5 そして、ナージャは死んだ
「……は?」
アナスタシアは唖然として、父を見返した。頭がまっしろになって、言われたことがすぐに入ってこない。だが、ほどなくして「縁談」の二文字は少女の中にしみこみ、その身を凍りつかせた。
「え、縁談、でございますか? なぜ、今」
「なあに。今だからこそ、だよ。おまえももう十八歳になっただろう。とうに結婚して子どもを産んでいてもよい年頃だ」
「し、しかし」
娘のあえぐような問いに、ヤロスラーフ公は笑顔で返す。その笑顔に底知れぬ圧力を感じ、アナスタシアは後ずさりしかけた。
この時代の帝国における結婚事情は、現代の貴族社会のそれと、さほど変わらない。遅くとも十五歳には結婚をする。貴族ともなれば、生まれたときから親によって結婚相手が決められていることなどざらにあった。特に女子には子を産むという大事な役割がある。生まれた子が相手方の家の跡継ぎにでもなれば
だが、スミーリ家――ことにアナスタシアの場合は事情が違った。彼女が優れた魔術の才を持っていたがために、ヤロスラーフ公も家人もアナスタシアという「戦力」を手放す時機を慎重に見極めていた。そうなると自然、結婚にも慎重になる。女子の結婚=よその家に出す、という図式が、
幸か不幸か、アナスタシア自身も結婚に対して意欲を見せなかった。ゆえに、十八歳までどこに嫁ぐこともなく、家業に携わっていたのだ。社交場(舞踏会やお茶会)に出席しはしたが、お見合いの話や縁談は、とんとやってこなかった。
それが、今日この日になって、急に縁談が持ち上がったというのである。急激というより唐突に過ぎる変化に、アナスタシアは戸惑った。混乱の極みにあった。
ヤロスラーフ公は上機嫌なばかりで真意を語ろうとしない。近いうちに顔合わせがあるから、とだけ言って、さっさと娘を追い出してしまった。追い出された方はというと、この急変を受け入れることにせいいっぱいで、しばらく部屋の前から動けなかった。
通りがかった父の書記に呼びかけられたことでようやく我に返り、アナスタシアはその場を離れた。おぼつかない足取りで廊下を進む。――暗い考えが頭にひらめいたのは、そんなときだった。
「私を追い出したいのね」
どす黒い呟きがこぼれたことに、アナスタシアは気づかなかった。青ざめて走り去った侍女見習いにも目をやらず、ただ足を前に出しながら考えこむ。
実際、今ヤロスラーフがアナスタシアの結婚話を持ち出すとしたら、手放すべき時と考えたか、逆にさっさと手放したいと思ったか、であろう。最近、彼女はなにかと公や魔術研究者に噛みついていた。本人にも自覚はあった。ヤロスラーフがアナスタシアを邪魔に思って排除しようとしたとしても、不思議ではないのだ。
むろん、公の真意は公自身にしかわからない。彼は当時のことを記録に残さなかったので、後世の者たちにはその心中ははかれない。ただ、どこかの家に嫁げば、アナスタシアは今ほどスミーリ家に口出しできなくなる。ヤロスラーフ公の思いがどこにあったとしても、彼女にとっては、はなはだまずい事態であった。
その後、どう歩いてどこへ行ったか、アナスタシアはよく覚えていなかった。顔を霧が覆ってしまったかのように風景や人の顔が曖昧で、聞こえた声さえ形にならなかった。ぼんやりとしていた彼女を目覚めさせたのは、友人でもある侍女の一声だった。高くはつらつとした音が自分の名前をつむいだことで、アナスタシアの世界は色彩を取り戻した。
ソーニャは、
「あの、アナスタシア様……ご結婚なさるのですか」
「あらあら。侍女たちは耳が早いのね」
アナスタシアが口もとを隠して笑ってみせると、純朴な侍女は鼻の頭を赤くして固まった。しばらく彼女をからかった後、アナスタシアはまつ毛を伏せる。
「まだそうと決まったわけではない……と言いたいところだけれど、決定事項も同然でしょうね。以前から、お父様と相手の方とで下話をなさっていたのでしょう」
むしろ話が持ち上がるのが遅いくらいだ。アナスタシアは軽い調子で言ってみせたが、ソーニャの表情はますます
「でも、それでは……他家に行ってしまわれたら、魔術の研究は」
「もう関わらせてはもらえないでしょうね。まあ、しかたがないわ。私の立ち回りが下手だったのでしょう」
ソーニャがまた少女の名前を呼ぶ。物言いたげだったが、結局はなにも言わずに唇を噛んだ。アナスタシアもまた、心優しい友人にかける言葉を持ちあわせてはいなかった。
困惑する当人たちを置き去りに、縁談も魔術の兵器化の話も着実に進んでいった。特に魔術の方は、すでに魔女のわざを応用した強力な魔物の『生成』に成功している。
そして相手との顔合わせの二日前、アナスタシアの耳にその一報が届いた。
「戦闘向けの魔術の実験を行う」と。
アナスタシアは研究員の一人からそれを聞くなり、殴りこみの勢いで父のもとへ走った。本当は研究員たちも、ご令嬢には隠しておきたかったに違いない。だが、どう頑張っても人の口に戸は立てられないものである。
娘の突撃に、当然、父は驚いた。しかし、相手の反応など気にする間もなく、アナスタシアは噛みついた。
「お父様! 兵器実験を行うなどと――お気は確かですか!」
「おっと。ナージャ、落ちつきなさい」
「落ちついてなどいられません!」
アナスタシアは、貴族の心得も婦女子のたしなみもかなぐり捨てて叫んだ。しかし、ヤロスラーフはそんな娘をなおもおさえた。彼が鋭い声で「アナスタシア」と呼べば、彼女はぴくりと肩を震わせた。反抗的ににらみながらも、押し黙る。
そんな彼女へ、ヤロスラーフは語りかけた。
「わかっているだろう。魔術の兵器化は重要なことだ。帝国の繁栄と安全を守るために必要なんだよ」
「農民たちを武力で押さえつけることが、必要なこと、ですか」
反論の声は、男を真っ向から突いた。ヤロスラーフがひるんだ隙に、アナスタシアは息を吸う。
「それに。あれだけの魔女のわざを盗むなど、スミーリ家当主の行いとは思えません。『
言葉は静かだった。けれども、激しかった。その余韻が消え去って、部屋に冷たい沈黙が落ちる。それを破ったのは、男のため息だった。
「ナージャ。おまえは、ひとつ、勘違いをしている」
ヤロスラーフは疲れきった声で言った。
「『五色の魔女』は我々と同じ魔術師などではない。魔術師の皮をかぶった、怪物だ」
ヤロスラーフの声は、アナスタシアの耳を通り抜け、次にその文字が頭のうちで弾けた。かいぶつ、と彼女が唇をわななかせて繰り返しているうちに、ヤロスラーフは優しい笑みをたたえた。
「彼らはヒトの姿をしていながら、ヒトよりずっと長く生きている。そして優れた魔術を生み出しながらも、それを私欲から独占している。嘆かわしいことじゃないか。優れたわざは、広めてこそだというのに」
「だから、盗んだと仰るのですか? しかし、そのせいでヤーコフは」
「ああ、そうだね」
ヤロスラーフは眉間にしわを寄せ、目もとをゆがめた。心から悲しんでいるような顔だった。
アナスタシアはどうしていいのかわからない。倒れそうになるのをいきむことでなんとかこらえていた。
「ヤーコフは、こざかしい『
叙事詩をうたいあげる詩人のように両手を広げた公は、穏やかなまなざしを娘に向けた。
「わかったかい、ナージャ」
「お父様――」
「わかったら、明日の顔合わせの準備をしなさい。実験のことは、おまえは考えなくていいから」
いたわるような調子で、けれど一方的に告げ、男は少女に背を向けた。アナスタシアは、しばらく立ったまま深呼吸をしていたが、ややしておしとやかに礼をして踵を返した。
大人しい歩き方とは裏腹に、少女の身のうちにはおさえきれない熱が渦巻いていた。
父はどうしてしまったのだろう。欲か狂気か、とにかく大きなものに取りつかれておかしくなってしまわれたに違いない。そのせいで、スミーリ家の教え――「魔術は正しく、人のために使われるべき」――すらも忘れてしまったのだ。
アナスタシアはわかっていた。私では父を説得できない、と。かといって、このままでは大変なことになってしまう。止めなくては。なんとしても、止めなくては――
渦巻くあせりを抱いたまま、アナスタシアは私室に駆けこんだ。ソーニャに人払いを命じて部屋で一人になると、魔術書を広げた。自分で買い込んだものも、書庫から持ち出したものも、すべて。そしてそれらを手当たり次第に調べ、書きつけを取っていった。氷雪の瞳に、狂人じみた光を宿したまま、少女は筆を走らせた。
※
実験は、スミーリの別邸で行われることになった。かつてアナスタシアが連れてこられた場所である。慌ただしく行き交う魔術師たちに指示を飛ばしながら、ヤロスラーフ公は知らず笑っていた。
ようやく、スミーリが研究してきた魔術を、帝国の人々に見せつけることができる。魔術師を得体のしれないまじない師と侮っている連中に、それがいかに馬鹿げた考えか、教えてやろう――長らく魔術師の一門として、腫れものに触るように扱われてきたスミーリ家である。ヤロスラーフも、幼い頃からいくつもの理不尽に耐えてきた。だが、それも今日までだと、ヤロスラーフは胸中で呟いた。いつもの地下室の隅に、今日は、皇帝に派遣された使者がいた。今は魔術師たちを不審そうにながめている彼らも、術を目の当たりにすれば腰を抜かすに違いない。屈辱を自分の代で
石を彫るか細い音がたえず響く。音の粒が、連なるごとに、床には黒々とした方陣が描き出されていった。魔術師たちは式を編み、人を描き、そして儀式道具を丁寧な
儀式道具に蓄えられた魔力が、ゆっくりと吐きだされ、漂い、天井付近にたまった。それらは混ざりあい、地下室に充満してゆく。厚く、高く広がった魔力をたどったヤロスラーフは、全身をなぜる気配に身震いしつつも、喜びに目を細めた。
魔術師たちが持ち場につく。責任者が、ヤロスラーフに声をかけてきた。彼はひとつうなずいて、魔術の発動を命じようと、口を開いた。けれども、音は出なかった。
突然、空気が揺らいだ。広がった魔力が切り裂かれ、別の魔力が流れこんできた。
ヤロスラーフや魔術師が、それをたどるより先に、鈍い声が上がった。実験の様子を見守ろうと壁に張りついていた使者が、体を折り、喉を押さえている。彼は激しくもがいたあと、目をむいて倒れ伏した。彼の体が石床に打ちつけられると、持ち場についていた魔術師たちも一斉にくずおれる。ヤロスラーフは青ざめて、倒れてゆく魔術師たちを見ていた。そうしている間に、彼自身の中にも、少しずつ苦しみがせり上がってきていた。
彼は、思わず喉を押さえた。そうしないと、大事なものが奪い取られてしまうような気がしたのだ。
ヤロスラーフは動揺していた。何が起きているのかわからなかった。だが、混乱する思考とは別に、魔力持ちに備わった感覚は、魔力を分析し、その持ち主を割り出していた。スミーリ家当主は、血走った目を見開く。
「ナージャ……?」
名前を呼ぶ。あたりを見回す。当然、娘の姿はない。
「ばかな、なぜ」
それなのに――どこからか、娘の声が聞こえた。
――同胞を
笑い含みの声を聞く。それを最後に、ヤロスラーフのすべては闇に閉ざされた。
魔術の実験が、別邸で行われようという頃。本邸では、一人の侍女が困り果てていた。彼女の名はソフィーヤといい、ふだんはソーニャと呼ばれている。彼女は今、専属で世話をしているご令嬢の部屋の中で、
「アナスタシア様?」
大きな声で名前を呼んでも返事はない。本来なら、夫候補との顔合わせのための準備をしているはずの少女は、今、部屋をあけているようだった。
「どうしましょう」
ソーニャは青ざめる。アナスタシアが行方不明だ、などという話になれば、責任を問われるのはソーニャだ。そうでなくても、アナスタシア・スミーリは無茶なことを平気でするので、心配だった。ソーニャは何度も名前を呼び、寝台の
二つに折られた紙を開くと、ソーニャは息をのんだ。自分の名前が書かれていたからだ。
それは、アナスタシアからソーニャへ
『親愛なるソーニャへ
この手紙を読んでいるとき、あなたはとても困っているでしょう。本当にごめんなさい。いつも、あなたには迷惑と心配をかけてばかりね。本当に申し訳ないけれど、また心配をかけると思うわ。
――私は、お父様を止めにいきます。今日の実験を中止させます。
相談もせず、勝手なことをしてごめんなさい。でも、あなたを巻きこみたくなかったの。あなたには、魔術にとりつかれず、幸せになってもらいたいの。だからね、もしも、お父様やその部下の方々があなたのところへやってきたら、こう言ってね――』
流麗な文字で、続く文章を読んだ瞬間。ソーニャは、へたりこんだ。箒の柄が手から滑り落ちて、甲高い音を立てた。
「アナスタシア、さま……」
少女の最後の呼びかけは、誰にも届くことなく、床に跳ね返って消えた。
春のある日、エリザース帝国・スミーリ家の別邸で、当主ヤロスラーフを含む多数の魔術研究者と帝都から来ていた使者一名が、奇怪な死を遂げた。詳細な月日は記録されていない。
帝国上層部の魔術師たちの死と、その異様な死にざまは帝国全土を震撼させた。ほどなくして、犯人はスミーリ家令嬢アナスタシアであると判明。彼女は除籍されたうえ、帝国を追放された。ただし、帝国側はその後の混乱への対応に追われ、アナスタシアを捕らえることができなかった。
アナスタシア本人のその後の足取りは、どの書物にも記されていない。人々の間では、追手をかわして出奔し、死の直前まで大陸を渡り歩いた、と推測されている。貴族の令嬢から大量殺人者になった少女は、こうして歴史の影に消えた。
同じ姿で違う名を名乗る女が大陸に現れるのは、事件からおよそ二百五十年後のことである。
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