3 アニーの剣

 アニーの名前が呼ばれると、演習場全体が、ゆるんでいるともはりつめているとも言いがたい、妙な空気に包まれた。彼女の悪名あくめいが、学院じゅうに知れ渡っている証拠といえる。アニーは、気にすることなく、戦いの場へと出た。名前を呼ぶ声がする。振り返れば、クレマンが拳を突き上げていた。アニーは静かに口の端を持ち上げて、同じように拳を上げる。二人のやり取りに気づいた、一部の同級生が凍りついていた。


 白線の前まで進むと、試験で使う剣を持つ。白い線をはさんだ反対側には、すでにハリス先生がいた。言いたいことはたくさんある。それは、彼の方も同じだろう。けれど、今はそのどれもを胸にしまう。決められた挨拶以外の言葉は、交わさない。

 ハリス先生も元軍属だ。兵卒にすらならないうちにやめてしまったと聞いたが、剣の腕はかなりのものらしい。今この場で、アニー・ロズヴェルトを相手に、どう立ち回ってくるかは、わからない。彼はただ、静かに、手のかかる教え子を見つめていた。アニーはつかのま目を閉じて、うるさく騒ぐ心ノ臓をなだめすかす。そして、すぐに瞼を上げると、音もなく身構えた。

 空気が、ぴんとはりつめる。それまでの、アニーをせせら笑うような空気は、一瞬で消え去った。


 誰もが気づいたのだ。――今までの試験とは、明らかに、何かが違う、と。

 気づかなかったのは、いつもどおりだったのは、戦場に立つ二人だけ。


 声に従い剣を抜く。互いの姿を目に収める。試合開始のかけ声ひとつ、同時に少女は駆けだした。

 演習場は、にわかにざわめく。息をのんだのは誰か。嘲笑ったのは、誰か。アニーの耳にはそれらの音が入ってきていたが、どれも雑音ほどにしか聞こえない。薙ぎの構えをとる。彼女が剣を振る直前、ハリス先生も動いた。愚直に飛びこんできた彼女を突き飛ばす勢いで、剣先がひらめく。真っこうからそれを受けとめるはめになる――はずだったアニーは、その寸前で、後ろに跳んだ。

 相手の剣が空を切る。ハリス先生は、姿勢こそまったく崩れなかったものの、わずかな動揺をあらわにした。生じた隙につけこんで、少女は今度こそ前へ出る。冷徹なほどに鋭い突きを胸当てめがけて繰り出した。先生は、次には動じた様子もなく、身をひねってそれをかわした。お返しに繰り出された刺突の一撃を剣の腹で止めて、受け流す。

 二人は、じりじりと距離をとった。鋭く重いかけ声は、果たしてどちらのものだったのか。圧して固められたはずの砂が舞い上がり、少女と男性が衝突する。


 鉄の音が響くごとに、二人が一合打ちあうごとに、沈黙は深まった。戦士科の生徒たちなどは、身じろぎひとつしない。試合を食い入るように見つめ、圧倒されていた。


 戦っているアニー自身は、観客たちの変化に気づいていない。ただ、喉をしめつけられるような緊張感を抱いてはいた。間髪かんはついれず二度繰り出された剣戟をぎりぎりで避けて、死角に回りこもうと地を蹴った。

 穏やかな担任教師は、剣を交えるごとに、目つきが鋭くなっている。まとう空気が変わっている。すぐには思い当たらない、しかしどこかで感じたことのある空気だ。相手がすばやく振り返る。アニーが首筋を狙って打ちおろした剣は、直前で打つべきものを見失った。アニーはとっさに退しりぞいたが、鉄のかたまりが目の前を通りすぎて、額をかすめる。


 黒眼のなかに温和な光はない。それに気づいた瞬間、アニーは静かに納得していた。これは軍人の気配だ。今の演習場の空気は、かつて王都で黒い竜と戦ったときのそれと、同じなのだ。すぐに辞めたとはいえ、ハリス先生も、もとは軍人である。戦場に身を置いた経験があると言っていたし、講義のときには自分が参加した紛争の話も織り交ぜてくれていた。

 彼は戦場をくぐり抜けたのだ。誰にも守られることのない、本当の戦争を生きのびている。アニーではかなわない。徴兵されたばかりの元農夫が、熟練の職業軍人に、真正面から挑んでいるようなものだ。どうあがいても届かない。

 だからこそ、負けない、という意志は捨てない。


 碧眼が、淡い太陽を弾いて輝いた。相手が、少しされたように、アニーには見えた。冷たい空気を吸いこんで、吐き出す。柄を強くにぎる。駆けだす。横薙ぎに剣を振ると見せかけて、敵の間近にまで迫る。そのまま剣を持ちかえて、力いっぱい突いた。

 両手に強い衝撃が走る。遅れて、打楽器を思わせる騒音が響く。観客たちが一瞬ざわめき、ハリス先生がはじめて、顔をしかめた。強い手ごたえに指が震える。アニーはそのまま立ち止まりかけたが、首筋をなぞる冷たさで我に返った。とっさに剣を投げ捨てて転がる。鉄が重く風を切る。脳天めがけて落とされた先生の剣は、幸いにも空振りした。栗鼠りすにも負けない俊敏さで、身をかがめて走ったアニーは、すぐに剣を取り戻す。そのとき、正面に剣の腹が迫った。アニーはとっさに拾ったばかりの剣で受けたが、踏みしめないまま構えた剣は、相手の力を殺しきれない。武器を飛ばされることはなかったものの、アニーは大きくよろめいた。狙いすましたかのように、そのとき胸に衝撃がくる。胸当てがきしみ、その下の肉体が悲鳴を上げる。つまった胸は痛みを訴え、口から乾いた空気が漏れた。


 背から砂地に叩きつけられる。ひりひりと、背中が痛んだ。どこかしらすりむいたのだろう。アニーは体の警告を無視して転がった。彼女がいたところを鈍い刃が通りすぎる。立ち上がろうと顔を上げたアニーは、そこで凍りついた。


 両目が少女を見下ろしている。模擬試合などでは、よくあることだった。だというのに、アニーには今の視線が、先生のものだとは思えなかった。

 敵の目だ。自分を殺そうとしている人間の。無遠慮な視線は、似ても似つかぬはずなのに、黒い男を連想させた。


 打たれる。切られる。殺される。

 飛びかかれ。噛みつけ。殺せ。――殺される、前に。


 頭の奥で、なじみ深いなにかがささやくのをアニーは聞いていた。違う、とかぶりを振る。これは試験だ、殺しあいじゃない。そう訴えた。しかし、冷静な彼女とは別の、獣じみた一面は、その訴えに耳を貸さなかった。


 なにかが外れる。熱が吹き出し全身を満たす。剣をひっつかみ、幽霊のような足取りで立ち上がった彼女は、敵の様子をうかがう前に、文字どおり飛びかかった。



 誰もが青ざめた。試験官であるハリス先生も例外ではなかった。彼は、学院の教師のなかでは誰よりも、アニーの性質を知っている。彼女のそれが、やんちゃやわんぱくなどという言葉ではおさまらない、衝動であることも。だからこそ、小さな体から発される殺気におののきつつも、それを黙って受けとめた。教師たちのなかから、彼を制止する声があがっても、無視して剣を構える。

――彼女の試験は、終わっていない。


 殴り殺せ、斬り殺せ。さまざまな言葉が、頭の奥で飛び交った。ひやりとしたものを感じつつも、アニーはそのすべてを受けとめて剣を振るう。先ほどまでとは比べものにならない力でもってふるわれる剣は、空気を乱暴に食い散らかす。剣身が交わるたび、互いの剣が弾け飛びそうなほどの金属音が、演習場を打ちすえた。獣じみた声があがる。雄叫びと、剣戟が、かわるがわるとどろいた。肘に鈍い痛みが走っても、肩に衝撃がきても、アニーはまったくひるまず、目の前の男性に食らいついた。


 もはや、誰もが言葉を失っていた。試験官を止めようとしていた先生たちでさえ、息を殺して見守るのが、やっとだった。もちろん当人たちは、まわりの様子に気を配っているひまなど、なかった。


 アニーは打ちあいのなかで、何度も強い手ごたえを感じた。同じだけ、自分への痛みも感じた。それでも足を止めず、手をゆるめない。しかし、アニーがまた剣を振り上げたそのとき、腹に強い一撃が打ちこまれた。

 体は幼い少女のものだ。衝撃に耐えきれず、勢いよく突き飛ばされる。剣を手放した指の震えで、アニーはようやっと、自分をわずかに取り戻した。

 ハリス先生は、やはりにらんでいた。しかし、先ほどのまなざしと違って、今度の視線は鋭い熱を帯びていた。


 無言のうちに、挑発されている。どうした、来ないのか。食らいつかないのか。俺の喉笛をかき切ってみろ、と。それに気づいた少女の意識が、牙をむき出しにして威嚇する。だが、奥に眠った冷静な彼女は、首を振った。これは殺しあいではないと、言ったはずだ。もうやめろ。もう一人の自分を止めにかかる。

 二つの意識が頭のなかで絡みあう。目が回る。胸が苦しい。わけがわからない。

 すべてのものを投げだしたくなって、天をあおいだ。そのとき、視界の端に映ったのは――演習場の隅で、まっさおな顔を突きだす、見知った少年の姿だった。

 アニーは思わず息をのむ。声に出さず、名前を呼ぶ。その瞬間、全身がすっと冷えた。


 突然、この一年たらずの出来事が、走馬灯のように脳裏を駆け巡る。声が、よみがえる。

 もしも、どうしようもなくなったら――アニーはかつて、そんな不安を訴えたことがある。そのとき、彼女の話を聞いていた青年は、仏頂面を崩さないまま言ったのだ。名前を呼べ、と。

 そして、先生は笑って語ってくれた。大切な人のことを頭の隅に置いておけ、その人と一緒に戦えと。

 凶暴な自分を表に出すのが怖かったとき。少年は、ほほ笑んだ。みんなが、そばにいると。


 目を閉じて。呼吸の音を数えてゆく。これまで出会った人々の姿を思い出す。

 手足に感覚が戻ってくる。アニーは、ゆっくり立ち上がった。


 少女が改めて剣をとったとき、ハリス先生はいつものように、優しい微笑を浮かべていた。すぐに戦士のまなざしの裏へ隠れてしまったので、その笑みはもしかしたら、彼女の気のせいだったのかもしれない。けれど、それでもよかった。

 アニーは胸いっぱいに空気を取りこみ、全身をひきしめる。静かに広げた両足で、かたい地面を踏みしめる。風を感じた一瞬後。砂が舞い、剣が鳴っていた。


 一合、二合、三合――たえまなく打ちあって、また、強くぶつかりあう。交差して固まった剣は、ぎちぎちと震えた。ハリス先生が口の端を噛みしめて、それでも笑みの形をつくる。アニーも気づけば、ほほ笑んでいた。


 長い沈黙。鉄の剣と同じ、鋭い空気は心地よい。しかし、その交わりは、突然に終わりを告げた。相手の剣が前へ出ようとしていることに気づき、アニーもせいいっぱい対抗する。真正面から挑んでは決して勝てない、大人の男性の力を上へ流そうと試みる。剣身は高らかに鳴り、弾け飛ぶように離れた。あまりの衝撃にアニーは少しひるみ、それでも踏んばる。そのまま前へ出ようとした少女を喉もとを突く冷たい感触が、止めた。

 鋭さのない剣先が、細い首を貫く寸前で止まっている。アニーは自分の負けを悟って、全身から力を抜いた。

 試合の終わりが告げられる。審判の声は、心なしかうわずっていた。ハリス先生が剣をひっこめると、アニーもまた、武器を下げて、深く頭を下げる。


 すべてが終わったそのとき。凍りついていた演習場の空気が、一気に沸騰した。


 どこからともなく起きた歓声は重なって、熱狂の渦をつくりあげる。拍手が鳴って口笛が飛び交った。

 思いがけない観客の反応に、アニーは呆然としてあたりを見回す。生徒たちがなにかをまくし立てているようだったが、ひとつも聞きとれなかった。首をひねったアニーは、助けを求めて相手を見やる。しかし、ハリス先生は肩を震わせて笑っていた。助け舟を出してくれる、などとは期待できそうにない。

 顔をしかめる教え子へ、ハリス先生はたった一言を告げて、背中を向ける。アニーは、意味のわからないことがまた一つ増えてぼうっとしてしまったが、審判役の先輩に優しく呼ばれると、自分も慌てて同級生たちのもとへ走ったのだった。

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