2 書庫に眠る光と影

 珍しく、からりと晴れた日。よく整えられた庭に囲まれた屋敷は、いつもと違うにぎわいに包まれていた。門のむこう、扉の前には、礼装に身を包んだ男女がひしめきあっている。完璧につくられた笑みを浮かべ、時に品のよい冗談を交えながら挨拶や賛辞の言葉を口にする人々。彼らのまわりには、一見清らかな、けれど明らかにはりつめた空気が流れていた。

 ここにいるのは全員、エリザース帝国内で名前が知られている人々だ。貴族の子弟、豪商やその子どもはもちろん、先の戦で名をあげた戦士までもが混ざっている。

 庶民が見たなら腰を抜かしそうな面子めんつが揃っているのは、当然のことだった。今日は、天才と名高い、この家の令嬢の祝いの日なのだから。――そう、つまりは、アナスタシア・スミーリの十三回目の誕生日である。


 繰り返し自分の名前を呼ぶ声が、階段を駆けあがってくる。気づいたアナスタシアは足を止めた。磨き抜かれた木の手すりを器用に使って、踊り場に躍り出たのは、屋敷に仕える使用人の一人だった。

「アナスタシア様、まだこんなところにいらっしゃったのですか! お客様がお待ちですよ!」

 軽やかな動きに合わせ、やわらかく波打ったこげ茶色の髪が揺れる。爛々らんらんと瞳を輝かせる少女に、アナスタシアはほほ笑んだ。しかし、穏やかな表情でいながらも、自己主張は忘れない。

「ごめんなさいね、ソーニャ。でも、なんだか足が進まなくて」

「まーた、そのようなことをおっしゃいますか。アナスタシア様はスミーリ家の顔なのですから、しっかりなさってください。それに……」

「それに?」

「みなさま、アナスタシア様のお姿を早くご覧になりたいはずです!」

 拳をにぎって力説する使用人に、アナスタシアは「あなたこそ、またそんなことを」と、苦言を呈する。それでも彼女はこたえた様子を見せず、アナスタシアを先導しはじめた。

 ソーニャは、スミーリ家に仕えて三年目の使用人である。本名はソフィーヤだが、一部の人々にソーニャと呼ばれ、親しまれている。まだまだ新米といってもよいけれど、アナスタシアの身辺の世話をする侍女の一人に抜擢されていた。この、少々偏屈なご令嬢と仲が良いおかげだった。年齢が近く、また天衣てんい無縫むほうな娘に対して、アナスタシアもかなり心を開いているのだ。

 階段を降りながら、少女たちは弾んだ声を交わす。

「やはり、祝宴しゅくえんや舞踏会はお嫌いですか?」

「そうね……人の多いところはちょっと。それこそが貴族の女の務めだとは、わかっているんだけれど」

「実際、最後にはきちんと出席なさいますものね。いろいろと文句をこぼされながら」

「舞踏会に出るくらいなら、一日中魔術の勉強をしていたいわ」

 相変わらずな令嬢の態度に、ソーニャが苦笑する。

 幼少期に才能をのぞかせてから、アナスタシアはみるみるうちに魔術に傾倒していった。時間の許す限り魔術の本を読み、その知識を深めていっている。口さがない他家の子女から「本の虫」と揶揄やゆされているが、本人はまったく気にしていなかった。

 反比例して人との交流の場を嫌うようにはなった。だからといって閉じこもりはせず、スミーリ家の代表の一人として表に出ていく。公私の切り替えがきちんとできる、良くも悪くも貴族の女らしい娘だと、親族には逆に感心されているくらいだ。


 ぶちぶちと文句を垂れていたアナスタシアも、ソーニャと話をするうちに落ちついたらしい。祝宴会場の広間に入り、客人たちに向け一礼をする頃には、すでにふだんの毅然きぜんとした態度を取り戻していた。当のソーニャが、凛とした後ろ姿を確かめて胸をなでおろしたことには、気づかなかったが。

 祝辞を含む、長い挨拶が終わると、宴は舞踏会に似た様相を呈していった。挨拶にかこつけて言い寄ってくる男子たちを無難にあしらっていたアナスタシアは、途中、父の姿を見つけて、目を見開く。

「あれは……宮廷魔術師? でも、なにか」

 思わず呟いてしまうほどの違和感を覚える。娘に立派な背中を見せている父は、アナスタシアも見覚えのある宮仕えの魔術師たちと談笑をしていた。

 スミーリ家は魔術師の名家として知られているから、それは珍しくもない光景だった。ヤロスラーフ公はこの当時から、王宮の魔術師たちとさかんにやりとりをし、軍属魔術師の育成にも積極的だった――と、グランドル王宮に残されている帝国資料にも記されているほどだ。

 しかし、アナスタシアは、日常風景にどこか齟齬そごがあるような気がして、眉を寄せた。しかし、長々と父を観察しているわけにもいかない。しかたなく、ほほ笑みを貼りつけて、社交場に戻った。


 結論をいえば、祝宴は何事もなく終わった。ただ、今日の主役は疲れきっていた。お客人が帰ってしまうと、ふだんから人の多い屋敷でも、一気に静まりかえったように感じられる。冷え冷えとした空気に安心感さえおぼえて、廊下を歩いていた。足が羽のように軽いのは、きっと解放されたという心地よさのせいだけでもないだろう。

 アナスタシアが向かっているのは、屋敷の書庫だ。当然、魔術の本を読むためである。あと二刻ほどしたら、雇われ魔術師のイワンが来る。その後は、家族で夕食だ。慌ただしくなる前に、息抜きがしたかった。


 屋敷の書庫は小さいながらも、整理されている。地味でもきれいな本棚は天井に届くほど高く、そのなかに、書物がぎっしりと詰まっていた。派手な装飾こそないが、蔵書量はいつか見た都市の図書館にも劣らないと、アナスタシアは勝手に思っていた。

 迷いのない足取りで魔術書の書架まで行くと、いつものように蔵書あさりを始めた令嬢。今日はまだ読んだことのない本を探すことにした。とはいえ、この十年足らずで屋敷の魔術書の大半は読んでしまった気がするので、自然、隅をつつくような作業になる。

 本を一冊ずつひっぱりだして確かめていたアナスタシアは、途中でふと、手を止めた。見慣れない、ひもとじの本が目に入った。それを慎重に引き出したアナスタシアは、少し目を細めた。紙がすでに黄ばんでしまっていたからだ。

「あら……虫に食べられてないといいけど……」

 呟いた彼女は、壁際にしつらえられた椅子に腰かけて、本をめくっていく。

 ちなみに彼女が座っている椅子は、アナスタシアのためにと、雇われの木工職人がわざわざ作ったものだった。そのおかげで、彼はヤロスラーフ公にとても気に入られ、「名家お抱えの職人」として、そこそこ名を上げている。

 椅子に関する逸話いつわはともかく、アナスタシアは、すぐその書物にのめりこんだ。今まで噂話でしか聞いたことがないような、古い魔術がたくさん記録されていたからだ。彼女は夢中で方陣の分析を進めた。だが、踊るように動いていた視線は、途中でぴたりと止まる。

「何かしら、この方陣」

 彼女が目をとめたのは、一言でいうなれば、とても複雑な方陣だった。目が肥えているアナスタシアでも、一瞬、めまいがするほどだった。宮廷魔術師でも式を読み解くのが難しいであろう方陣。それに、つかのま圧倒されたアナスタシアは、次に闘争心を燃やした。

「決めた。これは、必ず読み解いてみせるわ」

 薄暗い書庫で一人、目を光らせた才媛は、その日から、謎の方陣の解析に没頭することになる。

 

 くだんの方陣は、見た目どおり――いや、それ以上に複雑だった。天才とうたわれるアナスタシアをもうならせた。解析は、季節がひとつ過ぎるまでかかってしまった。それでもなんとか、家人に怪しまれる前に、方陣の正体を突き止めることができた。

――そして、それこそが、彼女が最初に出会った魔女のわざにして、最大の禁忌。『すべての命を奪う魔術』の方陣だったのだ。


 そのことに気づいたとき、アナスタシアは雷に打たれたような衝撃に見舞われた。あやうく本を取り落としそうになった。

 最近、実用化に向けて実験が繰り返されている大砲ですら、怖いと思う。だが、この方陣が万が一実用化されれば、大砲などかすんでしまうほどの殺りく兵器になる。アナスタシアがそう考えるのには理由があった。くだんの方陣のまわりのページをよく見てみると、実用化を見越したような記述があったのだ。それも、スミーリ家の人間の名前で書かれたものだ。

 この魔術の研究は頓挫とんざしたらしいが、もし成功していたら、戦争に使う気だったのだろうか。アナスタシアは青ざめた。細く白い手が震えだした。

 魔術は正しく、人のために使われるべきだ。そのはずだ。そううたい続け、教え続けてきたスミーリ家の書庫から、なぜこんなものが発見されたのか。若い娘の胸のうちに、黒くよどんだものが渦巻く。

 アナスタシアはかぶりを振った。自分の思考が、よくない方向に流れていっていることに気づいたからだった。

 きっとこれは、先祖が犯したあやまちだ。そのあやまちを封じるため、書庫にこの本を押しこんだに違いない。父親のヤロスラーフ公がこの禁忌に手を出すはずがない。そう、懸命に言い聞かせて、アナスタシアは己を保った。

 侍女の呼び声に気づいた彼女は、慌てて本を棚に戻して、駆けだす。


 彼女は知らない。わずか三日後に、ヤロスラーフが雇った魔術師が、我が家にとんでもない一報を持ち帰ってくることを。

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