第二章 アナスタシア

1 幼い日の萌芽

 アナスタシアは、スミーリ家の第三子として生を受けた。彼女の生まれた時代は、あとの歴史でいうところの帝国全盛期、その頂点を過ぎた頃だった。帝国を栄えさせた賢帝の崩御ほうぎょから一年と少し。ようやく喪が明け、明るさが戻ってきた時でもあった。


 父・ヤロスラーフ公も、母のオーリガも、最初はアナスタシアを今までと変わらず育てようと思っていた。つまり、裁縫や音楽、踊りなどを家庭教師から学ばせて、将来的には名のある家へと嫁がせる――そういう、貴族の子女としての教育をするつもりでいたのだ。そして実際、三歳ごろまではそのようにして育てられた。

 彼女が才能を目ざめさせたのは、四歳の年が半分過ぎた頃だった。最初に才を見いだしたのが誰か、各地に現存する書物には残っていないが、当事者のアナスタシアは、父ヤロスラーフ公だったのではないかと推測していた。


 いつもの『お勉強』が終わった後、アナスタシアはひまをもてあましていた。その日はたまたま、公務で両親ともに不在だったのだ。世話役の侍女や執事が相手をしてくれても、なんだか物足りなかった。広い部屋の隅っこで頬をふくらませたアナスタシアは、ふと、ある部屋の存在を思い出して目を輝かせる。彼女が今いる部屋の隣には、父の書斎しょさいがあるのだ。そこには、感動のあまり言葉を忘れるほどたくさんの書物があるのを扉の隙間から見たことがあった。いつかはあの本が読みたいと、アナスタシアは常々思っていたのだった。

『お勉強』は好かないが、本を読むのは好きだった。この頃にはすでに、古典の分厚い本を好んで開くようになっていたのだから、はたから見れば空恐ろしいものである。ただ、アナスタシアは、その本を読んでどう思ったか、何を得たかをめったにひけらかさない子だったので、文字を見て楽しんでいるだけだと思いこんでる者も少なくなかった。

 ともかく、思い立ったら即、行動である。アナスタシアは家人たちの目を盗んで、父の書斎に忍びこんだ。天井まで届きそうな本棚に目を奪われ、立ちすくんでしまう。閉めた扉のむこうから、くぐもって聞こえてくる足音のおかげで我に返った。上は高すぎて手が届かない。なら、目の前からだ。とりあえず、手ごろな本を抜きとって開いてみた。

 目に飛びこんでくる、文字、文字、文字の洪水。さらには意味不明な図形まであって、子どもの頭は混乱した。このときアナスタシアが開いていたのは、研究者向けの魔術学の論文を集めた本だった。魔術の世界すら知らない少女が理解できないのも、あたりまえのことである。アナスタシアは、しぶしぶそれを読むのをあきらめて、薄い本に手をのばした。身の丈に合わない本を絨毯の上に広げれば、今度の文章は、前よりもやさしかった。『魔術の基礎』という見出しの下に、図と文字がずらりと並ぶ。

 これが、アナスタシア・スミーリが魔術と出会った瞬間だった。このときから、彼女はすっかり魔術のとりこになってしまい、人目を盗んでは父の書斎や母の本棚から魔術の本を借りて読みこんだ。


 そんな日々は半年続いた。そして、ある昼下がりに、アナスタシアは父が頭を抱えてうなっている姿を見つける。どうなさったのですか、と問えば、お仕事のことを考えているんだよ、とヤロスラーフ公は答えた。彼がこのとき取り組んでいたのは、ある魔術の改良だったのだが、もちろん公は、幼いアナスタシアにそこまでのことは教えなかった。

 好奇心旺盛なアナスタシア嬢は、悩ましげな父を気遣いつつ、彼のまわりに散らばっている羊皮紙をのぞきこむ。そして、目を丸くした。わずか四年と少しの人生のなかで、一番驚いた瞬間だった。

 羊皮紙に書かれていたのは、魔術を使ううえで必要な図形――方陣だった。誰に教えられるでもなくひそかに学んでいたアナスタシアは、また誰に言われるでもなく、方陣の分析を始める。そして、ひととおり目を通すと、ヤロスラーフ公を見上げて、言ったのだ。

「第五十七周のこの記号とこの記号は、まとめて前の列に動かした方がいいと思うのです。そのほうが、魔力がて通ります」

 娘の言葉を聞いたヤロスラーフ公は、それはもう驚いた。いつの間に魔術を学んでいたのか、とうなったのはもちろんだが、それ以上に彼女の理解の早さとひらめきに舌を巻いた。


 エリザース帝国では、それほど魔術が発展していなかった、というのが、学者たちの意見だ。実際、グランドル王国に残っている魔術にまつわる書物にも、それほど踏みこんだ内容は書かれていないし、方陣の改良もあまり進んでいなかった。ロトやワーテルが見れば鼻を鳴らして「お粗末」と吐き捨てそうな魔術書が、貴重な書物として大事に保管されていた。エウレリア大陸で魔術学が発達するのは、北のヴァイシェル大陸から異民族がやってきてからのことだ。


 そんななかでも、スミーリ家は魔術に詳しい方だった。数学を方陣に応用して魔術がより発動しやすいようにしよう、という考え方を早くから持っていたし、魔術師の間で使われる式や定義名の多くを発見、開発したのもスミーリ家だった。そんな家だからこそ、男女関係なく、あるていど魔術に関することは教えられる。だからこそ、アナスタシアの才能は誰からも歓迎された。


 娘に魔術の才がある、そう見抜いた彼女の両親は、予定より早く魔術の勉強を取り入れることにした。関わりの深い家の魔術師を教師として招き、多くの本を貸し与え、ときには両親から直接アナスタシアに教えることもあった。

 知識を学ぶだけではなく、魔術を使うときの心得も、たくさん教わっていた。魔術におぼれたために死んでしまったり、狂ってしまったりした魔術師たちの話を何度も聞かされた。そのなかで、アナスタシアがもっとも興味を持ったのは、『ナージャと魔女』という民話だった。大商人の娘ナージャが魔女と出会い、魔術の魅力に取りつかれる。しだいに魔術に執着するようになって、最後には人間でなくなってしまう。破壊の女神ルナーティエと結びつけられた物語は、少女の心をひきつけた。主人公の名前が、自分の呼び名と同じだったことも関係しているだろう。


「魔術は正しく、人のために使われなければいけない」


 スミーリ家の教えを徹底的に叩きこまれた少女は、みるみる知識を取りこんで、貴族の心構えを身につけて、大きくなってゆく。そして、自分の家にひそむ、矛盾と闇に気づくことになるのである。

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