4 年の明け
ゆっくり視界が狭まって、おぼろげな暗闇が下りてくる。世界の流れはゆるやかになって、指の感覚さえもあいまいになってゆく。このまま、流れに身を任せればさぞかし楽だろう。ふわり、と開いた口から生温かい息が吐き出されて――
「おりゃっ」
ふざけているとしか思えぬ声とともに、紙束が頭に振りおろされた。アニーは頭を激しく揺らし、同時、目を開く。頭の中を食らいつくそうとしていた眠気は、ほんの少しだけ、飛んでいった。軽く目をこすった彼女は、隣で新聞を丸めたものをにぎりしめている少年に、顔を向ける。
「クレマンー。ありがとう」
ぼやけた声がお礼を言えば、クレマンは悪戯っぽく笑った。彼はそのまま体を反転させると、隅で舟を漕いでいるエルフリーデの肩を小突いた。本人は、よほど楽しみなのか、目を爛々と輝かせている。とても元気そうだ。頭をぐるりと回せば、彼女の幼馴染であるフェイも、
ヴェローネル学院の、女子寮と男子寮は近い。その間にある小さな庭に、吹きさらしになった長椅子がいくらか列をつくっている。四人がいるのは、その庭の一角だった。夜空を見上げているのは、
まわりには、似たような格好の学生の集団がひしめきあっている。
「眠いなら、寝ててもいいのに」
フェイが、男子寮の建物を振り返る。巨大な壁時計のそばで、火の入ったイグサの籠が、揺れている。
「フェイ、それは私たちに対する挑発だね」
「……なんで、そうなるの」
時間を確かめて、アニーの方を振り返ったフェイは、露骨に顔をしかめる。
「はやく、みたいなあ、花火」かろうじて目ざめたらしいエルフリーデが、そのかたわらで呟いていた。薄い膜の張った瞳は、茫洋と夜空を映しだしている。
朝のうちに雪がちらついたものの、今日はおおむね天気がよかった。おかげで手足が凍りそうな寒さであるわけだが、年越しを祝うにはもってこいの日よりでもある。アニーは、
「どうしたんだよ」
「え、ええと……」
クレマンが眉を寄せて尋ねる。エルフリーデは首をひねった。
「なんだか、今、変な魔力を感じた気がして」
魔術師の卵の言葉に、魔力を感じることのできない三人は、顔を見合わせる。
「何、それ。ロトの呪い?」
「え……と。たぶん、違う、と思う」
少女は、しおれた花のようにうなだれた。いつも以上に自信がなさそうだ。アニーは、ふくらむ疑問に低くうなる。だが、彼らの不確かな悩みは、あたりから響いたにぎやかな声に打ち消された。
「もうすぐだ!」
まわりの長椅子を陣取る生徒の半数近くが、時計の方を向いている。日付が変わるまでの時間は、すでに分を刻んでいた。四人も、先ほどまでとは別の緊張に息をのむ。フェイが、にぎりしめていた金属の筒を、構えた。
「ロトは今ごろ、マリオンさんとあいびきかなあ」
アニーがぽつりと呟くと、なぜかクレマンが、背中をどやしつけられたようにうずくまる。
「ん? なに、どうしたの」
「やめてくれ……俺がみじめになる……」
「大丈夫だよ。あの二人も、できそうで、できてないから」
「でも、できそうなんだろ……」
「な、なんの話?」
二人が小声で話していると、エルフリーデが困ったように彼らを見比べはじめた。わざとらしくそっぽを向くクレマンにほほ笑んで、アニーは夜空に視線を戻す。庭ではすでに、学生たちが声を揃えて、時を数えていた。
十五を切り、十を切って、数はひとつずつ減ってゆく。
気づけば、アニーたちも口に出していた。
「六、五、四……」
寮が、街が、にわかにざわつく。笑ったそよ風に、草の籠がこたえた。
「三、二、一――」
一年が終わり。
そして、一年が始まる。
節目の一瞬を高らかに知らせたのは、空に打ちあがった光の華だった。
※
扉を開けて、見慣れた部屋を目にすると、安心感とともに疲労が襲ってきた。ロトは、こっそりため息をついて、後ろ手に扉を閉める。すでにマリオンは家へと上がり、紙袋のなかを整理しはじめている。ご満悦のようだ。今にも鼻歌が聞こえてきそうだと思いつつ、彼も紙袋のひとつに手をのばした。
外ではまだ、人々の声と楽の音色が混ざりあって響いている。ふだんであれば、夜は闇の時間であり、沈黙の時間である。けれど、今日は祭日、祝いの日だ。人々は夜にも明かりを灯し、陽気に騒ぐ。その気持ちは、ロトとしても、わからないではない。ただ、風習への理解と体の疲れは別物だ。
「おまえ、意外とこういうの好きだよな」
ロトは椅子にもたれかかり、大きく伸びをする。向かいの幼馴染をにらんでやると、彼女はご機嫌な笑顔のままに手を止めた。
「好き、というか。物珍しさについはしゃいじゃった。田舎でほそぼそ祝うのもいいけど、都市のにぎやかなお祭りもおもしろいわよね」
「ああ……ま、そうかもな」
ロトは、やや投げやりに返事をした。毎年見ていると、ただ疲れるだけだ――という、自分の本音は胸にしまっておく。
ややして、本当に鼻歌を歌い出したマリオンをながめた。細い指は、中身を取り出されて痩せた紙袋をていねいに畳む。いつもはきはきとしている彼女が、ロトの前でここまで楽しそうにすることは珍しい。わざわざヴェローネルに誘った甲斐はあっただろう。思いながら、青年は弾みをつけて、上半身を起こす。そのまま立ち上がると、お茶を淹れるべく台所に向かった。
屋台と芸でにぎわう大通りと庶民街。二人はそこで夕食を済ませて、いくらかのお菓子を買ってきた。家へ帰ってからゆっくり食べよう、というマリオンの提案は、喧騒を嫌うロトを気遣ってのものであったことは、間違いない。
ほのかに白い湯気と、お茶の香りがふんわりと立ちのぼる。ようやく人心地ついた二人は、球の焼き菓子に手をのばしながら、たわいもない話に花を咲かせた。近況報告に、ちょっとした悩みの相談、他人から伝え聞いた笑い話に、新年にまつわる噂まで。グランドル王国に二人が落ちついてから六年が過ぎたが、今なお、新鮮なことは多い。
「花火って、おもしろいよね」
ぽつりと、マリオンがそんなことを言った。ロトは、頬杖をついた。新年まで四半刻を切った街の夜空をながめる。
「まあ、確かに。火薬っておもに兵器だからな。あれを見世物に変えようという発想はすごい」
「見世物って……せめて芸術品と言ってあげなさい」
「似たようなもんだろ」
飾り気どころか気遣いもない幼馴染の物言いに、マリオンはくすくす笑って、焼き菓子に手をつけた。ロトは、ふと手のなかのものを弄び、開く。それは愛用の懐中時計であり、金色の針は間もなく円のてっぺんをさそうとしていた。
時計の音が、静寂の中に響き――最後の一秒は、やたら大きく聞こえた。同時、窓の外が光る。遅れて、腹の底に響く音がした。
「あ、始まった!」
マリオンが、すばやく立ち上がって
天を彩る華の音は、鳴り止まない。ロトもゆったりとした足取りで窓辺に寄ると、遠くに見える花火をながめた。轟音の合間を縫って、人々の歓声が路地まで届く。
「にぎやかねえ。村の宴会とは、また違ったにぎやかさ」
窓の枠に頬杖をつき、マリオンが呟く。青年は、彼女の黒髪を意味もなく撫ぜた。
「正直、うるさすぎて俺は嫌いだな」
「言うと思った」
「でも、まあ。おまえと一緒なら、悪くない」
赤い光が、大輪の花を咲かせる。その後、小さな花火が連続し、闇夜を虹色に染め上げる。
ふっと振り返った女性は少女のように笑い、青年の細い手をとった。
「来年は、こっちに来る?」
光を映した深海色の瞳は、驚きに丸くなり、すぐ、笑みの形にゆがんだ。
「――考えておく」
王国の、二百四十一年は、こうして始まった。
血の赤も、残酷に過ぎる真実も、二人の間には、まだ、なかった。
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