2 クレマンの戦い

 ひらり、はらりと舞いおりる雪。小さな白が、灰色の空を彩る。家いえの屋根の鮮やかさと相まって、美しい色彩をつくりだす冬の空に、しばしば人々は足を止めて見入る。しかし、絶景は同時に、厳しい寒さも運んできた。体の芯まで冷えそうで、雪に見入っていた人々もすぐ、体を震わせて歩きだす。

 厚手の衣を揺らす人々の間を、少年が駆けていた。礼服に似たつくりの緑の上下は、近くの配達屋の制服だ。ただ、人目をひく大きな帽子は彼の私物である。

 肩からかかった鞄が、ぱんぱんにふくれて揺れている。そして、なぜか、足もとには猫がいて、従順な家来けらいのように、彼のあとを追っている。少年は猫を気にせず――正確には、いるのがあたりまえと思って――自分の仕事にはげんでいた。

「よう、ルゼ。ありがとなあ」

「いえいえー。ところで、今日は学生街の方が騒がしいね」

 小包を商店のあるじに届けた少年は、さりげなく相手に話を振る。三十代もなかばに差しかかった男性は、うっすらと顎に生えたひげをなぞった。

「今日は、あれだよ。ヴェローネル学院の進級試験の二日目だ」

 少年は、緑色の目を輝かせる。

「ああ、どうりで! いいなあ。戦士科の実技試験とか、毎年すごいんだろ」

「すごいらしいな。俺たちも見にいければいいんだけど」

「なあーっ」

 少年は、ぴょんぴょんと跳ねる。無邪気な配達屋のしぐさを、男性はほほ笑ましそうに見守っていた。



 学院でもっとも大きな演習場。敷地の北側の広い範囲を陣取っているそこには、それでも入りきらなさそうなほどの学徒たちが、すでに詰めかけていた。どこを見ても黒い制服の群である。自分のそばにまで迫る彼らの熱気にうんざりしながら、アニーは即席で壁にとりつけられた掲示板を、穴があくほど見つめていた。

 二日目の実技試験。戦士科六回生の試験は、先生と生徒による、剣をもちいた試合だ。その対戦の組み合わせを書きだした木版の前には、戦士科生がたむろしている。あちらこちらで歓声とも悲鳴ともつかぬ声が上がるなか、『暴れん坊』たる少女の名前を呼ぶ声がした。アニーが振り向くと、人の波を器用に泳いで、クレマン・ウォードがやってくる。

「今年もえげつない組み合わせだぜ」

 彼は楽しさ半分恐ろしさ半分、ひきつり笑いを浮かべている。

「この試験って、たいてい模擬練習で一緒になったことがない先生と当たるからねー」

 アニーは、目陰をさして呟いた。しかし、なぜかクレマンが、苦虫をかみつぶしたような表情になる。アニーが首をひねっていると、クレマンは木版の隅を指さした。

「それが、そうでもないみたいだ」

「は?」

「ほら、あそこ。おまえの名前」

 アニーは慌てて、少年の指を追う。木版の左上には確かに、彼女の名前があり――その横に書かれている先生の名を見るなり、彼女は碧眼を見開いた。

「え……なんで? なんで!?」

 アニーが試合でぶつかるのは、よく知っている相手だった。

 彼女の担任教師、ハリス先生である。



 この試合は、ほかの生徒も観戦できるようになっている。人の目にさらされた状態でも冷静に剣をとることが、戦士科生には求められているからだ。少年少女がかたずをのんで見守るなか、戦士科の学科長が、おごそかな口調で試験のはじまりを宣言する。演習場の隅で、体を温めたり振りをしていたりした生徒たちも、その声を受けて姿勢を正す。


 形式的な挨拶と説明が終わると、いきなり最初の生徒が呼ばれた。かちかちに固まった顔で演習場のまんなかへと踏み出していく少年を、アニーは、足をほぐしながら見送った。

 その生徒と、反対側から歩み出てきた先生は、演習場の中心に引かれた白線をはさんで向かいあう。お互い、丁寧に礼をすると、剣をとった。いつも授業で使っている木剣ではない。鉄の剣だ。刃はつぶされているし、互いに防具を身につけてもいるが、当たりどころが悪ければけがをする。

 審判役の十二回生が、試合の開始を告げた。ややして、金属のぶつかる音が響く。試合が始まると、演習場の外側は、緊張に静まりかえった。なんともない顔をして動いているのは、二回生以上の戦士科生だけだろう。アニーは思いきり屈伸をしつつ、試合の様子をうかがう。今のところ、生徒の方が少し押しているらしい。だが、それも、「今のところ」だ。これからどうなるかは、わからない。

 何度も金属音が響き、砂がこすれる。時間の感覚が曖昧になった頃、審判が試合の終わりを告げた。軍配は先生の方にあがる。アニーは、悔しそうに背を丸める生徒を見て、思わず目もとをゆがめてしまった。

――毎年、試験で先生相手に勝ちを収める生徒は意外にも、それなりの数いる。けれど、負ける生徒の方が多い。

 アニーを含む戦士科生は、これまでの経験上、試験の合否と勝敗はなんら関係がないと、知っている。それでも勝ちたいと思うのは自然なことだ。アニーも、できるならば、勝ちたいと思う。あのハリス先生相手に、勝ちをもぎ取れるかどうかは、さておいて。


 試合はそれからも、順調に続いた。ぎりぎり勝つ人、負ける人。いろんな生徒たちがいる。体をほぐし、動作を確かめながら試合を見ていたアニーは、一人の生徒が先生から一本取ったところで、眉をひそめた。

 彼の相手をしているのは、アニーの父と同じくらいの年齢の、男の先生だ。もともと士官学校で教官をしていて、今はヴェローネル学院に派遣されているのだと聞いたことがある。

 彼は、本気を出していない。

 先生が生徒を相手に多少手を抜くのは、あたりまえだった。戦士科には、貴族の子弟もたくさんいる。うっかり彼らに傷を負わせたとなれば、親や家の怒りを買いかねない。それを避けるために、先生たちも気をつかう。貴族ともめるのは誰だって嫌なのだ。その気持ちは、アニーにもなんとなくだが、わかる。わかるからこそ、先生たちの本気を引きだしてみたい。

 そう思うのは自分だけだろうか、と考えて、アニーは静かにほほ笑んだ。


 また、ひとつの試合が終わる。ぶつかり合った二人がそれぞれの場所に戻ると、審判が次の名前を呼んだ。瞬間、アニーは顔を上げる。知らず、前のめりになっていた。演習場のまんなかへ、進み出たのは、一人の少年。呼ばれた名前はクレマン・ウォード。彼の試験官は、剣術の実技指導をする先生。がたいがよく、いつも怖い顔をしているが、休み時間には生徒たちとふざけ合うことも多い。気さくなよい先生だ。


 形どおりの挨拶が行われる。その間に、アニーは観客たちの集まる場所を振り返っていた。

 エルフリーデは来ているだろうか。文化学科の試験が終わっていれば顔を出すはずだ。しかし、アニーは、ほかの学科の試験の時間を詳しく知らない。かなりの人だかりができていて、目で探すのも無理だ。きっといるはず、と期待するしかなかった。


 試合が始まる。二人とも、すぐには動かなかった。目で、お互いの動きを追い続ける。少しして、強い風が吹きつけた。瞬間、クレマンが地を蹴った。先生の方は、動かない。鉄がぶつかりあって、高い音を響かせた。

 その一瞬をきっかけに、戦いは始まった。すべての呪縛が解けたように。

 クレマンは、もともとの身軽さをいかして、繰り出される強い斬撃をかわしては、相手の懐に飛びこんでいこうとする。対する先生は、冷静に攻撃のひとつひとつをいなしては、重い一撃を叩きこんでゆく。

 アニーは試合に見入っていた。今までのどの試合よりも、真剣に見ていた。唇を噛み、両手を強くにぎりしめ、心の中で声援を送る。ほんの数か月前までは宿敵のようにさえ思っていた彼を応援している自分自身に、驚いた。

 クレマンも、真剣だった。アニーは一回生の試験のときから彼の試合を観戦していたが、今年の試合は、いつもとどこか雰囲気が違った。アニーはしばらく、少年の姿を追いかけながら、そう思う理由を探す。

 クレマンが先生の剣撃を受け流し、死角に回りこんだところで、ひらめいた。

――彼は、本当の戦いを知っている。人が相手ではなかったけれど、模擬戦ではなく、命を賭けて、戦った経験がある。だからこそ、本気で剣を振るうことができる。それはきっと、アニーも同じだ。

 少年は、雄叫びを上げて走った。大ぶりな攻撃を受けとめた先生は、そのあと、みずからも動きの大きな一撃を繰り出そうと、腕を振り上げた。そこへ、体勢を立て直したクレマンが、力いっぱい剣を叩きこむ。正面からぶつけられた力を受けとめ損ねた剣は、勢いよく跳ね飛ばされた。いわおのような顔がこわばる。ここぞ勝機とばかりに、少年は相手へ飛びこんだ。先生は、動かない。

――と、思った瞬間、その視線は弾き飛ばされた剣の方へ動いた。

 アニーはその意味に気づき、息をのむ。しかし、ただの観戦者である彼女には、どうすることもできない。クレマンが剣を振るったその瞬間、先生は大きく後ろに跳ぶ。空振りした少年がよろめいているわずかな間に、自分の剣を拾い上げ、その剣の腹を少年の首めがけて振った。

 刃が風を切って鳴る。鋭い刃は、彼の首を打つ前に、止まった。


 よろめき転んだクレマンは、なんとか受け身を取った。同時、試合の終わりが告げられる。勝者であるはずの先生は、自分の剣をひっこめると、困ったように苦笑した。どろどろになったクレマンに、何事かをささやいている。何を言われたのかは、少年の嬉しそうな顔を見れば、なんとなくわかった。

 試験を終えた少年が、同級生たちの方へと戻ってくる。そのとき少女は彼の名前を呼んだ。黒茶の瞳がこちらを向いたとき、拳を突きだして、にっと笑う。彼は、目を丸くしていたけれど、すぐに拳を返してくれた。


 試合は続く。緊張は、高まる。アニーはただ、自分の体ばかりを見つめ、伸ばし、慣らしていた。

 そして。とうとう、アニー・ロズヴェルトの名が、呼ばれた。

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