第一章 終わり、はじまる

1 音のない予兆

 色が、漂っている。

 闇の中に、水で溶いた鮮やかな絵具をぶちまけたように。極彩色ごくさいしきが、漂っている。彼は、そのただなかに、浮いていた。恐怖も不安もなにもなく。薄く目を開けた彼は、その実とても落ちついていた。

 また、この夢か。心の奥でため息をつく。

 しかし、冷静な己に反して、夢の中の彼はか細く震えていた。怖いのではない。ただ、あの日の恐れが、勝手に再現されているだけ。

 黒が落ちた。極彩色の中に、ぽたりと墨がたらされるように。

 黒はあっという間に、広がり、盛りあがり――形を、なす。

 形を得た黒は、女の人のような姿だ。目や口は見えないが、体のかたちは人のそれだ。女人をまとった黒は、ゆっくりと、漂う彼に手をのばす。そうっと頬に触れ、顔を近づけ――彼を食らった。

 痛みが弾ける。体が弓なりになって、びくんと跳ねた。首に巻き付いた黒は、次に両腕を広げて体全体を包みこむ。細い悲鳴が、高い絶叫に変わり、けれどもそれを聞いてくれる者など、ここにはいない。

「や、め……やめて、やめてくれ!」

 幼い少年は、狂ったように泣き叫ぶ。遠い、いつかの日のように。

『怖いか?』

 不安定な声が嗤う。ひび割れて、しわがれて。まるで老婆だ。だが、それの本質は老婆よりも恐ろしい。

「こわい……こわいよ……」

 女がわらう。黒が、這いあがる。それはぶくりと盛りあがり、彼の口へと飛び込んだ。くぐもった悲鳴も、荒い吐息もすべて無視して、中へ入りこんでくる。それは冷たく、暴力的で、けれど静かだ。まるで、呪いそのものだ。

『そうか。怖いか。それは、いい』

 けたけたと、笑い声がした。耳障りでうっとうしくて。ひどい寒気が走る。しかしもう、わずかな声を上げることさえもできなくなっていた。体の大半は食らわれ、顔の下半分に黒がへばりついているからだ。喉を鳴らしながらただ涙を流す少年に、黒が顔のないつらを近づける。

『そのまま恐れているといいさ。びくびく震えておびえる様を、見にいってやるから。ああ、楽しみだ』

 哄笑こうしょうが響く。そして黒は、彼のすべてを包みこんだ。



 叫び声が夜を揺らす。殺風景な寝室の奥で、家主やぬしの青年は飛び起きた。わずかな明かりもない闇の中、うずくまって喉に指をかけながら、荒い呼吸を繰り返す。いつもの彼を知る人が、そのさまを見たならば、信じられずに呆然としてしまうだろう。それほどひどく、取り乱していた。

 ひきつれたような呼気の音。敷布も掛布も乱れて強く波打った。苦しみ咳きこみ、こみあげたものをひたすらに吐きだして、彼はようやく落ちついた。落ちついたというのも、狂乱がおさまっただけの話である。息遣いはまだ不安定で、長身痩躯そうくはぐったりと寝台に横たわる。短い髪が、布の上に散らばった。

 空気を求めてあえぎながらも、ロトはごろりとあおむけになる。まっくらな中に、天井の凹凸おうとつが少しだけ浮き彫りになっていた。にじんだ汗を手の甲でぬぐう。わずかな慰めにすら、ならなかった。

 このようなことは、ヴェローネル移住前までは珍しくなかった。『漆黒の魔女』の呪いを受けて以降、繰り返し見る悪夢だ。何度も同じ夢を見すぎて、起きても内容を覚えているほどである。そしてそのたび、寝起きに体が異常を訴える。あるときは頭痛であり、あるときは嘔吐であり、あるときは呼吸困難。今夜のように、そのすべてが襲ってくることも多かった。

 魔女が狙った作用なのか、副作用なのかはわからない。そもそも呪いだけが原因かどうかもさだかではない。ただ、無関係ではないだろうというのが、同郷の薬師と王都の軍医、二人の医者の見立てだった。

 息を吸う。喉がひりつき、肺へ通じる管も痛みを訴えた。体が強烈な熱と寒さに震えて、お腹の奥からなにかが逆流してくる。ロトは闇の中、不安と違和感に眉をひそめた。

 故郷を離れ、異郷いきょうの人々と関わっていくにつれ、悪夢を見る回数は減った。見たとしても、そのあとの症状も少しずつやわらいでいっていた。それなのに、なぜ今になってこれほど強烈なものに襲われるのか。青年には理解できなかった。

 目を閉じる。耳の奥から、ひび割れてしわがれた哄笑が聞こえてくる気がした。指がわななき、敷布をつかむ。

「とうさん、かあさん……マリオン」

 無意識のうちに、ささやいていた。

「たす、けて」

――救いを求める声は、決して誰にも届かない。



     ※



 木の剣は、ぶつかるたびに乾いた音を弾けさせる。刃のはざまで、火花の代わりに散るのは、粉々の木片だ。激しくこすれた木剣ぼっけんは、互いを牽制しあった後に、勢いよく離れた。

 剣の使い手はどちらも動かない。凍てつく風が通り抜けて、戯れに、彼らのまとう麻布をめくり上げてゆく。厳しい冬の空気をまとう四角い砂場に、春の日だまりを思わせる声が落ちたのは、二人が動きを止めてしばらくしてからだった。

「あれ? アニーとクレマンくん、こんなところで何してるの?」

 友の声に吸い寄せられて、アニー・ロズヴェルトは顔を上げた。ゆるみかかった金の三つ編みが不格好に揺れる。泥と汗にまみれる中で、大きな一対の碧眼へきがんだけが、無邪気に光り輝いた。

「やっほうエルフィー! これはね、実技試験の練習よ!」

「実技試験……」

 砂場――学院の中にある、小規模の演習場――の外から声をかけてきたエルフリーデ・スベンはうなずくような首を振るような、曖昧なしぐさをした。そんな彼女に、アニーの対面で汗をぬぐった少年が答える。

「俺ら戦士科の進級試験は、筆記と実技の二本立てだからな。で、実技は先生たちとの模擬試合」

「先生たちと!?」

「おう。だから、今からでも打ちあいの練習しとこうって話になってな。はぐれ者どうしやってたわけ」

 エルフリーデは、感じいったようにうなずいた。軍人をはじめとする戦闘職を輩出する学科だけあって、ヴェローネル学院『戦士科』の教師は元軍人、元傭兵などといった人々が大半を占めている。進級試験が、生徒どうしの模擬戦とは比べものにならないほど厳しいのは確かだ。だからこそ、アニーも、彼、クレマン・ウォードも珍しく、自主的に互いを相手に木剣を振っていた。

「大変なんだなあ」

「文化学科の論文ほどじゃないと思うけど」

 優しい顔をしかめる少女を見、アニーは木剣で肩を叩きながらぼやく。彼女の姿を見たクレマンが、「じじくせえぞ」とささやいた。アニーはそのまま木剣をひらめかせて彼の腹あたりを狙って振ったが、クレマンは寸前で半歩下がって刃を避ける。

「いきなりなんだよ!」

「お仕置き」

「なんの!?」

「自分の胸に聞いてみろ」

 不服そうな顔のクレマンに対し、アニーはふんすと鼻を鳴らす。そのままエルフリーデを振り返った。

「それで、エルフィーはどうしたの? 演習場に一人で来るなんて珍しいね」

 エルフリーデは目を白黒させていたが、呼びかけると、我に返ったようだった。

「あ、うん。あのね、フェイが、今日の課題提出したら、ロトさんのところに行こうって。そろそろ、門のあたりで待ってるんじゃないかしら」

 アニーとクレマンは、顔を見合せる。それぞれに木剣をだらりとさげてから、エルフリーデに向かって、了解、と敬礼をした。

 慌てて倉庫に走って木剣を片づけると、西館に駆け戻り、泥を拭いて服を替える。アニーなどは、髪の毛を編みながら二人に合流した。

「それ、歩きながらやるの難しくない?」

「ん? 慣れた」

 おそるおそる尋ねてくる友人に、アニーはさっぱりとした声で答えた。エルフリーデはまだなにか言いたそうだったが、彼女が吐き出しかけた音は、女子生徒たちのかしましい笑い声にかき消される。

 放課から一刻は経っているのだが、門前は学生でごった返していた。学生寮の方へと流れる人の波に逆らって、四人は市街の方へ足を向ける。アニーのすぐ横を通りすぎた、六回生の男子がもともと丸い目をさらに丸くした。

「えっ、おまえら、また街に出んのか! 試験前なのに余裕だなあ」

「勘違いしないでよ。勉強のためだからね」

 アニーは、できあがった金の三つ編みを弾き、顔を突きだして主張する。すると、男子生徒の喉が軽く鳴った。「アニーの口から勉強って言葉が出るとは!」と、大げさに腕を振りまわして驚いてくれる。そんな彼を振り返り、うっとうしそうにする人もいたが、大半の生徒が悪乗りして、アニーをはやし立てた。

 少女の眉間のしわが、二本増える。

「こっ……こいつら……!」

「あきらめろ。日ごろの行いのせいだ」

「あんたに言われたくないわ」

 アニーは、かぶりを振るクレマンを、すかさずにらみつける。けれど、その横で短い茶髪の少年がため息をついた。

「でも、正論だよね」

「フェイまで!」

 一番の味方を失った問題児は、騒ぎのまんなかで、ひとり頬をふくらませる。なんとなしに見上げた空は、ぞくりとする灰色だが、まわりを囲む人々のおかげで、寒い風は吹いてこない。

 グランドル暦二百四十年、十二月。一年の終わりと、彼らの今後を決める試験の日が刻一刻と迫る、冬のある日のことである。

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