4 言葉と証
立ち尽くしていても始まらない。一行は、アニーのいた岩窟に戻ることにした。待っている二人、特にフェイが驚くといけないので、男四人には、ひとまず外で魔物が来ないかみはってもらうことにする。アニーを先頭に、三人は岩窟をのぞきこんだ。
外の光がわずかしか入らない岩窟は、暗い。明るいところから入りこんだせいで、よけいに暗く感じた。アニーはしばらくしかめっ面で、薄い闇に目を慣らす。そして、奥の家紋がぼんやり見えるようになった頃。小さい叫び声が、後ろから聞こえた。
「わ、す、すごい!」
「家紋ってこういうことかよ。露骨に所有物です、って主張してんじゃねえか」
予想通りの二人の反応に、アニーはひとりほくそ笑む。足取り軽く岩窟に踏みこむと、ぽかんとしている彼らを振り返った。
「どうどう? 驚いたでしょ」
「あーあー。悔しいけど、驚いたよ畜生」
ロトとエルフリーデも、段差を越えて中に入ってきた。靴音と話し声は、岩の天井から跳ね返って、反響する。ロトが壁を見上げた。すると、見計らったかのように、別の足音が響く。間もなく、アニーに小さな人影が飛びついてきた。
「アニー! 何があったの!?」
「ぐえっ」
うめいたアニーをよそに、両方の肩をつかんできた小さな手は、幼馴染のものだ。茶色い瞳を間近にとらえ、アニーはへにゃりと、不器用に笑った。
「はは……話せば長いことながらー……」
「なんだそりゃ」
フェイの背中の、さらにむこうから、呆れたふうな声が響く。クレマンだろうと見なくてもわかったアニーは、ひとまずそれを受け流して、たどたどしく事情を話した。少年二人は話を聞き終えると、「なあんだ」といわんばかりの笑みを交わす。暗がりから姿を現したクレマンが、「心配なんていらねえだろ、この『暴れん坊』なら」と、フェイの背中をばしばし叩きながら言った。
「――それで、その人たちはどうしてるの?」
苦笑まじりのフェイの質問。アニーは、喉元までせり上がっていた反論をのみこむと、うなずいた。
「今は、外で見張り番してるよ。ロトに言われて」
少年は、ちらりと岩窟の入口に目を向ける。あの四人に興味がわいたらしい。これなら会っても驚かないだろうと、アニーは胸をなでおろした。すばやく気持ちを切り替える。
「じゃ、気を取り直して調べようよ」
「――あー。アニー」
明るく弾んだ声は、歯切れの悪い呼びかけにかき消される。きょとんと首をひねったアニーは、きまり悪そうに短い髪をかくクレマンを見やった。視線が合うと、すぐにそらされる。
「その必要、なくなったぜ」
彼の言葉が、すぐには理解できなかった。けれども、それが何を意味するのかに気がつくと、アニーは、ロトやエルフリーデに、みはった碧眼を向けたのである。
岩窟の中を調べる間もなく、フェイに案内されてもうひとつの入口から外をうかがう。薄い雲がかかっているため、太陽の光はぼやけていた。外へ踏み出したあと、彼の案内で、おそるおそる奥の石垣に近づく。
「ここ、見てよ。何か彫られてるでしょ」
黒い線と点が走る石垣を、フェイは手で示した。「ぼくには読めないけど、文字みたいだ」とはにかむフェイを一瞥し、アニーはこくりと首を縦に振った。ざっとそれに目を通してみたが、アニーにも文字だということしかわからなかった。子どもたちは、自然と、唯一のシェルバ人に道を譲る。彼は、石の前でしゃがみこむなり、食い入るようなまなざしで、文字を追った。
「これ、現代シェルバ語だぞ。しかも、遺跡のほかの方陣や家紋よりはっきりしてる」
「ということは、最近彫られたものですか?」
エルフリーデが、ロトの隣でかがむ。「まあ、数十年経ってそうだけどな」と少女の問いに答えを返しながら、ロトは目を走らせる。
誰もが黙ったまま、青年の言葉を待った。静かに文字を追う指は、途中何度か止まりながらも、刻まれた文字の下段まで滑って、止まる。ロトは長く息を吐き、一度目を閉じてから子どもたちを振り返った。
「『遠きあの日の誓いを忘れぬため、人の生きる地にたどり着いたことを証明するため、ここに我々の名を刻む。
紡ぎ出された文言は、歌のように鮮やかだ。アニーたちが呆けて聞きいっていると、ロトは悪戯っぽく唇をゆがめる。青い瞳にわずかによぎった感傷は、彼女らが気づく前に、消えた。
「――そういう前置きのあとに、十人程度の名前が刻まれている。俺の推測だが、俺たちよりも先にエウレリア大陸にやってきた連中が、記念に彫ったものじゃないのかね」
エルフリーデが目を瞬いた。
「名前、ですか。あの……一応、読んでもらってもいいですか?」
「全部覚えるのか?」
「書きます」
言いきった少女は自分の手荷物をあさると、鉄筆と小さなインク瓶、そして羊皮紙のきれはしを地面に広げた。筆先をインクにひたした彼女に呆れ顔をしつつも、青年は石垣に向き直る。エルフリーデが「お願いします」と声をかけると、心地のよい低音が名前を読み上げはじめた。声が途切れるたびに、エルフリーデは書きつけをとっていく。ともすれば、永遠に続くのではないかとも思えたそのやり取りは、けれど思いのほか早く終わった。
「エクィス、ヤラーナ」
ロトがふたつの名前を口にした瞬間、エルフリーデの手が止まったのだ。
「エルフィー?」
唖然として固まる友人に、アニーは思わず呼びかける。ロトもそれで異常に気がついた。振り向いて、「どうした」と問いかけてくる。エルフリーデは紙に視線を落とし、鉄筆をにぎりしめたまま、震えていた。
「おじいちゃん、おばあちゃん……」
「え?」
「わたしの、祖父母の、名前です。エクィスはおじいちゃん、ヤラーナはおばあちゃん……」
アニーはぽかんとしてしまった。ロトですら戸惑った様子で、石垣と少女を交互に見る。
「で、でもよ! 名前が同じってだけかも! ほら、家の名前がねえし」
おろおろとあたりを見回しながらの言葉に、エルフリーデとロトは、同時にかぶりを振った。
「むこうの大陸から来たシェルバ人なら、
「うん。おじいちゃんとおばあちゃんも、お父さんが生まれてからスベン姓を名乗りはじめた、って言っていたわ」
「は? じゃあ、どうやって同じ名前の人を区別すんだ?」
一瞬、言葉を失った少年が、勢いを取り戻す。ロトがまた、石垣に向き直った。
「たとえば、村の名前だな。『サフォレ村のエクィス』――と、こんなふうに。あとは、『丘の上の』とか『北の漁師の』とか、そういう言葉を頭にくっつけることもある」
「サフォレ村! 昔のお話に出てきた!」
広くヴァイシェル大陸の風習を語りながらも、ロトは文字を指さしていた。そしてエルフリーデは目を輝かせる。エクィスとヤラーナは、エルフリーデの祖父母で間違いないらしい。子どもたちは、少なからず驚いた。対して青年は、瞳を静かに石へ向ける。懐かしむような、憐れむような色が、かすかに浮かんでいた。
「確か、サフォレ村周辺の地域には、同じ村の人間と結婚しちゃなんねえっつう決まりがあったな」
なぜ、数十年前のシェルバ人たちが、今よりはるかに危険な航海をしてまで、故郷を飛び出したか。ロトたちと違い理由はひとつではなかったろう。けれど、少なくともひと組の男女にとっては――そういうことだったのだ。フェイが、困り顔で頭をかく。
「好きな人のためにそこまでするものなのか……よくわからないなあ」
「フェイにもいつかわかる日がくるぜ! きっと!」
「なんで君が力説してるのさ、クレマン」
拳をにぎる悪ガキに、優等生が呆れとも戸惑いともつかないまなざしを注ぐ。彼らのやり取りに、くすり、と笑ってから、エルフリーデは筆記具を鞄にしまった。そして、ロトに軽く頭を下げたあと、石垣の前にひざまずく。青年は、黙ってアニーの隣まで下がってきた。
おじいちゃん、おばあちゃん。呟いた少女は、静かにこうべを垂れ、額のあたりで手を組んだ。死者への祈りとはまた違う、尊敬を示すしぐさ。短い祈りを終えたあと、紫色の瞳には、うっすらと涙がにじんでいた。
「……一回、村に帰ろうかな。二人に会いたくなってきちゃった」
子どもたちは顔を見合わせる。その間にも、ロトが薄く、笑んでいた。
「いいんじゃねえの。長期の休みにでも顔、見せてやれよ。知りたいのなら、いっぱい話を聞いてこい。聞けるうちに、な」
幼い子に昔話を語るような口調。その隙間に、わずかな自嘲の響きが混ざる。アニーと、そしてエルフリーデはそれに気づいて息をのんだ。けれど、エルフリーデの方は、すぐに穏やかな微笑を浮かべる。
「はい。考えてみます」
ささやきは、岩しかない荒れ地に、透きとおって響いた。
※
目的の文章を見つけたあと、ロトの調査に少しだけ付き合ってから、逆の道程を経てヴェローネルに帰ってきた。その足でアニーたちは近場の図書館に駆けこみ、試験勉強と論文作成にいそしみ――苦しむことになる。
そして、次の日。
アニーたち四人は、狭い部屋で満面の笑みを見せていた。先頭に立つクレマンに笑顔はなかったが、それでも、自信に満ちた表情をしている。彼らの前に立つ少年少女たち――ヒューゴと、その取り巻きたちは唖然として、羊皮紙のきれはしに見入っていた。
「これが、俺たちが見つけてきたもんっすよ。石碑でも壁画でもなかったっす。……どっちかというと壁画になんのか?」
「絵じゃなくて字だったじゃん」
胸を張ったくせに、最後の最後で自信を失くしたクレマンのわき腹を、アニーは軽く小突いた。そして、威圧するように不良たちをねめつける。彼らはさし出された紙を前にして何も言えなくなっていた。が、ややして、ヒューゴの右隣にいた六回生の男子が、勢いよく顔をあげた。
「う、嘘だ! こんなもん、でっち上げたに決まってる!」
大声は、狭い部屋によく響く。アニーとクレマンが眉間にしわを寄せる一方、フェイとエルフリーデはおびえたように肩を震わせた。隙に言わせていては状況が悪くなるかもしれないと、アニーは反論のために口を開く。しかし、少年の鋭い一声が、それをとどめた。
「そう言うんなら、おまえが見に行けよ。あのへん、魔物がいっぱい出るから、危ないけどな」
すると、勢いづいていた六回生は肩を跳ねさせてから黙りこんだ。戦士科生であるはずの彼は、顔面蒼白になっている。はりつめる空気、そのなかで、エルフリーデがおずおずと手をあげた。
「あ、あの。どうしても信じられないようでしたら、原語に直しますよ……? わたし、覚えているので」
アニーは目をみはって振り返った。弱々しく提案しているが、実際のところ、それは不良たちに対する挑発だ。エルフリーデがそんなことをするとは思わなかった。しかし、背中を丸めて小さく震えているところを見る限り、本人に挑発しているつもりはないようだ。
ちょっとまずいかも、と声に出さずに呟いたアニーは、正面に視線を戻す。案の定、取り巻きたちがいきり立っていた。ヒューゴの隣の少年など、今にも飛び出しそうである。しかしそれを、ほかならぬヒューゴが、手で制した。
「やめろ、ばかばかしい」
「……っ。けど、ヒューゴさん!」
取り巻きの訴えを無視して、少年は立ち上がる。クレマンの真正面に立つと、乱暴に、殴りつけるように、彼の胸へ紙片を押しつけた。
「うわっ」
「――合格。まさかおまえらが、大人の協力があったとはいえ、魔物を切り抜けるとは思ってなかったぜ」
いらだちのこもった、けれど静かな声。アニーはそれを意外に思って感心したが、すぐに唇をとがらせる。ヒューゴは、あのあたりに魔物が多いことを知った上で、彼女たちを向かわせたということだろう。なにかあるだろうとは思っていたから、驚きはしなかったが、溶岩に似たいらだちが、胸に渦巻いてこごった。
しかし、それを口に出す前に、ヒューゴがしっし、と手を振る。まるで、羽虫を追い払うように。
「仲良しごっこでもなんでも、好きにしろや。ほれ行け、俺の気が変わる前に」
クレマンが目を白黒させる。すなおに背を向けてよいものかどうかと、悩んでいるふうだった。彼が迷っている間に、アニーがヒューゴにかみついた。
「ふーん。あれだけ悪口言ったり脅したりしておいて、謝ることもしないのね」
「――あたりまえだろ」
言葉は、即座に返された。口より先に手が出ると予想していたアニーは、虚を突かれて固まる。その間に、ヒューゴは底意地悪い笑みを、後輩たちに向けてきた。
「俺は自分が間違ってるなんて、思っちゃいねえからな。謝る理由がどこにもない」
そおら、早く出ていけ。
続いた声は、低かった。そこに、殺気に似たものを感じた四人は、ためらいながらも背を向ける。取り巻きの少年一人だけが、納得がいっていないような表情だったが、部屋を出るまでも出てからも、誰ひとり追いかけてきたりはしなかった。
※
冬は日が短い。ふと空をあおげば、太陽はすでに西の端に隠れ、空にはかがり火のような残照がある。半ば夕闇に沈みかけている通りでは、少しばかり帰りの遅い人々が、
藁の乾いた音ばかりが響く。いよいよ空の残り火が薄らぎはじめた頃、青年の背後の影が、不自然に揺らめいた。けれども彼は振り返らない。ひととおり掃除を終え、箒を壁に立てかけて、開いて置いておいた袋の口の中めがけ、塵取りを傾ける。
独り言さえももらさず、淡々と作業する彼に影が忍び寄る。影は青年が振り返らないことを確かめると、ゆっくり手を伸ばした。
空気が動いたその瞬間、ロトはすばやく振り向くと、からになった塵取りを、勢いよく振りおろす。塵取りはかたい手の骨を打ち、すこん、と高い音を立てた。
夜迫る路地に、少年の悲鳴が響く。ロトはかまわず、つんのめった少年の腕をつかんで、ひねり上げた。小さな体は石畳に叩きつけられ、うつ伏せになってもがく。
「い、いっで、いでででで!」
「こんな時間に、学生が、ひとりでふらふらするもんじゃない」
ロトはあえてゆっくりと話しかけた。少年は、頭を動かし、便利屋をにらみつける。――ロトは知らないことだが、その少年はヒューゴの取り巻きで、昼間にアニーたちへ怒鳴っていた六回生だった。
「な、なんでわかったん……」
「ほう? おもしろいことを言うな。俺を闇討ちしようなんざ十年早い」
「いだっ! くそ、はなせ!」
「おい、暴れんな。おまえが痛いだけだぞ」
声変わり前の甲高いわめき声を、青年は涼しい顔で受け流す。騒がしい便利屋の前を通りすぎようとした一人の人が、足を止めた。ロトは視線に気づいて顔をあげる。薄闇の中、角灯片手に目を丸くして固まる、壮年の男と目が合った。
「おや。にいさん、何してんだ。ガキいじめるってがらでもないだろうに」
「いじめるもんか。こいつが卑怯にも背後から殴りかかろうとしてきたんで、取り押さえただけだ」
相手の軽口に、ロトはため息混じりに答えた。すると男は、急に神妙な顔になり、薄い顎髭をなでる。
彼は、あの岩だらけの遺跡でアニーを囲んだ四人のうちの一人だ。あの後、どういうわけか四人ともが、ロトの職業を知るなり助手をすると言い出して、すでに一、二回、雑用を買って出てくれている。
その一人は、何度か少年とロトを見比べると、角灯をそちらに突き出した。
「そいつ、俺が学院まで送っていきましょうか? ちょうど、近くに行く用事があるもんで」
「――そりゃ、ありがたいけど、いいのか」
「いくらなんでも、寮の門限は過ぎてるはずだ。学院にむりやり送り届ける理由としてはじゅうぶんですぜ。それに、にいさん、学院関係者に顔見られたくないんでしょ?」
慎重に問うたロトは、男の言葉に、それもそうだとうなずいた。いい加減、西の赤い揺らめきも、紺碧に食われつつある。夜の闇が街を覆うのも時間の問題だ。見たところ戦士科のようだが、彼の知る子どもたちのように実戦経験があるわけではなかろう。彼一人を、危険しかない夜道に放りだすわけにはいかなかった。そして、もうひとつの言葉も真実だ。いくらヴェローネルといえど、純粋なシェルバ人は彼とセオドアくらいしかいない。万が一学院の人間に見られて、目撃情報がアニーたちの耳に入ったら、いろいろと面倒くさいことになる。
少し考えたロトは、結局、少年を男に引き渡すことにした。少年は何かを叫びながらじたばた暴れるが、元農夫であるらしく、体格のよい男にはかなわない。ずるずると引きずられていく。そのなかで、グランドル特有の罵倒語を聞いたロトは、嘆息しつつ振り返った。
「何を言おうが勝手だけどな。俺をぶん殴りたいなら、せめて、『暴れん坊』に正面から挑んで勝てるようになってから来いよ」
あえて少女のよくない通り名を出してやると、少年の声はぴたりとやむ。夜に消える影を見送ると、ロトは今度こそ背を向けて、掃除用具を拾い上げ、自分の家に入っていった。
翌日。くだんの少年は、ヒューゴたちに向かって「『ヴェローネルの便利屋』には手ぇ出さない方がいいっすよ! まじで!」と力強く言ったが、その根拠を語ろうとはしなかった。――ヒューゴだけは、この少年が何をしでかしたのかうすうす察していた。が、その場では何も言わずに、少年の言葉を聞き流していた、らしい。
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