2 届かない手

 マリオンは、自分の目を疑った。

 足音どころか気配さえなく、黒い男の連れが現れて。彼女の指が幼馴染の血に触れて、息をのむほど精緻な方陣を見た。その次の瞬間に、青年の体が傾いたのだ。糸の切れた操り人形のように。

「……ロト!」

 呆然としていた彼女はしかし、彼の名を呼ぶ自分の声を聞いた瞬間、我に返った。夢中で飛び出し、倒れる体を受けとめた。力の抜けた肉体は、ひどく冷たく、重かった。頬を叩く。何度も呼ぶ。それでも身じろぎひとつしない。閉じた目は開かれない。もともと白い肌は、血の気を失って蒼白くなっていた。命の気を感じさせない彼の姿に、マリオンは全身を震わせる。自分までへたりこみそうになった娘は、すぐに顔を上げた。楽しそうな哄笑こうしょうが、耳にさわる。

 ルナティアが、わらっていた。その手にはなぜか、かたい石のようなものがある。少し黒ずんだ、青色のそれは、ぶきみに光って、今にも消えてしまいそうだった。

「ああ……ようやく手に入れた……」

 うっとりとして呟く彼女のもとに、まっ黒い男が歩み寄る。彼はどことなく冷めた目で、相方を見ていた。

「感謝しろよ、ルナティア」

「ええ。感謝するわ、オルトゥーズ。これがないと始まらないもの。うまくいってよかったわ。遊ぶみたいに戦っていたのには、文句を言いたいところだけど」

「その筋合いはないと思うが。指示のとおり、傷はつけてやった。なまの傷口の方がうまくいくんだろう?」

 マリオンは、目をみはった。導かれるように青年の肩口へと視線が滑る。あの二人のやり取りの、すべての意味はわからない。それでもわかったことがある。彼はあのとき、わざとマリオンを狙ったのだ。ロトに、傷をつけるために。

 全身に力が入る。奥歯がぎりりと音を立てた。理性のすべてをかなぐり捨てて、立ち上がりかけたとき――深海色の両目が、薄く開いたことに気づく。口が勝手に音をつむぐ。隙間から見える瞳はうつろでも、かろうじて、まだ生きていることを感じさせた。乾いた唇がわなないて、声にならない声で彼女の名前を呼ぶ。

 マリオンが、それに返そうとしたとき――澄んだものが、砕けた。

「……え?」

 マリオンはひるんだ。視界の隅に映ったのは、彼女が毎日のように目にしている、銀色と緑色だった。ロトの両腕の、彼に似合わぬ豪奢ごうしゃな腕輪。呪いを抑制するために、彼女が丹精込めて作ったそれは、あっけなく砕け散って破片となった。

 その音に気づいたルナティアとオルトゥーズが振り返る。マリオンはそちらを見ていなかった。それよりも、白い肌を侵す黒に目がいった。

 命ある体が、びくんと跳ねる。今まで気絶していたとは思えないほどのうめき声がほとばしる。動揺するマリオンをよそに、オルトゥーズが眉をひそめていた。

「生きてるのか、魔力を奪われて?――あの、呪いのせいか?」

「正確には、あの娘お手製の封印具のおかげでしょう。私が奪ったのは、封じられていない魔力だけ。それでこの強さなんだから、化け物並みね」

 魔女に見こまれただけはある、とうそぶくルナティアは、微塵みじんも危ないと思っていないふうだった。いつもであれば、そのふつうでない態度に恐れのひとつもおぼえるところだろう。けれど、今のマリオンは、それどころではなかった。

 彼の体に手をかざす。いつものように、黒を追いだそうと呪いに挑む。いつも以上に集中した。それなのに、呪いのあざはいっこうに引かない。それどころか、黒のうごめきは、だんだん激しくなってきた。

「え、うそ、嘘でしょ」

 マリオンはこみあげた恐怖をのみこんだ。後遺症が残る覚悟で、先に腕輪の代わりを刻むべきかと手を伸ばす。しかし、黒は早くも腕を丸ごとのみこんでいた。意識があるのかわからないロトが、ただ苦痛の声を上げる。

 今から方陣を編んでいたのでは、間にあわない。暗い絶望が、ひたとマリオンの頭を満たした。

 女がなにかを言っていた。ぼやけてよく聞こえなかった。それよりも今は彼だと、幼馴染の手をにぎったとき、今まで曖昧だった音が、急に鮮やかになった。


「まあ、いいわ。惜しいけれど、騒ぎになる前に殺してしまって」


 感情の読めない声が、頭の中で反響する。惜しいとはなんだ。殺すとは、なんだ。

 剣が抜かれた。殺気がふくれた。足音が近づいてくる。――マリオンは、無意識のうちに、そばにある体をかばうように抱いていた。

「させるか!」

 獣のように噛みついた。幼い日を思い出す。のちに師匠と呼ぶ男性とまみえたときも、マリオンはこんなふうに威嚇をしたのだ。弟のように思っていた子どもを守るために。

「……変な抵抗はやめろ。面倒くさい」

 剣をさげたまま、オルトゥーズが吐き捨てる。呆れと侮蔑を同じだけ含んでいた。けれどもマリオンは少しもひるまず、にらみかえした。右手を宙に持ちあげる。息をするように方陣を編む。彼が斬りかかってくるまでにできあがるかはわからないが、刺し違えてでも一発は術を放ちたい。

 マリオンの予想に反して、オルトゥーズは剣を構えなかった。だるそうに背後を見る。こたえる声はなかったが――かわりに、遠くで方陣が弾けた。マリオンは思わぬ見落としに気づいてほぞをかむ。その後悔をかき消すように、風は吹き荒れた。

 オルトゥーズが石畳の隙間に剣を刺す。マリオンは、悲鳴を上げながらもどうにかこらえた。が、直後、彼女とロトの間で熱をもったなにかが弾ける。それは娘の手に痛みをあたえると、幼馴染どうしをむりやり引き離した。ロトが近くの壁に叩きつけられたとわかったとき、マリオンは地面にしがみつくことしかできなかった。

 風がおさまって、貴族のような上衣がひるがえる。叫んで駆けだそうとしたマリオンをルナティアの術がとどめた。

「どいて!」

「無理よ」

 ルナティアは、短く切り捨てる。

「せっかく魔力が奪えたんだもの。これ以上、よけいなことはしてほしくないの」

「勝手なことを……だいたい、他人の魔力を奪うなんてそんな術、あるわけ」

「信じない?」

 つかみかかる勢いのマリオンへ、女は余裕さえ感じさせる笑みを向ける。信じるわけがないと返そうとしたはずの女魔術師は、そこで言葉を失ってしまった。


 他人の魔力を奪う術など存在しない。あったとしても、古代に失われているだろう。いまわしいものとされ、忘れ去られているだろう。

 魔力の乏しい術師が、他人からそれを借りるすべは知っている。けれどもそれは、互いの同意のもとに成立するものだ。そして、人を動けなくさせるほど大量に吸い取ることはできない。

 しかし、なぜだろう。今のルナティアを見ていると、そんなでたらめなことができてしまってもおかしくないと、思えてくるのだ。実際、ロトはあの状態である。


 答えにつまっていたとき、瞳のまんなかで光が弾けた。マリオンは、本能に任せて横に跳ぶ。とがった岩がとおりすぎ、民家の壁にぶつかって砕けた。

「卑怯者」

「オルトゥーズから逃げようとしたあなたに言われたくないわね」

 白い手が、銀の髪をかきあげる。青なのか紫なのか、はっきりとしない色の瞳は、無邪気な色を宿して光る。

「さあさあ、早くしないと大事な彼が死んでしまうわよ。いいのかしら」

 マリオンは、いまいましい彼女をねめつけた。

「邪魔をしてるのは、あんたでしょう」

 ルナティアは、おもしろがるような表情をしただけだった。そのむこう、オルトゥーズが剣を持ちあげているのが見える。わずかに見える青年の体は、もう、ほとんどが黒くなっていた。――いつ、息ができなくなっても、血が通わなくなってもおかしくない。

 マリオンは恐怖に突き動かされた。単純な術を放って、ルナティアにつかみかかろうとする。けれども、強い衝撃を受けてやすやすと地面に叩きつけられる。長らく忘れていたはずの、受け身をとることができたのは、奇跡に等しかった。

「あの様子じゃ、オルトゥーズがなにもしなくても終わりそうね。……本人は嫌がるでしょうけど」

 言葉と同時に、風切り音が響く。振り下ろされた。終わる。なにもかも。

 恐ろしかった。憎かった。短い間に何度も飛び起きて、そのたびに突き飛ばされた。こんなときでも涙はこらえる。

「安心なさい。あなたもちゃんと、後を追わせてあげるから」

 つややかで、場違いに優しい声が、やけに大きく響く。


――マリオンはいつも、恐れていたのだ。

 小さな彼が、黙っていなくなってしまうのではないか、と。

 自分より先に手の届かないところへ行ってしまう。そんな気がしていた。だから離れたくなかった。

 それは、幼い頃のほほ笑ましいとさえいえる感情で。しかし一度生まれた恐怖の炎は、彼女が長じて少女から娘になっても、胸の奥でくすぶり続けていた。


 姉のつもりだった。

 彼が生まれたあの日から、ずっとそのつもりだった。

 馬鹿な話だ。結局守ってやれなかった。それどころか、守られて、傷つけた。

 刃の光は見えない。肉を切り裂く音が聞こえるまでが、ひどく長く感じられて。赤いしぶきが見えた瞬間、彼女は、全身を焼く悲鳴を上げた。



 舌打ち。

 黒い目が細められ。

 血まみれの刃のむこうに、息遣いを感じる。

 まだ生きている。

 けれど、安心するにはいたらない。刃を逃れても、彼は遠からず呪いで死ぬ。

 手をのばす。届かない。悔しくて、悲しくて、気が狂いそうだった。

 そして彼女がなにもかも、何が起きて誰がどこにいるのかも、理解できなくなったとき。やかましい羽音と、激しい鳴き声が、その場を包んだ。


 黒い影が頭上をよぎる。そのときやっと、マリオンの意識は今に戻ってきた。女性二人の頭上をこえた黒い鳥は、鳴きながらオルトゥーズの方へ突っこんだ。彼はぎょっとして、それを激しく手で払う。彼が、叫んだ。

 黒い鳥は、鴉だった。鴉がロトの頭上を飛んだとき、ぱんっ、となにかの弾ける音がする。間もなく、ロトが体を折って激しくきこんだ。呪いの気配が薄れはじめたことで、マリオンも何が起きたかを知った。

「あれは、まさか――!」

 ルナティアが叫んだ。これまで見たことのないほど、激しい怒りに顔をゆがめて。彼女が言葉を続けるより先に、オルトゥーズの剣が鴉めがけて閃いた。しかし、不思議なことに、刃は鳥を切り裂く寸前で止まった。鴉は、目をみはったオルトゥーズをあざ笑って、カァ、と鳴くと、高く飛び上がる。


 鴉の乱入は、ほんのわずかのことだった。時計の針が動くか動かないか、というほどの。

 その、わずかな時間のなかで――この場の誰でもない者の方陣が、ひそかにできあがる。


 突然、大通りの方で光った方陣は、丸い硝子がらすのようなかたまりを生み出した。それは、オルトゥーズのそばの壁、ロトの頭上にぶつかって、かけらを残さず弾け飛ぶ。かたまりの割れる音に、見えていないマリオンでさえ意識をひきつけられる。

 間をおかず、軽やかな靴音と剣の響きが重なった。後ろで連続した音に戸惑ったルナティアが、相方を振り返る。その瞬間、風を切って、細い刃が彼女を狙って突かれた。攻撃に気づいたルナティアは、小さな舌打ちをこぼし、頭をひねる。くうを切った刀をいまいましげににらみつけた。

 マリオンは、目の前で繰り広げられるやりとりに、ついていけていなかった。ただ身の危険を感じ、這うようにして後ろに下がる。そのとき、大通りの光を背にして立つ、軍服姿の女性の影が目についた。

「え……な、んで……」

 呆然とするマリオンをよそに、彼女は自分の得物を構えたまま、踏み出す。暗がりのなかに亜麻色の髪がなびいた。同時、ルナティアが切れ長の目を細める。

「思ったよりも早かったわね。軍人は鼻がいいのかしら」

「――ただの偶然ですよ。あの子の直感を信じてよかった」

 彼女の声は、マリオンが知っている彼女のものではなかった。初々しいまじめさは影をひそめ、軍人らしい冷徹が漂う。しかし、銀髪の女を見つめる瞳は、冷静とはほど遠い。煮えたぎる、若い怒りを押し殺して、爛々と光っていた。

「さあ、暴れるのはもう終わりです。彼らを解放しなさい」

 アレイシャ・リンフォードは、鋭く命じると、ルナティアに軍刀を突きつけた。

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