
「まあ、父さんのお客さんにも変わった人は多いからな……」
あの少女くらいなら、動揺せずに受け入れてくれそうな気もする。とにかく、今いろいろ考えていてもしかたがない。今度帰るときまで、この問題はお預けにしておこう、と、少年は心に決めた。
本に目を戻す。たちまち、彼の意識は文字の世界に沈んでいく。瑠璃色の瞳にはじめて、少年らしい明るい光が灯った。
……あまり前書きが長いと退屈してしまうから、そろそろ本文に入ろうと思う。ただ、その前に、覚えておいてもらいたいことがある。
この本にも書いている「ある事件」以降、僕らは注目されるしいろいろ言われる。英雄扱いされることも、ときどきある。けれど、僕たちは、決してそんな大層なことをしたとは思っていない。あの頃は、自分たちの小さな世界を守るために、ただがむしゃらに立ち向かっていた。世間で言われているような、きれいな日々じゃなかったんだ。当時は「大人の事情」というやつで事実が
僕らは子どもだった。僕らは未熟だった。今、この本を手にとってくれているあなたたちと同じように、必死に毎日を生きていたし、今もそれは変わらない。そのことをどうか、頭の隅にとどめておいてもらいたい。
さて、今度こそ本当に本文に入ることにする。
これはぼくらの物語。
英雄なんかではなくて、けれど世界を揺るがした。小さなぼくらの、忘れられない
最後のページをめくったあとに「読んでよかった」と思っていただければ、僕は嬉しい。
――二百四十六年 一月
ヴェローネル学院研究科・考古学専攻十一回生 フェイ・グリュースター
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