6 紅玉を貫く
ロトの口調はあっさりしていた。アニーたちも、事前のやりとりを知っているから、不思議とは思わない。しかし、マリオンは眉をひそめていた。その理由も察しがつく。
今までは目がいかなかったが、ロトはすでに大小の傷やあざをあちこちにつくっていた。あの竜を間近で相手にするのだ、無傷で済むわけがない。さらにまずいことに、腕にあるのが腕輪ではなく、以前ポルティエで見た模様だった。マリオンが施したのだろう。
模様の意味するところは、ロトが一番わかっているはずだ。そのうえで、なおもおとりになると言い張る。便利屋の青年も、子どもたちに負けず、頑固だった。
ただ、口火を切ったのも、呆れていたはずのマリオンだった。
「剣士が二人に魔術師三人、うち一人はおとり、ねえ。どう動いたらいいかしら」
「とりあえず、やれるだけのことはやってみるか」
そうね、と言いながら、マリオンは竜にめがけて何かを投げつけた。今にも食いかからんとしていた竜は、口の中にその何かが投げ込まれると、不快そうにして動きを止める。
「何を投げたの?」
アニーが問うと、マリオンは「ただのとがった石よ」と、あっけらかんと答えた。あまりにも淡々としていてどう反応していいか、わからなくなる。子どもたちが顔を見合わせるのをよそに、青年たちは無言で気持ちのやり取りをしていたようだった。
マリオンが半歩前に出る。同時にロトが駆けだして――竜の濁った紅色の瞳が、目ざとくそれをとらえた。のっそりと体の向きを変え、鈍い動きに似合わず鋭く、翼を打つ。少し前から方陣を編んでいたマリオンが、できあがったそれを
「ね、ねえ、これ、ほんとに私が飛び乗れってこと?」
「そういうことだろ。とっとと行こうぜ。おもしろそうだから俺も手伝う」
アニーが、剣を確かめつつもしぶっていると、クレマンはにやにやしながらそんなふうに言う。かっと目をつりあげて「おもしろいとか言うな!」と怒鳴ったアニーは、けれど次には気持ちを切り替えた。剣の
「どこがいいかなあ」
広場に並ぶ建物は、ほとんどが半壊している。屋台も骨組みからひしゃげているものばかりだ。それでもと、しばらくあたりを見回したアニーは、広場の隅に植えられている一本の木に気づいた。今なお青々とした枝葉を広げる広葉樹。アニーとクレマンは、互いの顔を見合わせて、大きくうなずいた。フェルツ遺跡のことを思い出す。――木登りは、得意分野だ。
「よーし、じゃあ、行きますか」
「おう」
「わ、わたしもお手伝いするから!」
意気揚々と駆けだした二人の後ろから、エルフリーデもついてくる。アニーはさっと目を走らせ、魔術師部隊の動きを確かめた。そのあと、こちらを真剣に見ている幼馴染に目配せする。すぐに気がついた彼は、任せてとばかりに胸を叩いた。
木のまわりに人はいない。アニーはするすると、太い枝を目指して登ってゆく。一方クレマンは大きく手を振り、魔術師たちに合図した。とたん、ロトが魔術の花火を打ち上げると同時に、方向を変える。マリオンもあえて背後にまわり、青い軍服を気にする竜めがけて、何かを放っていた。
黒い竜は、じりじりと、木の方へ近づいてくる。暴力的な風を受け、枝がしなった。それでもアニーは気にとめず、その枝に腕と足をひっかけた。同時、下で何かが白く光る。――クレマンの剣だと、遅れて気づいた。
「おりゃあ! 来いよでかぶつ!」
「こ、こっちだよー」
乱暴に威嚇をする少年に便乗して、エルフリーデも魔力のかたまりをぽんぽんと打ちあげた。竜は魔力に反応したのか、一瞬彼らに目を向けるが、すぐに青年へ視線を戻す。魔女の《爪》もどきにとっては、彼の魔力の方が大事らしい。舌打ちしたクレマンの横で、エルフリーデが息をのんだ。
「じゃ、じゃあ、これで」
つい、と空中に指を走らせたエルフリーデは、三重の円でできた単純な方陣を編みあげる。すると、竜が爪をふりかざしたロトのすぐ前に、小さな防壁が現れて、弾いた。
時間が止まったように思った。目を細めた竜が、ゆっくりと首をもたげる。
エルフリーデたちの方に。つまりは、木の方に。
やった、と、アニーは口の中で呟いた。
竜が頭を持ち上げる。その瞬間、アニーは枝を蹴った。小さな体は、おぼえのある魔力の風に後押しされて、黒い影の方へと落ちてゆく。空中で器用に体を操ったアニーは、そして竜の鼻先にしがみついた。紅い瞳が見開かれる。
喝采をあげたのは、誰だったろう。アニーが竜の鼻をよじのぼっていると、ロトもマリオンもいないはずの方向から、光が飛んできた。竜の動きが鈍ったので、『白翼』の魔術師が動きだしたのだ。
竜はぶん、と頭を振る。光はそれたが、アニーはしぶとくしがみついた。紅い目の前で、剣を抜く。軽く作られた得物は、片手でも操れた。
息をのむ。力をこめて、刃を突きだし――それは、あの赤い玉にも似た目玉に、あっさりと弾かれた。
「うそっ!?」
上ずった声がする。アニーはそれが、自分のものだと気がつかなかった。竜がさらに激しく頭を振りだしたので、気にする余裕もなかったのだ。
目を攻撃してきた『何か』を追い払おうと、竜は頭を振り続ける。そこへ魔術がいくらか打ちこまれたが、ほとんどが黒い体に弾かれた。
アニーは歯を食いしばる。剣を持ちあげ、刃を下に向けた。鼻の頭に刺そうとした剣は、届くより先に少女の手から滑り落ちる。体が宙へ投げ出される。落ちたという自覚のないまま、アニーはただ落ちていく。
そのさなか、頭の奥で――何かが音を立てて外れた。
けたたましい金属音と、空中に放り出された人影で、地上にいた人たちは状況に気がついた。さあっと青ざめたフェイを視界の端に見いだしたロトは、次の瞬間、地面を蹴っていた。まにあえ、と繰り返し念じながら、竜の真下に滑りこむ。そこで竜が口を開いたが、吐きだされた力のかたまりは、女魔術師の放った炎に打ち消された。
降ってきた少女に手をのばす。ロトは、そのまま彼女を抱きこんだ。重みも衝撃も、歯を食いしばってたえると、背を低くして、竜の下から抜けだした。
「竜の目玉がそんなに固いとは思わなかったな……大丈夫か?」
ロトは、呆然と見開かれた碧眼をのぞきこむ。けれど、瞳は彼を映していなかった。うつろな色を目にして、肌が
「アニー! ロトさん!」
ちょうどそこへ、フェイが駆けてきた。戦場に飛びこんできたことを怒るより先に、ロトは彼を見つめた。――唯一、状況のわかる少年を。
フェイは二人を交互に見て、そしてだいたいの事情を察したらしい。アニーに呼びかけるつもりなのか、口を開いた。けれど、突然アニーが起きあがったことで、さえぎられる。
「アニー?」
「ちょ、おまえ――落ちつけ」
アニーはむくりと起きあがると、ロトの腕を押しのけはじめた。この状態で《爪》に立ち向かわせてはまずいと、二人は必死で止めようとする。しかし、ふだんの自分を押しこめてしまった彼女はいらだちをそのままに、近くにある手首を思いっきりにぎって、ひねった。およそ女の子らしからぬ怪力に骨をにぎられたロトは顔をしかめる。悲鳴をのみこみ、あいた手を少女の頭にのばした。
「何すんだ馬鹿! 戻ってこい!」
金色の三つ編みを軽くひっぱる。するとアニーが、はっと息をのんだ。穴にも似た両目に光が戻る。きょろきょろとあたりを見回した彼女は、自然に青年の手首から指を放していた。アニーが『暴れん坊』とそしられるゆえん。それがひとまずおさまったとわかって、ロトはアニーをおろしてやった。手首をさする彼を、アニーは怪訝そうに見上げる。
「あ、っと。助けてくれてありがと。どうかした?」
「……おまえな。あとで覚えとけよ」
アニーが首をひねる。隣にきていたフェイが、苦笑をのぞかせた。彼が起きたことを説明しようとしたとき、けれど、三人の後ろに人が立った。
「ねえ。何、今の」
震えのまじった呼びかけに振り返ると、マリオンとエルフリーデが立っている。三人は、特にフェイとロトは、息をつめて固まった。そうしている間にも、瑠璃色の目が、少女を見下ろす。
「ものすごい殺気を感じたんだけど……あれ、この子なの?」
「そういえば、マリオンは見たことがなかったか」
ロトは腕をくんで、おおげさに嘆息する。ポルティエでの調査のときには、アニーはかろうじて自分を保つことができていたのだ。会話する彼らの方を、竜が見る。マリオンはこっそりと編んでいた方陣を発動させて、火の玉を相手にぶつけた。それから、事情を説明する幼馴染と少年の声に耳をかたむける。だいたいを話し終わる頃には、マリオンの両目には理解の色があった。逆に、アニーがうろたえる。混乱に揺れる瞳が、男性にしては細い手首を見た。
「ね、ねえ。ロトのそれ、やったの、私?」
「だからあとで覚えとけっつってんだ。あ、赤くなってきた」
「ご、ごめんなさい! 手当てしなきゃ!」
「今はそれより《爪》もどきをどうにかしなきゃいけねえだろ」
アニーは、しゅんとうなだれる。フェイとエルフリーデが、困ったように顔を見合わせた。一方、マリオンはというと、冷静に《爪》をながめる。
「うん、だいたい理解できたわ。で、ロト、あたし思うんだけど」
「なんだ」
「アニーのその馬鹿力、うまく利用できないかしら」
瑠璃色が刃を宿す。
ロトは思わず目を細めた。
「どういうことだ?」
静かに問うと、マリオンはひとつうなずいて、ロトの手首を指さした。黒い紋様があるところだ。
「あんたさ。前に、自分から腕輪を外したことがあるでしょう」
「あれは――いつもの魔力量じゃどうにもならない案件で、しかも時間がなかったから」
マリオンが言ったのは、ロトが引き受けた依頼のさなかでの出来事だった。事が済んだあとに目の前の整備士にこってりしぼられたので、ロトももちろん覚えている。いきなり遠くない過去をほじくり返された青年は、目をそむけつつ呟く。その途中で、気づいた彼は、言葉を止めた。顔を上げたその先にいる幼馴染は、得意気な笑みを浮かべる。
「まさか、アニーに同じことをやらせろっていうのか?」
「そういうこと」
びょうびょうと風が吹く。獲物を探して首をめぐらす竜めがけ、次から次へと魔術の弾が撃ちこまれる。竜は軽く鼻を鳴らし、いともたやすくそれらを叩き落とすのだ。
アニーたちは、その様子を、高い所から見ていた。ただし、今度は木の上ではなく、建物。かろうじて形をとどめていた白い建物の屋上だ。
「だ、大丈夫かな……」
呟くと、足が勝手に震えだす。隣で太い木の枝をもてあそんでいたクレマンが、不思議そうに振り返った。
「よくわからないけどさ。おまえにそんな馬鹿力があるんなら、固すぎて刺せなかった目も刺せんじゃね?」
楽観的な言葉に、フェイが肩をすくめる。
「力はいいんだけどね。一歩間違えたら、クレマンも斬られるかもしれないんだよ」
「ま、そうでなくても殴るくらいはしそうよ。クレマン相手なら」
「いい度胸だな、この暴れん坊」
クレマンが、ぐっと目を細めてアニーをねめつける。アニーも負けじとにらみかえした。が、「けんかしてる場合か!」と、フェイに引き離されて、二人とも正面に向き直る。
空を見上げれば、半円の結界をとおして薄紫に光っている。そこを炎や黒い塊や弓矢が、次々と飛んでゆく。しばらく見ていると、それらが当てるために放たれているものでないことに、気がつく。
かたいものや熱いものを体にぶつけられ、いらだった竜が、飛んでくるものをにらみつける。瞬間、おぼえのある力の風が渦巻いた。
地面を彩った小さな方陣が消え、火薬にまじって温度のない光が打ちあげられる。白い華のようにぱっと開いた魔術の光は、こんなときでなければ見とれてしまいそうな美しさだ。
「きた」
エルフリーデが息をのむ。彼女は宙に指を置くと、真剣な顔になった。
クレマンがエルフリーデの前に立って剣を構え、フェイが残る一人の少女を振り返る。
「アニー」
「……うん」
やわらかい音に名前を呼ばれ。アニーはすっと目を閉じた。
暗闇だけがあたりを包む。不思議とまわりの音が遠ざかり、自分の心ノ臓の音だけが、ゆっくりと、聞こえてきた。
それでも、彼女は世界の中にいる。聞こえなくても、見えなくても、感じている。戦場の熱気を。人々の叫びを。圧倒的な、力のかたまりを。
にごった紅玉を思い出す。暴れ回る黒い姿を思い出す。自然と、奥底から、熱くてどろどろしたものがにじみ出てくる感覚があった。
手が冷たいものに触れる。どうしてこんなに怒っているのだろう、と、考えた。言葉を交わしたわけでもない、ただ倒すべき相手に、どうしてここまでむきになっているのだろう。悩んで、考えて、あるときふと、気づいた。
見下すような赤は、無遠慮な視線を思い起こさせ、狂った瞳を思い出させる。
暴れ回る黒の姿は――見えないけれど知っている、人の影を映している。
あの化け物は、他人であり自分なのだ。小さな少女に『暴れん坊』の名を授けた人々の目と、我を忘れて狂いそうな、危うい彼女の姿をあわせもっている。だから、こんなにも
熱が全身にまわる。かあっと頭に血がのぼり、目をつぶっているのに、視界がぐらぐらとゆがみはじめる。止める前に、指先が得物をにぎり――膝がみっともなく震えだした。
「い、やだ」
アニーは、気づけば声をしぼりだしていた。それでも手は勝手に武器をにぎり、鞘から引き抜く。目が開き、いびつな世界が映し出される。目の前に掲げられた短い刃を見、歯を食いしばった。
「いやだ……やだよ……」
銀色が震える。熱い何かが頬をつたう。
狂いたくない。傷つけたくない。このままうずくまってしまいたい。怖い、熱い、冷たい、どうしてこんな、言うことを、きいて。
だれか、助けて――
「大丈夫」
ふわりと、何かが頭をなでた。ひだまりのようなぬくもり。アニーははっと、横を見る。小さな頃からずっと一緒にいる少年が、穏やかにほほ笑んでいた。
「大丈夫、前を見て。何かあったら、止めてあげるから」
なんの根拠もない言葉に、けれどどこかを揺さぶられて、アニーは思わずしゃくりあげる。
「むり、だよ。そんなの、だって」
「無理かどうかなんて、わからないよ? だって、みんながいるもの」
「みんな……」
「うん。エルフリーデも、クレマンもそばにいるじゃない。その剣をくれたロトさんや、マリオンさんも、下で守ってくれてるよ。軍の人たちだって、今はぼくらの味方じゃないか」
少年はそう言うと、アニーの頭を抱くようにして引き寄せる。赤子をあやすような手の動きは、どこまでも優しい。
「彼らに比べたら、全然頼りないかもしれないけど、ぼくもここにいるよ」
だから、ね? 悪戯っぽく片目をつぶったフェイ・グリュースターを正面から見つめ、アニーははなをすすった。
――いつからこの子は、こんな顔をするようになったのだろう。こんなふうに、寄り添ってくれるように、なっていたのだろう。まだ小さかったあの頃は、泣き虫で、怖がりで、小さな男の子だったのに。今はその手が、とても大きく見えていた。
「うん……ありがとう」
アニーは指で涙をぬぐうと、改めて地面を踏みしめる。フェイの手が離れると、いつもの剣よりさらに小さい、短剣をにぎった。黒い竜がにらんでいる先にいるはずの青年が、彼女に貸し出してくれたものだ。
隣を見る。エルフリーデが、無心になって、宙に緑色の方陣を描きつつあった。彼女の前に立つクレマンは、時折こちらに向かってくる矢や竜の一撃を、器用に弾いている。戦士科なら誰もが持っている小剣は、もう、ぼろぼろだ。
――だからこそ、私がやらなきゃ。そう思えば、自然と肝が据わる。気づけば、全身を巡る熱はそのままなのに、頭は恐ろしいほど冷えきっていた。
見知った二人の魔術が、竜の首にぶつかった。竜がぎろりとそちらをにらむ。アニーから見て真正面に、くすんだ紅の両目がくる。アニーは一を数え終わるより早く、姿勢を整え、短剣を構えた。
「エルフィー!」
「……っ、アニー、お願い!」
呼びかけると同時、緑の方陣が完成する。それが輝きを放つ前に、アニーは渾身の力を短剣に注ぎ――
「いっ――けえ!!」
巨大な目に向かって、投げた。
同時に、エルフリーデの目の前で方陣が弾けて風に変わり、短剣を後押しする。小さな剣は、速度をゆるめることなく、竜の右目めがけて飛んでいった。
「撃て!!」
地上から、身がすくむほどの号令が届く。エレノアと、彼女の副官の声だった。地上でいっせいに方陣が瞬き、光の矢が撃ち出される。それは一条の光になると、竜の左目へと、吸いこまれるようにのびてゆく。
刃と光、剣と魔術は、ほぼ同時に、竜の目へとたどり着いた。
何かが砕ける音がしたのだろう。けれど、それは、アニーたちにはわからなかった。竜の激しい声が、すべての音を打ち消したからだ。暴力的な叫びに耳を痛めて、誰もがその場に立ちすくむ。
竜が暴れる姿を想像し、人々は、息をのんだ。
黒い竜は空中で全身をばたつかせると――力を失ったように翼をさげる。巨体が地上に落ちるよりも早く、魔力でつくられていた体が、ぼろぼろと崩れ落ち、破片となって消えてゆく。
ばらばらと砕けてゆく怪物を呆然と見送った人々は――やがて、その姿が跡形もなくなってしまうと、誰からともなく声を上げた。
意味のない叫び声は少しずつ連なって、歓声に変わってゆく。結界の外の人たちまでをもわかせた喜びのおたけびが、王都じゅうに響き渡った。
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