第二章 暗中模索、道の途中

1 盲亀浮木、ちいさな二人

 そのときに何をしていたのかは、よく覚えていない。散歩か、買い物か。なにかの理由で外に出て、家に帰る途中だったのかもしれない。あるいは、家にいるのが落ちつかなくて飛び出してきたのかもしれない。とにかく、町の小路こうじを歩いていたのは確かだ。石畳などという上等なものはないので、一歩踏み出すたびにざりざりと音がした。靴も足を覆うだけのもの――しかも穴があきかけている――だったので、運の悪いときには砂が入りこんで気持ちが悪かった。

 アニーが声を聞いたときも、ちょうど片足をぶらぶらと揺らしながら、砂を吐き出させているところだった。うねる小路の奥から響いた、感じの悪い笑い声。年上の不良少年たちの縄張りが近いのかと身構えたが、すぐにその必要はないとわかった。彼らの声よりもずっと幼くて甘やかな音は、彼女と同じ年頃の子どもの声だ。アニーは、金色の眉をむっと寄せる。まだ砂の感触の残る靴をはきなおして、駆けた。

 着いた先、目に入ったのは行き止まりだった。その少し手前、黄色い壁の民家の陰に、アニーはすばやく身を隠す。視線の先にいるのは、やはりアニーと同じくらいの少年たち。数歳上に見える子も、一人か二人いた。小柄な一人を、ひとまわり大きい四人が取り囲んでいる。狩人と獲物みたいだと、アニーは思った。

「おい、なんとか言ったらどうなんだよ。弱虫!」

『狩人』のうちの一人、もっとも体格のよい少年が叫ぶ。同時に、隣にいた少年が、目の前の茶色い頭を蹴りつけた。蹴られた方は悲鳴を上げたが、なにも言わない。いや、言おうとしているが声が出ないのだ。それより前に、殴られ、蹴られ、笑われるから。

 その後も、四人の凶暴な狩人たちは、笑いながら小さな少年に暴言を浴びせ続ける。ここまで見れば、何が起きているのか、部外者のアニーでもわかった。

 いじめられっ子というのは町に一人はいるだろうな、というのは数日前に町を去った商人の言葉だが、そのとおりらしい。そしてこういう人たちに関わるとろくなことがない。最後に怒られるのはいつもアニーだ。彼女はそれを、嫌というほど知っていた。助けたとしても、どうせ怖がられて裏切られる。自分に原因があるのだとわかっていても、ひとりぼっちは、耐えがたい。傷つかないためにも、見て見ぬふりをして去った方がいい。

 そう思ったのに。

 アニーは、その場から動くことができなかった。

 きり、とてのひらが痛んで。アニーは右手を開いて、息をのんだ。先ほどまでにぎっていた右手に、うっすらと血がにじんでいる。

「……て。かえして」

 声が聞こえた。虫の鳴き声のようだったのに、なぜか、はっきりと聞こえた。アニーは慌てて、顔を少年たちの方に突き出す。

「それ、かえして、ください」

 茶色いくせ毛を砂まみれにした少年は、必死に手を伸ばしていた。その指の先をたどれば、体格のよい少年に行き着く。彼は、なにかを高く掲げていた。それはよく見ると、装飾品のようだった。銀色の卵型の飾り物。その先に小さな穴があいていて、同じく銀色の鎖が通されている。茶髪の少年は何度も「返して」と言い、それに手を伸ばしていた。指が銀色をかすめたところで、いじめっ子の少年は両手を高く掲げる。

「かえして――」

「なんだよ。もっとはっきりいわないと、聞こえないぜ」

 頭を殴りつけるような音がする。耳をふさぎたくなるような悲鳴が聞こえる。

 その瞬間、アニーの中でなにかが弾けた。なじみ深い、感情の波。止めようと思っても止められない。煮えたぎる溶岩に似た怒りに背を押され、彼女は駆けだしていた。

 なにかを叫んだ。少年たちが怒鳴ったが、それを無視して飛びかかった。その後に何が起きてどうなったのか、アニーはまったく覚えていない。四人のいじめっ子たちが大けがをして、中には骨を折った人がいた。町の自警団が飛び出すほどの騒ぎになった。そういったことは、すべてが終わってから知った。

 このときのアニーは赤黒い闇の中にいた。ただ暴れまわっていた。

 いつものことだ。いつもなら彼女は、大人の怒鳴り声と父の鉄拳で我に返る。けれどこのとき、彼女の意識を引き戻したのは――

「ねえ! もういいよ! もういいってば!」

 少年の、必死な涙声だった。


「……え」

 居眠りから目ざめたかのような感覚。そのあとに、ぼんやりとした自分の声を聞いたアニーは、慌ててあたりを見回した。四人の少年たちが、泣き叫んでいる。白っぽい砂の上に、点々と、赤い染みが散っていた。

 また、やってしまった。アニーは頭を抱えた。そのままへたりこんでしまいそうだった。けれどそこで、最後の一人の存在を思い出す。青ざめて振り返ると、茶色い瞳がすぐそばにあった。

 取り上げられていたはずの卵型の金属をにぎりしめている少年は、あいた手でアニーの長衣のすそをつかんでいた。見上げる瞳はうるんでいて、けれどそこに恐怖はなかった。

 アニーは一瞬、不思議な感覚にとらわれる。しかし、すぐにいつもの恐怖がわきあがってきた。

 やってしまった。嫌われる。逃げられる。怒られる。こいつらが死んだらどうしよう。

 いくつもの考えが頭の中を駆け巡って、しめつける。嘲笑う人影の幻を見た気がしたアニーは、崩れ落ちるように膝をついて、泣き叫んだ。


 町の子どもともめて、大けがをさせて、両親に叱られる。それはアニーにとって、寝て起きて、ご飯を食べるのと同じくらい、あたりまえのことだった。母が夕飯の準備を始めるまで父から説教をされていたアニーは、すべてが終わると食糧庫に逃げこんだ。ぶら下がる干し肉の下で膝を抱える。風の音を聞くのも怖かった。このまま消えてしまいたかった。彼女が膝の間に顔をうめたとき、夕闇に覆われた食糧庫に、細い光がさしこんだ。アニーは思わず顔を上げる。困ったようにしている母と、目があった。

「アニー。お客さんよ」

 アニーは、その言葉に首をひねった。

「……おきゃくさん? だれ?」

「フェイくん――向かいの家の子」

「だから、だれ」

 優しい声に、今ばかりはいらだった。目を細めた拍子に涙がこぼれてきた。また、アニーは驚く。その驚きからさめる前に、母が言葉を続けた。

「今日、アニーが助けた男の子」

 その言葉は、楽しげに響く。アニーは口を半開きにしたまま凍りついた。これ以上ないほどに驚いた。


 本当は会いたくなかった。しかし、日没前にわざわざ顔を出しにきてくれたというのだから、会わないわけにはいかなかった。玄関に出てみると、確かに昼間の、気弱そうな少年がそこにいた。癖っ毛の下の優しい目は今にも泣きだしそうだ。顔や腕の手当ての痕が痛々しい。アニーよりも先に消えてしまいそうな彼は、アニーを見るなり顔をほころばせた。

「あ、よかった!」

 少年の、最初の一言はそれだった。アニーはぼうっと彼を観察したあと、目をそらす。

「くると、思わなかった」

「どうしても、会いたかったんだ。でも、会ってもらえないかと思った。きらわれたと思ったから……」

「むしろそれは、わたしの方なんだけど」アニーが呟くと、少年は不思議そうな顔をした。何か言いたげな彼を、首を振って制したアニーは、なんとか視線を彼の目に合わせる。

「あの、今日は、ありがとう」

 少年は、消え入りそうな声で言うと、頭を下げた。虚を突かれたアニーはしばしかたまる。それから、追い払うように手を振った。

「別に、いい。あんなの、いつものことだから。……それより、その、おだいじに」

 アニーは早口でそれだけ言うと、背を向けた。いつもなら、こんなふうに訪ねてくる相手とは長話をしてしまうのだが。今は、相手の顔を見るのもつらかった。アニーがたしなめる母を押しのけて奥に入ろうとしたとき。「あ、あの」と、少年がアニーを呼びとめた。

 アニーが思わず振り返ると、少年は軍人のようにをする。

「ぼ、ぼくはフェイです! フェイ・グリュースターです!」

「え? ちょ」

「あ、あなたの名前を、教えてください……」

 最初は大きかった声が、尻すぼみに消えてゆく。少年のそれに合わせて、最後はがっくりとうつむいた。なぜかその姿がおもしろくて、アニーはくすりと笑ってしまった。怖がっていたのが馬鹿みたいだと思い、少年――フェイに向き直る。

「アニー」

 フェイが、がばりと顔を上げた。アニーはせいいっぱいの笑顔をつくる。

「アニー・ロズヴェルト、です」



     ※



「アニー。起きて」

 優しい声に起こされて、アニーは目を開けた。のろのろと顔を上げれば、見慣れた顔がすぐそばにある。しかしアニーは、ぼんやりとした違和感に首をひねった。

「……あれぇ? フェイがおっきくなってる」

 思ったままを口に出せば、少しぼやけた姿の少年は、変なものを見たというふうに眉根を寄せる。

「え?……寝ぼけてるの? もうすぐ着くから起きなよ。荷物まとめなきゃいけないでしょ」

「んんー」と声をあげながら、フェイに急かされて起きあがったアニーは、雑に目をこする。そのとき、波のない声が彼女の肩を叩いた。

「そのへんにしとけ。あんまりこすると目に悪い」

「ふぇ?」

 見上げれば、深海色の瞳がのぞきこんできているところだった。背が高く、きれいな顔をした青年を見た瞬間、少女の意識は今へ引き戻された。

 アニーとフェイが田舎にいた頃、ロトはまだ船の上でたたかっていたはずだ。そう思うとなんとなく恥ずかしくなる。アニーは笑って頭をかいた。

「ああー。おはよう、ロト」

「おはようさん。準備しろ」

 無愛想な声を投げかけられる。アニーはあくびをしながら気の抜けた返事をすると、自分の鞄を手に取った。

――どうにか、先生たちから外出許可をもぎ取ったアニーたち四人は、ロトとともに数刻、馬車に揺られていた。ロトいわく、馬車で遺跡近くの町まで行って、そこからは歩いて目的地を目指すのだという。がたがた揺れて、お世辞にも乗り心地のよくない馬車の中。少年少女と魔術師は、黙って身支度を整えていた。

 クレマンが鞄を肩にかけたところで、馬車がひときわ大きく揺れた。車輪に石でもひっかかったかと、子どもたちは身構えたが、ロトが手ぶりでそれをなだめた。窓の外を見てみれば、おとぎ話に出てきそうな小さい木の家が、ぽつぽつ立ち並んでいる。「着いたよ」と、御者ぎょしゃのだるそうな声が告げた。

 馬車を降りると、かたい土の感触が伝わってくる。ふいに懐かしくなって、アニーはひとり、ほほ笑んだ。そのとき、すぐ隣で低い音がする。耳を赤くしたエルフリーデが、お腹を押さえていた。

「ま、そろそろ昼だし、しかたねえか」

 腹の虫の鳴き声に気づいたロトが、くつくつと喉を鳴らす。エルフリーデはさらに赤くなった。

「俺も腹減ったなあ。先に飯食いたい」

 クレマンがのんびり言うと、ロトは軽くうなずいた。歩きながらあたりを見回して、食事のできそうな場所を探しはじめる。自分が注目されなくなったおかげか、エルフリーデは大きく息を吐いていた。

 食事しょくじどころを探しつつ、アニーは町をながめてみた。人の姿はあまりないが、さびれているというわけでもない。道行く人の顔は穏やかだ。のどかな田舎町、という言葉が浮かんだ。

「そういえば、アニー」

 フェイに声をかけられて、アニーは振り向いた。彼はやけにきらきらした瞳で彼女を見ている。好奇心に火がついている証拠だ。

「さっきは、小さい頃の夢でも見てたの?」

 首をひねったアニーは、それから手を打った。

「えーと、もうあんまり覚えてないけどね。フェイと会ったばっかりの頃の夢……だった気がする」

「…………そ、そうなんだ」

 たっぷり黙りこんだあと、フェイはわざとらしく目をそらす。幼馴染のひきつった笑みは、アニーの悪戯心をくすぐった。にやり、と唇をもちあげた彼女は、あえて話を続けようとする。

「懐かしいなー。あの頃のフェイは、町の悪ガキにいじめられてばっかりでさ。毎日のように泣いていた気が――」

「わーっ! 言わないで! 言わないでいいからっ!」

 フェイは、顔の前で両手をぶんぶん振った。慌てて叫んで、アニーの言葉をさえぎる。しかし、時すでに遅し。ほかの三人からの生温かい視線が二人に注がれる。

「別に、隠す意味なくね? おまえ、つい最近までそんな感じだったじゃん」

「し、失礼な!」

 クレマンが言うと、フェイは珍しくすねたように彼をにらむ。にらまれた方は、口笛でも吹きそうな顔をして、そっぽを向いた。少年二人のやり取りを見て、エルフリーデが笑った。

「なんかいいなあ、幼馴染って。ロトさんとマリオンさんは、どんな感じだったんですか?」

「俺たちか。今とたいして変わんねえ気がするけど。……昔は、マリオンがもっと自由奔放だったかもな」

 エルフリーデが、へえっと意外そうな声を上げる。その横でアニーは、自分たちのかつての姿に思いをはせていた。

 話しているうちに思いだすこともある。最初の出会いは、フェイが悪童四人にいじめられているところに、アニーが飛びこんでいった、というものだった。その頃は今より暴力衝動がひどく、アニーが四人ともに大けがを負わせてしまったわけだが。そのときのフェイは、大事な物を取り上げられていたが、ずいぶん後になってそれが何かを教えてくれた。

「あっ。そうだ、フェイ」

 アニーは、銀色のきらめきを思いだして、幼馴染を振り返る。

「ん? 何?」

「あれ、まだ持ってるの? 昔、『親分』に取り上げられてた、銀色の首飾り」

 フェイは今思いだしたかのようにうなずいた後、ふんわりと笑った。

「持ってるよ。ふだんは寮の部屋に飾ってる。――兄さんが、はじめて旅先から送ってきてくれたものだから」

「写真が入ってたんだっけ」

「そうそう! 写真なんて今でも珍しいでしょ。だから、もらったときなんて家族みんなで興奮して!」

 昔話に花が咲き、自然と笑顔が弾ける。はしゃぐフェイの姿が珍しかったのだろう。ほかの三人も時折、おもしろそうに脇見していた。

「そういえば、『親分』どうしてるかなあ」

「私がぼこぼこにしてから、悪さをやめて家の宿屋を手伝いはじめたって聞いたけど。今、どこにいるんだろうね」

 二人が首をかしげあったとき、厚手の衣が彼らのそばでひるがえる。同時、とさりと軽い音がした。まっさきに気づいたロトが、音のした方へ駆け寄る。落ちていた薄いひもとじの本を拾った彼は、土をはたいて立ち上がった。

「おい、あんた。これ、あんたのじゃないか」

「――え?」

 ロトが声をかけたのは、アニーたちより一、二歳上の少年のようだった。早くも厚手の上衣をはおっている彼は、ロトの持っている本に気づくと慌てて走り寄ってくる。

「あ、俺のです! すいません、ありがとうございます!」

 少年は本を受け取るなり、何度も頭を下げた。ロトが気にするな、と口に出して言ったところで、彼はようやく顔を上げる。本を拾った青年と、その後ろの子どもたちを見――そのまま凍りついた。

「……アニー?」

「は?」

 まさか名前を呼ばれると思っていなかったアニーは、冷たい声を上げて少年をにらみかえす。少年は、後ずさりしそうな勢いでのけぞった。

「や、やっぱりだ。ロズヴェルト家の凶暴娘」

「いや、だからあんた誰――」

 少年を突き放そうとしたアニーはしかし、途中で口を閉ざす。そして、少年を頭のてっぺんから足の先までながめた。長い沈黙のあと、ゆっくりと驚きを顔に広げる。それは、同郷のフェイも同じだった。

「あっ……ああーっ! 『親分』!」

「会って早々悪いんだけど、そのあだ名やめろ。恥ずかしいからやめてください」

 叫ぶアニーに向かって頭を下げる少年。その姿にかつての体格のよさと意地悪さは少しも残っていないが、『親分』のあだ名を持つ彼に違いない。

 つまり――フェイをいじめていた子どもの一人。そして、アニーとフェイが出会った日に、フェイから首飾りを取り上げた張本人だった。

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