Ⅵ 無色の魔女

序章

黒羽の鴉

 ちりちり、じじ、じりじりじり。蝋燭ろうそくが、静かで耳ざわりな音を奏でる。闇を照らす小さな炎は時に揺らいで、乳色を濁らせたかのような蝋の筋は、銀の受け皿へ、黙って落ちてゆく。

 どこまでもうつろで、だからこそ美しい静寂。その支配者である黒衣の者は、狭苦しい部屋のまんなかで、病人かなにかのようにうずくまっていた。全身を覆う黒い布の隙間から、わずかにのぞく口もとが、途切れることなく言葉をつむぐ。見る者が見れば飛び上がって逃げだしそうな有様だ。けれどもここには、逃げだすような人すら来ない。いつからか、来なくなった。

 彼女しか操れぬじゅは、細々と宙を滑る。かたい石の刃は、もろい床に図と式を刻みつづけた。

 いつまでも、途切れることがないかと思われた、その時間。けれどもそれは、唐突に終わりを告げる。手が止まり、言葉がやんで、最後には静けさすらも崩された。

 ばさっ、ばさばさ。場違いなほどに大きな羽の音。けれども彼女は、嫌がることなく顔を上げると、かすかな歓喜を唇に刻み、窓枠に指をかけた。視線を受けた黒い鳥は、恐れることなくひとたび鳴いた。彼女はそちらへ、顔を突きだす。

 重くたれこめた雲の隙間から、わずかな光がさしこんだ。そのときやっと、彼女のおもては闇の外へと浮かびあがる。

 彼女は、老いていた。しかし老いても、死ぬことはない。

 それゆえなのかはわからないが、彼女はともかくみにくいとされた。百人が見れば百人ともが醜女しこめと罵るであろう顔だった。若い頃からそうであったのだ、老婆になった今だから、ましになるということは、あり得ない。

 老婆はとびきり醜い顔に、とびきり無邪気な笑みを浮かべた。しわだらけの細い指を、艶やかな黒羽にのばす。老婆の指になでられた鳥は、一瞬びくりと震えたあと、気持ちよさげに目を閉じて、鳴きもせずにこうべを垂れた。

「いいこだ」

 老婆は笑った。かすれた声は、おもちゃを見つけた子どものように弾んでもいた。

「さてさて、どうしたものか。おまえと私はずいぶんと、相性がよいようだ」

 暗がりに沈んだ部屋を振り返り、それから老婆はもう一度、自分が支配した鳥を見やる。

「そうだ。せっかくだからおまえには、南を偵察してもらおう。おっと、もちろんひとりじゃない。私にも南の景色を見せとくれ。首尾よく事が運んでいれば、生きに獲物が食いついている頃だろう」

 歌うように呟いて。老婆は、羽をぴんっと弾く。その瞬間、黒い鳥は目が覚めたように背筋を伸ばし、また最初のように鋭く鳴いた。もう一度、鳴いたあと、羽を震わせ空を舞う。

 曇天の先へ遠ざかる、鳥の影を見送って、老婆はひとり、ほほ笑んだ。

「さてさて、どうなっていることか。私がすこぉし目を離した隙に、えさがくたばってなきゃいいけどねえ」

 笑い含みのしゃがれ声は、少しだけ茶色い枝を揺らしたきり、空へ届かず地に落ちる。それでも老婆はけたけたと、笑い声をあげつづけた。


 その日、北の空を一羽のからすが飛んでいた。

 鴉がいったいどこへ行くのか。それは鴉自身さえ、おそらくわかっていなかった。

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