3 翳る空

五色ごしきの魔女』は、古くから恐れられていたが、魔術師の間では、尊敬すべき術師とも見られていた。強大な力はもとより、自分の信念、生き方を貫くその姿は、身分の低い魔術師たちにとって理想の偶像そのものだったのである。

 アナスタシアも、例外ではなかった。魔女を恐ろしいものとしつつも、心のどこかでは、やはり敬う気持ちもあった。だから決して、魔女の叡智えいちに触れようなどという、愚かなことは考えなかった。


 おかしい、と思いはじめたのは、厳しい寒さがほんの少しだけやわらいだ、ある昼のことだった。ご令嬢が顔をしかめたのを不思議に思ったか、文机を挟んだ向かい側にいた男が、黒い目をぱちぱちと瞬く。優しい面立ちの彼こそが、雇われ魔術師のイワンだった。

「どうなされましたか、お嬢様」

「ねえ、イワン。近頃あなたが来ることが多いわね。私はとても嬉しいのですけれど……ヤーコフはどうしたの?」

 問えば、イワンはわかりやすく顔をゆがめた。

 ヤーコフは、アナスタシアに魔術学を教えに来る一人だ。若いイワンと違ってすでに「おじいさん」といういでたち。白い豊かなひげの下から飛び出すのは、小難しい理屈かお小言。少なくとも、少女から見たヤーコフとは、そんな人物だった。アナスタシアは、口うるさい彼が苦手だったけれど、まったく来ないとそれはそれで、静かでさびしいと思った。

「もう、五日も来ていないわ」

「ヤーコフ師は今、大事なお仕事をなさっているのです。それが終われば、またスミーリ家にいらっしゃるでしょう」

「大事なお仕事、かあ」

 少女は文机に顎をつけた。なんとなく釈然としないが、にこにこするイワンを見ていると、疑う気も失せてくる。

「いつヤーコフ師がお戻りになってもよいように、しっかりお勉強しましょう。さあ、お嬢様、はしたない格好はおやめになって、教科書をめくってください。五十八ページですよ」

「わかったわ」答えたあと、アナスタシアは唇をとがらせた。「イワン、あなた、ヤーコフに似てきたんじゃない?」

 ご令嬢の容赦ない一言に、雇われ魔術師はこらえきれず吹き出した。


 イワンの言葉を信じ切っていたアナスタシアは、次の日の夜、衝撃に立ちすくんだ。

「ヤーコフが亡くなった」

 父が沈痛な面持ちで言ったことに、とっさに返せなかった。この日は星空が見えるほどよく晴れていたのに、落雷の轟音を聞いたような気がした。

 それでもまだ、「亡くなった」だけならば、ご老人の死を悼むことができたのだ。葬儀に参列し、彼の遺体を見たとき、アナスタシアの中から、死者を哀悼するという気持ちは消えうせていた。

 寒風吹きすさぶ草原に、喪服をまとった人々がたたずんで、運ばれてくるひつぎを見守る。遠くに墓石の影が見えるそこは、貴族専用の墓地の手前だった。ゆっくりと運ばれてきた棺のふたが開かれて、死者との最後の別れをせよと、喪主が述べる。言葉に従って、老人をのぞきこんだアナスタシアは、彼にかけようと思っていた言葉をすべて見失った。

「何、これ」

 老人の体は、石になっていたのだ。

 頭から、少なくとも下腹のあたりまでは灰色になっている。触ることはできないけれど、かたくなっているのも、光の反射のぐあいでわかった。ふつうでない遺体のありさまに誰もが息をのんでいた。そして、アナスタシアはそれを、他人事のように見ていた。参列者たちがささやいた言葉を拾ってさらに驚く。

「ひどいものだ」

「魔女にやられた、という噂があるが」

「冗談だろう。魔女なんて、あのヤーコフどのが一番嫌がってた連中じゃあないか」

「だが、それならこの石化はどう説明する?」

 今まで避けて通ってきた存在が浮かび上がる。アナスタシアは、出かかった悲鳴をおさえるのに必死だった。

 魔女は、みずからの領域を侵した者に呪いをかける。それは、有名な話だ。ヤーコフは魔女に呪われて死んだのだと、アナスタシアはすぐに悟った。そして、石化の呪いを操るのが『橙色とうしょくの魔女』だというのも知っていた。

 ヤーコフはどうして呪われてしまったのか。呪われなければならないようなことを、してしまったのか。アナスタシアは、葬儀からの帰り道、そればかりをぐるぐると考えていた。

 そして、翌日。まだ空が白みはじめて間もない頃に、彼女は豪奢な寝台を抜けだした。使用人見習いたちが、こそこそと起き出している気配がある。少女はそっと息を殺し、見習いたちをやり過ごしたあと、少しだけ扉を開いた。廊下に人影がないことを確かめると、寝間着姿のまま、部屋からするりと体を押し出した。

 冷たい廊下をひたひたと進む。目指す場所は、かつて彼女が魔術と出会った部屋――父、ヤロスラーフ公の書斎だ。


 父の書斎は静かだった。いくつもの本棚が薄い朝の光を受けて、厳かに沈黙していた。アナスタシアは息を殺してそこに足を踏み入れると、なるべく音を立てないように優しく扉を閉めた。扉に耳を当て、誰もやってこないことを確かめると、ほっと息をつく。

 基本的には貴族の子女らしくふるまうよう努力している彼女である。いくら大事な調べ物のためとはいえ、他人の部屋に忍び込むとなれば、強い罪悪感に襲われた。どこまでも無邪気だった幼い頃とは違うのだ。

 それでも、どうしても知りたいことがあった。アナスタシアは、頭を振って雑念を追い出すと、本棚に手をかける。かつてはいくら頑張っても届かなかった三段目にあっさりと手が触れる。時の流れを思い知らされたアナスタシアは、苦笑した。そのまま指を這わせ、背表紙を一冊ごとになでてゆく。そして、ことさら薄い一冊に行きあたったところで、彼女はそれを引き抜いた。

 アナスタシアが取り出したのは、ヤロスラーフ公がつけている公務の記録だ。自分自身のことに限らず、誰にどういう仕事をお願いしただとか、息子がどこのどなたと会談しただとか、そんなことまで事細かに記しているらしいと、アナスタシアは母から聞いていた。冊子の端に記されている日付は、ひと月前から昨日までのものである。

 ためらいと、迷いが胸に渦巻いた。それでも、アナスタシアはとうとう意を決して、冊子を開いた。

 たった一人しかいない部屋に、紙のこすれる音だけが響く。夢中でページをめくっていたアナスタシアはけれど、途中で手を止めた。ヤーコフの名を見つけたからだった。

 口もとをかたく結び、一心不乱に目を走らせた彼女は、すべてを読み終えるとよろめいた。冊子を落とさなかったのが不思議なくらいだった。

「ヤーコフ……お父様……どういうこと?」

 実際のところ、アナスタシアがまともに読めたのは最初の一文だけだった。後は、まるで頭に入ってこなかった。短い呼吸を繰り返した彼女は、再び紙面に目を落とす。そっけない文字で、ひとつの事実が記されていた。

『朝、ヤーコフほか魔術師数名に、“橙色の魔女”の住処への遠征を命じる』


 太陽の半分が地平線に隠れる時分じぶん。まぶしい陽光を分厚い雲がさえぎって、あっという間に雨が降り出した。雨にはややして氷が混じり、それは夜にも降り続く。めったにない長雨だ。暗い窓をかたい水の粒が叩いて、ぱらぱらと音を立てた。

 アナスタシアが父の書斎を再び訪れたのは、雨音が砂利を振りまくような硬質なものになった、寒い夜のことだった。もうそろそろ寝る時間だ。令嬢の来訪に、ヤロスラーフ公は当然ながら驚いた。

「少し、お時間よろしいでしょうか」

「ナージャ、どうしたのだ」

「いえ……ただ、お話しがしたいのでございます」

 首をかしげ、ことさらに幼い口調でアナスタシアがそう言うと、ヤロスラーフ公はふむ、と呟きながらも本を閉じた。「わかった。たまにはゆっくり話をするのも悪くないだろうしな」と返されて、アナスタシアは心底安堵した。

 父と話したい、というのも本心ではあるが、彼女の本当の狙いは別にある。

 父と娘の間で交わされたのは、他愛もない日々の話。あるいは、亡きヤーコフとの思い出話などだった。心を急き立てるような雨の音が、優しく心にしみわたる、穏やかな時間だった。しかし、アナスタシアは、ヤーコフの話が深まってきたところを狙って、別の話を切り出した。この平和を壊す覚悟で。

「お父様。最近、魔女の研究をなさっているのですか」

 あえて、実際に見た文章とは違うことを口にした。それでも、ヤロスラーフ公の顔には動揺が走った。ほんの一瞬のぞいたそれは、すぐに、柔和な笑みに吹き飛ばされる。

「おや、どこで知ったんだ」

「家にいらっしゃる魔術師の方々が、噂していました」

 これは嘘だ。けれど、父のまわりにいる魔術師たちが多かれ少なかれ、『橙色の魔女』のもとへの遠征に関わっていることは、間違いないと思われた。アナスタシアが緊張をごまかすふりをして背筋をのばすと、ヤロスラーフ公は白の混じった頭をかく。

「やれやれ。あまり外で話すなと言いつけているはずなのだがな」

「……大丈夫、なのですか。魔女のわざを研究するなんて。我が家の教えに反しませんか」

 石化の呪いなど研究したところで、人々のためになるとは思えない。少なくともアナスタシアはそう考えていたが、ヤロスラーフ公は笑みを深めて言いきった。

「ナージャ。大丈夫だ。魔女のわざと言っても、呪いだけに限らぬだろう。強力な魔女に教えを乞い、そのわざを研究することが、スミーリ家と帝国の平和と繁栄につながるはずだ。私も、魔術師たちも、それを信じている」

 そうだ、今度おまえに現場を見せてやろう――と、嬉しそうに体を揺らして語る父を見、少女は眉を曇らせた。

 なにかが足りない気がしていたのだ。大切な事実をぼかされているような――



 アナスタシアがそこまで考えられたのは、実際の書物を見てしまっていたのはもちろんのこと、生来の鋭さのおかげもあっただろう。

 ただ、女性の社会進出が叫ばれる前の帝国時代、知恵の回る気の強い女は、特に貴族や王族の間ではうとまれていた。むろん、王侯貴族の女性たちが愚鈍であったかというと、そうではない。むしろ逆である。厳しい時代の荒波を越えてゆくためのしたたかさがあったことは、歴史とそれを記した幾多の記録が証明しているところだ。彼女らがなぜうまく立ちまわれたかといえば、その鋭い牙を色香や作法で隠すすべを覚えていたから、というのが理由のひとつであろう。

 アナスタシアは、そのすべを持つことを嫌った。正直すぎたがゆえに、少しずつ、帝国の暗い闇にのまれてゆくこととなったのかもしれない。

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