第一章 子どもたちの戦い

1 放課後の遭遇

「わっかんねえええ!」

 いっそ清々しいほどの大声が、広い部屋に響き渡る。それぞれに本を手にしていた学生たちは、肩を震わせたのち、非難の目を数ある机のひとつに向けた。そのあとの反応は様々だ。ある少年は驚きに目をみはり、ある少女たちは呆れたように顔をしかめる。

 声の主は、そのどれもを無視していた。気にかけている余裕もなかったのだ。熱を帯びた――気がする――頭を抱えて、そのまま机に突っ伏してしまう。ぷるぷると全身を震わす彼に、まっさきに声をかけたのは、向かいで帳面を広げていた少女である。

「あの、クレマンくん。図書館では静かにしなきゃ……」

「もっとはっきり言ってもいいんだよ。エルフィー」

「うるせえ! アニーは黙ってろ!」

 隣に座って鉄筆をくるくると回していたアニー・ロズヴェルトは、友人エルフリーデの肩を小突く。彼女は曖昧な笑みを浮かべ、対して先ほど叫んだ少年、クレマン・ウォードは犬歯をむきだしにして怒鳴った。声の音量は落ちたとはいえ騒がしい彼らの中に、最後の優等生がため息を落とす。

 ちらちらと好奇心のみなぎった視線をぶつけていた生徒たちが、少しずつ顔をそらす。手元の本を開いたり、本棚に手をのばしたり。さざ波に似た喧騒とともに、彼らの時間も戻りはじめた。再び大多数の中の数人として図書室に埋もれたアニーたちは、机をはさんで向かいあう。

「うう、だめだ……いくらやってもだめだ……」

 泣きだしそうなクレマンの方へ、優等生ことフェイが身を乗り出した。

「落ちついて。もう一回説明するから」

 アニーの幼馴染である少年は、もとは不良のクレマンに対しても穏やかに接している。彼らの姿を横目に見ながら、アニーもまた目の前の問題に頭を悩ませた。

「ぐぐっ、六回生だからかなあ。なんか、難しくなってる気がする。留年したらどうしよう」

「し、しないように頑張ろうよ」

 小さく拳をにぎったエルフリーデにうなずくと、アニーは目の前の文字に意識を向けた。

 六回生としての一年間も、いよいよ終わりにさしかかっている。ふた月後に行われる進級試験に向けて、追い込みをかけなければいけない時期だ。この進級試験は、多くの学科で筆記と実技のふたつがある。ふたつの合計点が基準を上回れば合格、下回れば不合格。そして留年だ。

『留年』の二文字に恐れをなした問題児――アニーとクレマンを気遣って、フェイが勉強会を開いてくれることになった。そうして今、大きな机を四人で囲んでいるというわけだ。

 いつもアニーの面倒を見ているフェイだが、今は半泣きのクレマンについている。そしてアニーはというと、エルフリーデと協力しあいながら問題を解いていた。今のクレマンは帳面にかじりつくのに必死で、女子たちを見ていない。いや、見ないようにしている。もともと座学が嫌いで、しかも素行のよくない年上とつるんでいた彼が、今になって留年を恐れた理由。彼が決して言わないそれを、けれどアニーはわかっていた。

「いいとこ見せようって思ってる時点で、失敗だと思うんだけどなあ。あいつの場合」

 けれど、それで頑張れるようになるのはよいことだと思う。少しでもいいところを見せたい、という気持ちに、アニーもまた覚えがあるのだ。

 アニーとフェイ。二人を大なり小なり変えた特別課題の春から、もう半年以上経った。すごく遠いところまで来た気がする。

「どうかした? アニー」

「……ううん。なんでもない」

 きょとんとしているエルフリーデに笑いかけると、アニーは再び問題と向きあう。

『暴れん坊』と呼ばれる少女は、今はその影をひそめていた。


 クレマンがなんとかひととおりの問題を解いたところで、四人は図書室から出た。相変わらず、学院の廊下は学生でごった返している。噂話と騒ぎ声に耳をかたむけながら歩くこと、しばし。途中で廊下の空気が変わったことに気づき、アニーは立ち止まった。ひそひそと言葉を交わす、年上の女子生徒の集団に目をとめて、むっと眉を寄せた。

「どうしたの、アニー」

 フェイが、あせって訊いてくる。アニーはぐるりと廊下を見渡すと、首をかたむけ、振り返った。

「いや、なんか、みんなぴりぴりしてるなあって思って。何かあったのかな」

 彼女の言葉に、ほかの三人が顔を見合わせる。のんきに天井を見上げるふりをしてあたりを観察したクレマンが、頭を後ろから支えるように手を組んだ。

「言われてみればそんな感じだな。不良でも来たんじゃねえ?」

「あんたが言うか」

 アニーは思わず突っこむが、予想に反してクレマンは怒らなかった。不審に思って呼びかけようとしたアニーは、途中で口を閉ざす。クレマンが、目を見開いて固まっていることに気づいたのだ。

「クレマン、くん?」

 彼の隣にいたエルフリーデが、気遣わしげに名を呼ぶ。するとクレマンは、壊れてしまったからくり人形のごとく首を動かした。ぎぎぎ、と低い音が鳴りそうだった。そうしてほかの三人を見た彼は、一言だけを口にした。

「……逃げよう」

「はい?」

 三人の、頓狂とんきょうな声が揃う。真剣さに欠ける態度を示しても、クレマンは怒らなかった。それどころか、ただただ首を左右に振る。その顔が青ざめていることに気づき、アニーはいよいよ神妙な顔をした。クレマンが先ほど見ていた方向へ身を乗り出す。自分たちと同じ制服を着た学生たちが、ある一点を遠巻きに見つめていた。ささやきに混じって、ほんの少し、品のない笑い声が聞こえる。その方に視線を走らせ、アニーはあっ、と声を上げた。

 ようやく、いろいろなことがに落ちる。

 生徒たちに避けられているのに気づいていないのか、気づいていて調子に乗っているのか。そこにいたのは、目つきの悪い男子生徒と、彼のそばにまとわりつくようにしている下級生たちだ。男子生徒の制服は、十一回生のそれである。アニーは彼を知っていた。少なくとも、彼が不良で魔術師嫌いで、名前がヒューゴだということだけは。

「なーるほどー」

「のん気にしてる場合か! ばれたらやべえから逃げよう! 早く!」

 うなずくアニーの肩を、クレマンが揺さぶった。もともと彼らとつるんでいたクレマンは、ヒューゴに命令されて、エルフリーデをいじめようと近寄ってきたのだ。けれども彼女に惚れたがために、命令を破る形で、ヒューゴたちと関わることをやめていた。確かに、目をつけられたらただでは済まないだろう。アニーは小さくうなずくと、クレマンと同時にまわれ右をして廊下を駆け抜ける。フェイとエルフリーデも、黙って後ろについてきた。

 ときどき背後をうかがいながら駆けた四人は、ひとまず西にしかんにもっとも近い庭へ出た。同時、強い風が吹いて、花壇の花々がいっせいに揺れる。庭にはアニーたち以外に人の姿はない。ヒューゴたちの声すら聞こえない。もう大丈夫だと確かめるなり、クレマン・ウォードは膝から崩れ落ちた。アニーたち三人も、知らずにほっと息を吐く。

「び、び、びっくりした」

「そんなにびびんなくてもよかったんじゃない? あいつら、私たちのことなんて見てない感じだったけど」

「だったとしても! 近くにいるだけで落ちつかねえんだよ! わかるかこのいつ殴られるかわかんねえってびくびくびくびくする気持ちが!」

 腕を振って激しくまくし立てるクレマンに、呆れ顔を向けたアニーは、煉瓦でできた花壇の縁に座りこんだ。

「まあ、確かに……ヒューゴとはすっごいけんかしちゃったもんね」

「次もフラン先輩が来てくれるとは限らないし」

 ため息混じりに呟いたフェイが、アニーの隣に立つなり肩を震わせる。夏の出来事を思い出したようだった。

 子どもたちは、しばらく何をするでもなく、花壇の前で呆けていた。だが、空を見上げて夕暮れが迫っていることに気がついたアニーが、まっさきに弾みをつけて、立ち上がる。

「とりあえずさ、寮に帰らない? ヒューゴたちも、いつまでもあそこにいるわけじゃないでしょ」

「ま、まあ、そうだね」

 フェイが答えると、エルフリーデもうなずいた。そして、クレマンも、ためらいがちにではあったが、首を縦に振った。

 庭から西館に入り、そこから寮の手前まで歩く。同じように帰る学生たちで廊下が混みはじめると、男女二人ずつに分かれて、屋敷に似た学生寮の門をくぐった。

「明日、ロトと約束してるからね。忘れないでよー」

 男子たちにそんな言葉を投げかけると、アニーはエルフリーデの手をひいて駆ける。

「なんにも起きないといいけどなあ」

 女子生徒にまぎれた彼女は、無意識のうちに呟いていた。



     ※



 寮の門をくぐった先は、広間のようになっている。今の時間はまだ、生徒たちが集まって談笑したり勉強したり、何が目的なのかじゃんけんをしたりしている。女子寮もだいたい同じ造りで同じ雰囲気なのだろう。フェイは鞄を持ちなおしたあと、何気なく横を見て、首をかしげた。

 クレマンがなにも言わずに佇んでいる。いつもなら、エルフリーデと別れてすぐに、自分の部屋に引き返すはずなのに。

「あいつさ」

 フェイが名前を呼ぼうとしたとき、クレマンが口を開いた。

「わかってたんだって」

「――え?」

 身構えつつ続きを待っていたフェイは、先の読めない言葉に戸惑って、眉を寄せる。クレマンは息を吸うと、高い天井を見上げた。

「俺が、ヒューゴさんに言われて、いじめようとしてたこと。最初から、気づいてたんだってさ」

「それって、エルフリーデのこと?」

「うん」

 クレマンがうなずく。フェイも首を縦に振る。ふだんはおっとりしている彼女だが、おそらく人の心の動きに気づきやすい女の子なのだろうとは、彼も思っていた。口をはさまず待っていると、隣の少年は、またうつむいた。

「でもさ。それなのにさ。泣きも怒りもしなかった。友達になって、って言ったんだ。変な奴だろ」

「さ、さあ。でも、エルフリーデなら言いそうだな、とは、思うよ」

「うん。俺な、それが、すげー嬉しかった。そんなふうに言ってくれる人、今までいなかったから」

 フェイは首をかしげる。それまで一緒にいた人たちは――と訊こうとして、やめた。一方的に誘われてつるんではいたが、友達ではなかった。そんなところだろう。

「だからさ」クレマンのささやきが続く。

「俺は、これからも、あいつと友達でいたい。けど、友達でいたいなら、けじめ、つけなきゃだめだよな」

「……そういうこと」

 隣の彼にも聞こえないほどの声とともに、ため息を落としたフェイは、頭を抱えた。どうしていいかわからない、とうなだれるクレマンをしばらく見てから、ゆっくりと手をさし出す。するとクレマンは、弾かれたように顔を上げた。

「なんだよ」

「ぼくでよければ手伝うよ」

「は?」

 疑いの声には、刃が混じっている。それでもフェイはほほ笑んだ。

「一緒に考えようよ。どうしたら、クレマンもエルフリーデも笑えるようになるか。うまくヒューゴさんから離れられるか。きっと、アニーも手伝ってくれる」

「いやいや。あいつはあり得ねえだろ」

「手伝ってくれるよ。『エルフィーの友達だから』とかなんとか言いながら、ちゃんとクレマンのこと考えてくれるよ。ほんとはそういう優しい子だから」

 だから、一人で背負いこまないでよ。フェイがそう言うと、クレマンは見る間に鼻を赤くして、目もとをぐしゃぐしゃにゆがめた。

「う、うるせー!」

「え……ええ!?」

「フェイのくせにかっこつけやがってー! この野郎!」

 思わぬ返しにフェイが目を白黒させている間に、クレマンは彼の頭をぽかぽか叩く。仮にも戦士科生の拳だが、力は入れていないのか、痛くない。

「おまえのこと泣き虫で弱虫でどうしようもねーヘタレだと思ってたよちくしょう!」

「ひどいな! 否定はしないけど!」

 今はともかく、昔はそうだったかもしれない。考えながらフェイが拳を受けとめているうちに、クレマンの痛くない攻撃はやんだ。彼はそれで気がおさまったのか、次に見たときにはいつものいばった顔で、腰に手を当てていた。

「そこまで言うならほんとにこき使うからな! 今さら嫌だとか、なしだからな!」

「はいはい。みんなで頑張ろうね」

 フェイが笑顔で言うと、クレマンは強く鼻を鳴らした。

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