3 自由の条件

 事件は、起きてないでくれと願っているときに限って起きるものだ。

 今までの経験で、さんざん学んでいたはずなのに。なぜもっと注意しなかったのかと、アニーはひどく後悔した。

 

 ロトから、かつて出会ったあやしい女性にまつわる不可解な話を聞かされた、二日後。この日もアニーたちは放課後に図書室で勉強する予定だった。ひととおりの講義が終わった時間帯。アニーは足取りも軽く図書室に向かっていた。今日は全員が早い時間の講義ばかりをとっていたので、まだ日は高い。

 途中でフェイとも合流して、二人でなごやかに話しながら、図書室の扉の前に立つ。そこでも今日の講義のことなどを話していたのだが、そのうちにフェイが時計を気にしはじめた。

「あれ? もうこんな時間。エルフリーデたち、遅いね」

 彼の言葉に釣られて、アニーも時計を見上げ、首をひねった。確かに、約束の時間から半刻は過ぎている。あの二人にしては、珍しいことだった。「どうしたんだろう」とこぼしながら、アニーは三つ編みの先をいじる。人混みにうもれるなり先生に捕まるなりしているのだろうと、楽天的に考えていた。

 次の瞬間、エルフリーデの悲鳴じみた呼び声を聞くまでは。

「アニー! フェイ!」

 二人の名を呼ぶ声は、ふだんの穏やかさからは想像もできないほど、切羽詰まって鋭かった。アニーたちは肩を跳ねさせ、声のした方を振り返る。エルフリーデが、目尻ににじんだ涙をむちゃくちゃにぬぐいながら、走ってきたところだった。一目でただごとではないとわかる姿に、二人とも戸惑いを隠せない。

「どっ……どうしたの、エルフリーデ?」

 フェイが、なだめるように細い肩に手を置いた。エルフリーデはしゃくりあげながら、訴える。

「お、お願い、たすけて! このままじゃ、クレマンくんが……!」

 言葉をなくして呆然とする幼馴染の横で、アニーはあちゃあと頭を押さえる。

 ものすごく、嫌な予感がした。


 嫌な予感ほどよく当たるものだ、と、誰かが言っていた。まったくそのとおりだ。扉の前に立ったアニーはため息をつく。

 木の板をつやつやになるまで磨き上げて作られた扉。決して薄くはない扉のむこうからは、はっきりと罵倒の声が聞こえていた。その主が誰か、言われなくともすぐわかる。

 クレマンの声は聞こえない。押し黙っているのか、小声で反論してはいるのか。どちらにしろ、あまり状況はよろしくない。扉に耳を当てていたアニーは、ひととおりを聞いたあと、並んで棒立ちになっている幼馴染と魔術師の卵を振り返った。

「えらいこっちゃ」

 アニーが両手をあげてささやくと、フェイが泣きそうな顔になる。

「ね、ねえ。やっぱり……ヒューゴさん?」

「クレマンに難癖つけるような相手は、一人しかいないでしょ」

 アニーがにらんでそう言えば、フェイは「だよねえ」と返して首を振る。明らかに扉の先を見るのを躊躇ちゅうちょしている少年へ、エルフリーデがすがるような目を向けた。

「お、お願い。いっしょに、いって」

 唇を震わせながらつむいだ言葉。フェイだけでなく、アニーもそれには仰天した。助けてくれというのならばまだしも、一緒に行って、と来たか。ふむ、とうなずく問題児の横で、優等生は顔の前で両手を振った。

「い、いくらなんでもそれはまずいよ、エルフリーデ。せめてもう少し様子を見てから……!」

「お願い! クレマンくんひとりに、辛い思いをさせたくないの! わたし、ひとりだと何もできなくて、でも、アニーたちが一緒なら、少し勇気が出るかと、思って」

 うつむき加減で訴える少女の声は、尻すぼみに消えてゆく。けれど、大きな両目は二人をとらえて離さなかった。フェイはしばらく、喉にものを詰まらせたような顔をしていた。しかしアニーがねめつけるように見ていると、彼はわざとらしく肩を落とす。

「しょ、しょうがないなあ。まあ、クレマンに『手伝う』って言ったのはぼくだしね」

「自分の言葉には責任を持とう」

「アニーに言われると、ちょっとむっとするよ」

 軽口を叩く幼馴染たち。二人を見て、エルフリーデは目を輝かせた。今にも泣きだしそうな友人を笑顔でなだめたアニーは、深呼吸をして気合を入れると、そのままの勢いで扉に手をかけた。行くよ、と目だけで合図する。二人がうなずくのを確かめて、ぐっと前に力を込めた。

 取っ手が下がり、扉はすなおに前へ開く。とたん、えんえんと流れてきていた呪詛のような声がやんだ。誰かの身じろぐ音がする。

「……なんでアニーが、ここにいるんだ」

 意外にも静かな声が問うてくる。クレマンは、部屋の壁際に立ったまま、呆然とアニーを見つめ返していた。アニーは、わざと大仰に胸を張り、少しだけ体をひねる。

「エルフィーに呼ばれてきたの。感謝しろよー」

 黒茶の目が、見開かれた。瞳のまんなかに、あせりと怒りの色がにじむ。

「おまえ、なんで逃げなかったんだ!」

 叱声は温かい。部屋の中で輪をつくる生徒たちが、戸惑ったような表情で互いを見た。一方、エルフリーデは首をすくめる。

「ご、ごめんなさい。でも、でも、クレマンくんだけ放って逃げるなんて、できないから」

「……エルフリーデ」

 クレマンが、困ったふうに眉を下げる。めったに見られない表情に、アニーはおや、とまばたきした。しかし、ほんのわずかな感慨は、わざとらしく乾いた拍手に打ち消される。三人は顔をこわばらせ、アニーだけは眉間にしわを寄せた。視線は自然と、教室の奥へ。十一回生の少年は、手を打つのをやめると、ネクタイに指をかけた。

「泣かせるねえ。これが友情ってやつか。……くっだらねえ話だ」

「うるさい。こっちのことに口出さないでよ」

 アニーがにらんでそう言うと、ヒューゴはけらけらと笑った。「まるで毛ぇ逆立てた猫だな」とアニーを指させば、獰猛どうもうな笑みを刷く。

「だいたい、なんなの? あんた、弱い者いじめしかやることないわけ?」

「勘違いしてもらっちゃあ困るな、『暴れん坊』。そこのクレマン・ウォードくんが、最近ぜんぜん来ねえから、心配して声かけてやっただけだぜ」

 碧眼が横を向く。名指しされた少年は、アニーと目が合うなり、小さく首を振った。

「心配されてた、って感じじゃない」

「そりゃ残念」手を振ったヒューゴは、ちっとも残念そうではなかった。その振った手を、流れるようにクレマンへさしのべる。

「けどよおクレマン。俺たちはなぁ、悲しかったんだぜ。いきなり俺らを裏切って、薄汚い魔術師と仲良しごっこをはじめられたんだからな」

 クレマンは、沈痛な面持ちで立っていた。すぐには何も言わなかった。けれど、ヒューゴの取り巻きたちが一歩を踏み出すと、彼らを牽制けんせいするように口を開く。

「まだ、そんなこと言ってんすか。あんた」

 こぼれた声は、氷のようだ。落とされるなり、砕けて破片がそこらじゅうに飛び散った。取り巻きはおろか、ヒューゴも、そしてアニーたちまでもが動きを止める。

 その間に、少年は強く拳をにぎりしめて、歯を食いしばっていた。こすれあう、強い思いの音が、響いてくるようだった。

「エルフリーデは薄汚くなんかない。あんたらなんかより、よっぽどまっすぐできれいないい奴だ。それに何より、こいつは俺の友達っすから。――友達を悪く言うのは、許さない」

 まくし立てた、というのがぴったりなほどの勢いであったのに、言葉のひとつひとつが、その場にいる全員の耳に届いて弾けた。ひたむきな思いを向けられた少女は、肩を震わせた後に、赤く染まった顔をうつむかせる。

 あたりが静まりかえった。けれどそれは、少なくともアニーやフェイにとっては、心地のよい静寂だった。アニーはふっと息を吐き出すと、呼吸すらも忘れて立っている悪ガキの背中を叩く。

「ちょっと見なおした」

「……勝手に言ってろ」

 蚊の鳴くような声で、それだけしぼりだしたクレマンは、その後、めいっぱい空気を吸った。同時、止まっていた時が動きだしたかのように、取り巻きたちがざわめきはじめる。――クレマンがこんなふうに、ヒューゴに反発するとは、思っていなかったのだろう。

 クレマンはエルフリーデを、アニーはフェイを守るように、無意識に立ち位置を変えた。戦士科生二人の強い視線を受けとめても、ヒューゴの態度は変わらない。そばの机に肘をつくと、さも退屈そうに鼻を鳴らした。

「クレマンくんさあ。いつのまに心変わりしたんだ? ええ? 前は、魔術師もシェルバ人もくそくらえって言ってたのになあ」

「……っ。あれは、ばかな話だけど、ヒューゴさんたちに適当に合わせてただけっす。今はそんなこと思ってない」

 たくましい少年の後ろで、魔術師の卵といわれる少女が、顔を青くしたり目尻をゆるめたりと忙しい。表情の変化が、背を向けているアニーにも、空気の動きで伝わってきた。彼女の様子を想像するとおかしくて、アニーはほんの少し顔をほころばせる。けれど、やわらかな微笑はすぐに凍りついた。意地悪な、先輩の言葉によって。

「へえ。女子にほだされたか。……それとも、ヴェローネルの便利屋かな?」

――は? と言ったのは誰だったか。少なくとも、先輩と対峙する四人のうちの誰かだろう。湖面に投げ入れられた小石のような言葉は、つかのま宙を漂って。波紋が広がるその瞬間、誰からともなく青ざめた。

「なん、で。この人が、知って」

 アニーのすぐ後ろで、フェイがささやいた。それが聞こえたとは思えないが、ヒューゴはにたにたと笑って手を叩く。

「一部の界隈かいわいじゃ有名だぜ。あのシェルバ人は。それになあ、昨日、たまたま、うちの子分が見たらしいんだよ。おまえらと便利屋が仲良さそうに話してんのをさ」

 息をのんだ。顔を見合わせることはなかった。体が凍りついて、そんなことはできなかった。ヒューゴは満足そうに喉を鳴らすと、乱暴に足を組みかえる。

「そいつらが好きなら、寝返ったって構わねえぜ」

 彼は、クレマンを見すえて言った。驚きに見開かれる黒茶の瞳に、彼の節くれだった指が突きつけられる。

「ただし、条件がある」

「条件?」

 クレマンが怪訝そうに眉を寄せる。アニーは視線だけであたりをうかがい、首をひねった。取り巻きたちが、声をひそめて何事かを話している。しかし、ヒューゴにひとにらみされると、口をつぐんだ。取り巻きすら知らない何かを言いつけられるのか。少女の手は、今は何もないはずの腰にのびた。

「ヴェローネルからすこぉし南に行ったところに、変わった岩がたくさん突き出てる場所があるんだよな」

 後輩の動揺をよそに、ヒューゴは楽しげに話しだした。

「んで、噂によればそこには、わけのわかんねえ文字が彫られた、石碑だか壁画だか、そういったもんがあるらしい。そいつを見つけて、彫られてる言葉を俺のところに教えてきてくれりゃあ、クレマンの離脱を認めてやってもいいぜ」

 アニーたち四人は、今度こそ顔を見合わせた。それから、フェイがおそるおそる、幼馴染の陰から顔を出す。

「……それが、条件ですか? ほかにはなにもないんですか?」

「そーだよ。安心するといいさ、うたぐり深い優等生。休日使えば、ガキの足でも行って帰ってこれる場所だ」

 背の高い少年は、これみよがしに指を鳴らしながら、子どもたちを睥睨する。

「ただし、やると言ったらなにがなんでも石碑の中身を覚えて帰ってこい。途中で戻ってきたり、わかりませんでした、で終わらせるのはなしだ。もしもそれをやったら、おまえらが殴られるだけじゃすまねえぜ?」

 歪んだ口もとから歯がのぞく。獲物を狙う獣よりも凶悪な笑みに、取り巻きたちが色めき立った。さあ、どうすると、投げかけられた問いかけに、誰もが息をのむ。重苦しい時間を終わらせたのは、この話の中心に立っている、少年だった。

「やる」

 短く言うなり、拳をにぎった彼は、刃のような光を宿した瞳で、自分たちを囲む少年少女をねめつけた。

「やってやるよ。要は、南にちょっことお出かけすればいいんだろ。あんたたちと殴りあうより、でっかい竜と戦うより、ずっと簡単だ」

 アニーは唇をかみしめて、彼の後ろに立つ少女を見た。身をかたくしてはいるが、瞳の中に迷いはない。

 そしてヒューゴは意外にも、クレマンの無礼な物言いに怒らなかった。「威勢がいいのは嫌いじゃねえよ」と呟き、軽く口笛を吹く。それから、蝿を追い払うように左手を振った。

「決まりだ。やるなら、早くした方がいいぜ」

「言われるまでもない」

 アニーとクレマンの声が重なる。少年と少女は、一瞬だけ目を合わせると、部屋の中の少年たちに背を向けた。誰かが何かを言う前に、四人は逃げるようにしてその場から走り去った。



「意外だな。まさかヒューゴさんが、お勉強みたいなことを言い出すとは」

 後輩たちが去った後、取り巻きの一人の少年が、小声で言った。隣にいた少女がにやりと笑い「実はでっち上げたんじゃないですかあ?」と、ヒューゴを見る。彼は不機嫌そうに少女をにらんだけれど、どなり散らしはしなかった。

「いいや。壁画の噂は本当だぜ。あいつら、探し物は得意そうだから、すぐに見つけて帰ってくるだろうな」

 いやに楽しげな頭目の言葉に、少年少女は今度こそ難しい顔をする。一人が口を開きかけるのを、ほかならぬヒューゴが制した。

「ただし、は――俺は何も知らねえよ」

 廊下のざわめきだけが扉越しに聞こえる。その場限りの静寂のあとに部屋を満たしたのは、冷たく押し殺された笑い声だった。

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