2 年の瀬のこと
門前でアニーはからかわれたが、彼女の言った「勉強のため」というのは真実だ。太陽を雲がさえぎる冬空の下、少年少女は文字どおり、勉強のためにある場所へ向かう。
『学びの
ややして、扉が小さな悲鳴を上げた。生まれた隙間からは、すっかり慣れ親しんだぬくもりと、お茶の香りが漂ってくる。そしていつもどおりに顔を出す、黒髪と鋭い目が際立つ青年。
「いらっしゃい」
「こんにちは! よろしくお願いします!」
投げやりに出迎えの言葉を放った青年へ、エルフリーデが頭を下げる。彼は一瞬、目を伏せたあと、「まあ入れ」と四人を招いた。
この青年、ロトは、扉の看板にあるとおり『便利屋』をしている。探し物から行事の準備、時には武器を持ち出すようなことまで幅広く請け負っているらしい。しかし、アニーたちがロトの仕事に触れる機会は案外と少ない。だから、ロト自身になにかおかしなところがあったとして、それが仕事のせいなのか違うのか、わかりかねるところがある。
「ねえ、ロト。どうしたの?」
わからないなら訊くしかない。アニーは、直接背中に声をかけた。
「どうしたって、そっちがどうした」
「だって、なんか顔色悪いよ。元気ないし」
少女が口をとがらせれば、青年は眉をひそめる。図星を突いたようだった。けれども、ロトはすぐには答えず、台所へとひっこんでしまう。奇妙な沈黙の中、子どもたちはそれぞれ四角い机を囲む椅子に腰かけて、持ってきた勉強道具を広げていた。
「なんか……兄ちゃん、静かだな」
クレマンが、四人にだけ聞こえる声で呟いた。エルフリーデが「確かに」とうなずいて、不安に曇った瞳でアニーを見上げる。
「アニーはすぐ気づいたんだね」
「んー、まあねー。いつもだったら、『試験勉強どうなんだ』って訊いてくるか、からかってくるか、するからさ。どっちもないのはすごい不自然。気持ち悪い」
「気持ち悪い、まで言わなくてもいいと思うけど……」
後頭部を支えるように指を組んだアニーは、ぴしゃりと言う。フェイが呆れた目を向けても、お構いなしだった。そんな彼女の頭に、かたいものが当たる。
「あ、ロト」
「聞こえてんだよ、馬鹿」
かたい感触は、カップの底だった。それを自分の前へ置いたロトに、アニーはお礼を言ってから、べっと舌を出した。ロトは問題児の態度を
「夢見が悪かったんだ」
低い声は、昨日の夕飯の献立を告げるかのようにあっさりと、言った。それがアニーの質問への答えだと気づいた四人は、『便利屋』の青年を見つめる。頬杖をついた彼の瞳は
「夢見が……怖い夢を見た、ってことか?」
「ロトがそんなに
「アニー、あとで覚えてろ」
すなおに首をかしげるクレマンとは違い、アニーの反応はとげとげしい。ロトは彼女に鋭い一瞥をくれたが、今はそれ以上の反応をしている余裕もないのか、すぐに重いため息をついた。
「ガキの頃からたまにあるんだ。変な夢を見て、寝起きに体調が悪くなる。それも、いつもだいたい同じ夢」
「え、それってどんな……」言いかけたフェイが、口をつぐんだ。どんな夢かと訊こうとしたのだろう。深海色の瞳は少年の迷いを見すかしたのだろうが、そこに感情の揺らぎはなく、相変わらず濁ったままだった。
「――黒いものに、食われる夢」
告げられた内容は曖昧で、少なくともアニーには、何がなんだかわからなかった。けれど、なぜか、背筋が寒くなるような恐ろしさが、突き上げてきた。
息をのむ子どもたちをよそに、ロトは自分の腕を――そこにかかっている、銀色の腕輪を見つめる。
「呪いと関係があるんじゃないかと思う。俺の心の問題か、呪いじたいの問題かは、さておいて、な」
『漆黒の魔女』と呼ばれる恐ろしい魔術師にかけられた呪い。その存在は、四人とも知っている。だが、まのあたりにしたのはそのうちの三人だ。クレマンはまだ呪いのことをはっきり知らないせいか、ますますわからない、というふうに顔をしかめていた。
「ここ数年はほとんど夢を見なかったんだけどな……。変なこともあるもんだ」
「えっ、と。でも、それじゃあ具合が悪いってことですよね。だったら、無理して勉強を見てもらわなくてもいいですよ」
フェイがおろおろと、机とロトの間で視線をさまよわせる。アニーたち三人も、顔を見合わせた。しかし『便利屋』の主は子どもたちの心配を一蹴する。
「いや。このまま始める。約束だからな」
「でも」
アニーは言い募ろうとした。しかし、ロトは、かぶりを振る。
「気分転換にはちょうどいいんだよ」
静かな声が、あらゆる反論を封じた。その後、彼が口もとに浮かべたかすかな笑みは、間違いなく、心からのものだった。
「おいこら問題児。へばるな。もうすぐ試験だろ、大丈夫か、そんなんで」
「ううううるさいなー。これでも、模擬試験の点数上がってるんだからなー」
しばらく後には、心配する側とされる側が逆転していた。ペンの尻で頭をつついてくるロトに、アニーは突っ伏したまま反論する。青年は疑わしげな目でフェイを見た。が、幼馴染の変化を一番近くで見ている少年は、やわらかくほほ笑んだ。ロトは、そこでようやく、感心したようにうなずく。
ちなみに、模擬試験といっているが、それは学院で行われているものではない。生徒たちが、先輩から過去の問題の写しを借りて、自主的に行うものだ。採点は当時の基準で行うので、歴史や文化にまつわる問題では、実際の試験とのずれが生じるのだという。
閑話休題。
「まあでも、実際、だいぶましにはなったな」
アニーが伏したまま動かないのをよいことに、ロトはペンで彼女の頭をつつき続ける。アニーもしばらくは黙ってそれを受け取っていたが、次の言葉には反応せざるを得なかった。
「これなら、年越しのときくらいは、羽伸ばしても大丈夫だろ」
「――本当!?」
アニーは、がばっと頭を上げた。ロトが目を丸くしてのけぞり、エルフリーデとクレマンがペンを手にしたまま凍りつく。唯一、幼馴染のフェイだけが、冷静に苦笑していた。
「やった!」
「でもアニー、それは年越しの日以外に勉強をがんばる前提だからね」
両腕を突きあげて喜ぶアニーに、フェイがすかさず水をさす。当の本人は、彼の言葉を半分以上聞いていなかったが、おかげで先ほどまでよりも元気になった。
すっかりいつもの空気に戻った幼馴染たちを、クレマン・ウォードが退屈そうに見やる。
「そっか。もうすぐ年越しだなあ。今までちゃんと考えたこと、なかったや」
「わたしは、去年、家族みんなでお祝いしたよ」
当時を思い出してか、エルフリーデが紅色の唇をほころばせる。その横顔を見て、少年はまぶしそうに目を細めた。
「学生は、この時期、試験前だから、それどころじゃないだろ」
さりげなく降りかかった声に、二人は目を瞬く。先ほどまでアニーをあしらっていたはずのロトが、彼らの方を向いていた。
「そだなー。みんな、この時期はすげえぴりぴりしてるもん」
「でも、お祝いは寮でやるみたいですよ」
「そうか。まあ、たまには羽目を外さねえとな」
「兄ちゃんは、羽目外すのか?」
クレマンが、口の端をにやりと持ちあげる。しかし、少年のからかいを真正面から受けたロトの方は、気だるそうに手を振った。
「いーや。俺は仕事。仕事も仕事。年の瀬はこまごました依頼が多いんだ」
「た、大変ですね……」
何を想像したのか、エルフリーデが頬をひくつかせる。ロトは静かにうなずいた。
「まあな。おまえらが来る前にも、庶民街の家の掃除を手伝った」
そんなこともするのかと、四人の子どもたちは目を丸くする。ロトは平然として、ああいう仕事は実入りがいい、とうそぶいた。アニーは、はあっと息を吐く。やはり、便利屋については知らないことが多いと、実感した。
きらきらと瞳を輝かせる四人を前にして、青年は嫌そうに顔をしかめた。しかし、彼はすぐにしかめっ面をやめる。
「でも、年越しの夜はマリオンと一緒に茶でもしよう、って話になってる。去年までは、それぞれの町で祝ってたんだけど。あいつが、たまにはヴェローネルで新年を迎えてみたいっていうから、じゃあ来るか、って誘った。でも、そんなにおもしろいもんでもないよな」
無愛想な青年の口から、彼の幼馴染の名前が出たことで、四人の興味はそちらに移る。アニーは、ふだんは氷のように冷たい彼の口調が、少しだけやわらいだことに気づいてほほ笑んだが、ロト本人は気づいていない。ただ、にやにやしながら相槌を打ったので、彼にうさんくさそうな目で見られた。
「……と。休憩はここまでにして、次行くぞ」
「は、はーい」
「がんばれアニー!」
「クレマンくんも!」
青年一人と少年少女は、再び机にかじりつく。
――ヴェローネルで新年を迎えてみたい、ではなく、ロトと新年を迎えたい、の間違いではないか。
子どもたちが思い浮かべた言葉は、けれど、誰にも口にされることはなかった。
※
勉強会は、寮の門限の半刻前まで続く。陽の沈みかけた空の下、少年少女は、ゆったりとした足取りで通りを歩いた。冬は暗くなるのが早い。その上、肌を裂くような冷たい風が吹いてくる。おかげで、人通りはまばらだ。
「アニー、そのまま寝ないでよ」
フェイが、アニーの肩を揺さぶった。さんざん脳をしぼった彼女は、がっくりとうなだれている。呼びかけられても、うめき声のような返事しかしない。文字と学問に向きあうことが、そもそも苦手なのだった。まったくもう、と、フェイは唇をとがらせる。けれども、
大通りから学びの路へ通ずるところにさしかかり、アニーはようやく、のろのろと顔を上げる。そのとき、視界の端を
「……え?」
思わず振り向く。つい先ほど見たものを探したが、それはどこにもいなかった。人の波にまぎれて、見えなくなっていた。
「アニー、どうしたの?」
心配そうなエルフリーデの声が、はるか前方から聞こえてくる。視線を戻したアニーは、三人の姿が小さくなっているのを確かめるや、慌てて石畳を蹴った。
「なんでもなーい!」
「ばあか、早くしろよ。置いてくぞ!」
「ごめん、ごめん!」
沈みゆく赤色に、金の三つ編みが揺られて踊る。
少女は、走りながら、瞼に焼き付いた映像を忘れようとする。
けれど、不吉な残像は――黒髪と、黒色の貴族風の上着、その金の装飾は――いつまでも彼女の内から消えなかった。
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