5 虚ろなる像を映すもの

 先ほどから、低い音が響き続けている。しかし、それは、火薬玉や鉄砲とは違う、もっと重くて厚い音だ。響くたびに、天地が揺れて、木くずや瓦礫が吹き飛ぶ。強烈な光がまき散らされる。怒った竜の攻撃は、本当に容赦がなかった。

 号令が飛ぶ。美しくまっすぐな銀色が、光を弾く。その瞬間、アニーは息を吸って、目を閉じた。

 息の詰まりそうなほどの熱気と、音と、声。そのなかは常に、死への緊張で満ちている。気を抜けばその瞬間、竜の炎に焼かれるかもしれない。瓦礫の下敷きになるかもしれない。軍隊の波にのまれてしまうかもしれない。

 これが戦場。かつて、遺跡で魔物を相手にしたときとは違う、集団で敵を殺すためのいくさ場。そこにいるだけで、彼女の意識は勝手に高まり、持っていかれそうになる。自分でない自分が、表れそうになる。――だからこそ目を閉じて、友達と『彼』の存在を、頭の奥に刻みつけるのだ。

「よしっ」

 目を開き、頬を打ち、剣を抜く。次の瞬間、まわりで控えていた歩兵たちが、いっせいに竜へとなだれこんだ。地上をうろつく生き物を殺さんとしている竜は、最初よりもかなり地面に近いところを飛んでいる。その攻撃が、今駆けだした彼らに集中しないのは、竜の足もと、一番危険なところで立ち回る青年がいるからだ。

「ロト!」

 軽やかに石畳を蹴りながら、アニーは考える前に名前を呼んでいた。今、竜の開かれた口のなかに石の棘を飛ばしたロトは、青い瞳をこちらに向ける。ちょうどそのとき、アニーは群の中から飛び出して、剣を薙いでいた。刃は竜の脚の、わずかに鱗のはげおちたところを切り裂く。竜に痛みを与えることはかなわなかったようだが、傷口から、黒い粒のようなものがこぼれて消えた。

 長く竜を観察していたアニーにはわかる。黒い粒こそが、竜を形作る魔力だと。わずかでも削ぎ落せれば、御の字だ。たん、と足で地面を叩いて後ろに下がる。そのとき、ロトが彼女の名前を叫んだ。

「アニー! 遺跡で言ったこと、覚えてるか?」

「いっぱいあって、どれかわかんない!」

 声をふりしぼって言い返すと、彼はにやりと笑ってみせた。

「俺は魔術をあまり使えない。頼りすぎるな。だからこそ――俺は、おまえらをあてにしてる! 頼んだぞ!」

 アニーは息を吸った。懐かしい光景が、音が、弾ける。気づけばアニーも、顔いっぱいに笑みを広げた。

「任せて!」

 強く答えて、軍人の中に飛びこむ。ここは真の戦場だ。何が起きるかわからない。それでも少女は、長年もてあまし続けた力を大切な人々のためにふるうべく、魔力の竜へと挑んでゆく。


 刀剣を得意とする歩兵たちが動きだすと、あたりはあっという間に乱戦状態となった。もう、かく乱のために走り回っているロトの姿も見えない。ときどき、ものすごい速さで編まれる方陣の光で、彼の影を感じられるだけだ。

 感覚としては、フェルツ遺跡に潜ったときと、よく似ている。それよりももっと危うい感じさえした。うっかり、頭の中のたがが外れそうになるのをおさえながら、必死で体を操り、剣をふるう。子どもの力と弱い刃では、竜に痛手を負わせることはかなわない。彼女にとってはそれが歯がゆくてしかたがなかったが、嘆くよりも生き残る方が大事だと、言い聞かせ続けた。

「おい。アニー・ロズヴェルト! 突っこみすぎんなよ!」

 ざわめきをかいくぐり、乱暴な声が背中を叩く。アニーの振り返った先には、同じように剣を手にして駆ける、クレマンの姿があった。いつのまにか弓兵隊を抜けてきたらしい。あっという間に追いついて、隣へ並んだクレマンへ、アニーは人の悪い微笑をおくった。

「そっちこそ、へましないでよ。エルフィーを泣かせたら、許さないんだから」

「うっせえ! おまえこそ、優等生にべそかかせんじゃねえぞ」

 二人は一瞬だけ笑いあい、それぞれに竜の脚を狙う。どうも剣撃が効かないとわかると、クレマンはアニーへ目配せをしてきた。うなずいたアニーは、少しだけ後ろに下がってから走り出す。助走をつけて飛びあがり、うまくかがんだ少年の肩を蹴った。あえて自分の中の熱を呼びだすように叫びながら、後ろ脚の付け根に渾身の一撃を叩きこむ。アニーが着地を決めると同時、クレマンも黒い魔力の割れ目を斬った。

 竜のからだが動く。はじめて、小さな邪魔者に気づいた《爪》のまがい物は、緩慢に尾を持ちあげた。

 先に気づいたのは、アニーだ。

「まずい、クレマン、下がって!」

 ぶお、と風が鳴る。人が紙くずか何かのように飛ばされて、あちこちから悲鳴があがった。しなやかな黒い尾は、そのまま大きく振り抜かれると――頭を低めて走っていた子どもたちをも、打ちすえた。

 アニーは無意識に、受け身の姿勢をとっていた。視界が反転する。目の前がまっしろになる。鈍い痛みは、背中をぞっとなであげた。

「っ、アニー!」

 うめき混じりの呼び声が聞こえる。アニーはぐらつく頭をむりやり動かし、悪ガキの無事を確かめた。彼は直撃をまぬがれたらしいが、吹き飛ばされた拍子にどこかを打ったのか、顔をしかめている。それでも彼は体をひきずり、剣を拾って駆けてきた。

「大丈夫かよ、おい! 本当にフェイを泣かせる気か、馬鹿!」

 声が遠い。人影がかすむ。それでもアニーは頭を持ち上げ、少年を見た。

「ばかは、どっちだ……そんなわけ、ないじゃん」

 しぼりだせた声は、思った以上にかすれていた。がむしゃらに手をのばして、金属の柄をつかむ。なんとかにぎれた得物はけれど、横から伸びてきた手にとりあげられた。

「ちょ、何すんの」

「いったんしまえ」

 彼はてきぱきとアニーの剣の鞘を外して、その中に本体を収めてしまう。すると、彼女が文句を言う前に、その体を「ふんぬっ」などと言いながら持ちあげて、駆けだした。ちょうどそこへ、次の歩兵と砲撃部隊がなだれこんでくる。横抱きにされたままそれを見たアニーは、ぞっとした。あそこでもがいていたら、軍靴に次々と蹴り飛ばされていたに違いない。そうでなくとも、竜の尾につぶされていただろう。

「ごめん、ありがと」

 しおれたアニーがそう言っても、クレマンは答えなかった。ただ、鼻を鳴らす音が聞こえた気がした。


 いまだ人がひしめく場所に来る。広場から通りへ続くはずの場所だが、今その道は結界で閉ざされている。そこでクレマンが立ち止まると、アニーはおろしてとせがんだ。彼にしては珍しく、すなおにお願いをきいてくれる。

 剣帯けんたいに鞘をめなおしたアニーは、改めて、頬を叩いた。それを見ていたクレマンが、剣に向けていた目を上げる。

「平気か? ちなみに俺は背中が痛い」

「あちこちがすっごい痛いけど、大丈夫!」

 アニーが謎のやる気を出して答えると、クレマンは「ほんとかよ」と肩をすくめる。しかしながら、戦わずにひっこんでいろとは、言わなかった。

 二人は中心に目を向ける。竜と軍人たちは、なおも激しい攻防を繰り広げていた。

「さーて、どこに割って入るか」

「もういっそ、喉の奥に突きを入れられたらいいのに」

「おまえ馬鹿? 食われるぜ」

 ふだんの口げんかよりいくらか穏やかなやりとりは、けれど答えを導き出してくれるわけではない。二人は、顔を見合わせてうなっていた。だが、ふいにクレマンがアニーから目をそらす。

「ん?」

「どうしたの?」

「あれ――」

 彼がみなまで言う前に、アニーも気づいた。広場に散らばる瓦礫を、危なっかしい足取りで駆けてくる、少女がいる。

「アニー! クレマンくーん!」

 エルフリーデは、二人に向かって大きく手を振ると、言葉を続けた。

「大丈夫? 戦える?」

「全然平気だけど、どうしたよ」

「フェイから伝言があるの!」

 思いがけない名前と内容に、二人の問題児は目を丸くした。



 フェイは、エレノア・ユーゼスという人をよく知らない。けれど、常識として、彼女の名前は知っていた。『白翼の隊』の隊長、王国史上初の女性で魔術師の将官、そして「グランドル一の魔術師」。

 グランドル一は今となっては言いすぎだ、というのが本人の言い分らしいが、とにかくすごい人には違いない。

 解析部隊と竜の分析に没頭しているさなか、そのすごい人が爽やかに殴りこんでくれば、当然、緊張するだろう。双眼鏡を取り落としそうになったことは、責められる話ではないはずだ。

――などと、ぐるぐる考えているフェイをよそに、いきなりやってきたエレノアは隊士を見回し、「訊きたいことがある」と言い出した。彼女は、解析部隊を端から端まで駆けまわり、何かを早口で質問している。そのたびに難しい顔をする軍人たちを、フェイと、隣にいるエルフリーデは、呆然と見ていた。

「もう。あんなに早口じゃ、自分の部下はともかく、この子たちは聞きとれないっての」

 頭上から能天気な声が降ってくる。フェイとエルフリーデは、そろって飛びあがった。おそるおそる見上げると、瑠璃色の瞳が楽しげに、二人を見下ろしていた。懐かしい顔に、二人は驚きを隠せない。

「あれ、マリオンさん!」

「王都にいらしてたんですね」

 二人が目を輝かせると、マリオンは、久しぶりー、と手を振る。相変わらずな様子の彼女に、フェイはそっと問いかけた。

「それで、あの。マリオンさんは、ユーゼス少将が何を訊いてまわっているのか、知ってるんですか」

「ええ。まあね」

 答えたマリオンは、こぼれおちた黒髪をすくいあげて耳にかける。それから、二人に問いを投げかけた。

「『光を弾くもの、そして光を通すもの。虚ろなる像を映すもの』――これがなんだか、わからない?」

 二人は、とっさにものが言えなかった。しばらくの沈黙のあと、フェイがそろりと手をあげる。

「えっと、言葉遊びですか?」

「違うわねー。残念ながら。たぶん、あの魔女の《爪》もどきを倒す手がかりになるの」

 思いがけない言葉に、エルフリーデが真剣な表情になる。けれど、すぐに顔をまっ赤にして「わからない……」とささやいた。フェイもしばらく考えてみたが、なかなかぴんとくる答えが浮かばない。

「光を弾くとか、光を通すとかは、硝子っぽいなって思うんですけど……うつろなる像、って、なんですかね」

「うーん、像を映すってことは、鏡とか?」

 女性二人が、それこそ鏡のように首をかしげあう。その横で、フェイはぶつぶつと呟いていた。

「鏡、光……うつろな像……虚像?」

 最後の言葉に行きあたった瞬間、頭の中で火花が爆ぜる。気づけば、息を止めていた。フェイがかたまったことに気づいた二人の視線を受け、彼も我に返る。とっさに吸った空気は、煤のようなにおいがした。

「それ、もしかしたら――目、かもしれないです」

「目?」

 マリオンは、裏返った声で反芻する。フェイはうなずいた。

「最近出版された、医学の本に書いてありました。目は、あらゆるものから出ている光を受け取って、その光によって像が結ばれることで、ものを映しているんだって。さっきの不思議な言葉は、そういう意味を持っているんじゃ、ないかと」

 少年の声は、じょじょに小さくなる。フェイが見たのは無名の医者の論文で、しかも新しすぎる学説だ。どうにも自信が持てなかった。しかし、話を聞いた二人は、フェイに尊敬のまなざしを注ぐ。

「フェイ、すごい!」

「なるほどねー。はじめて聞くけど、そういうしくみだって言われると、腑に落ちるわね。試してみる価値はありそう」

「本当ですか?」

 驚いたフェイの言葉を肯定すると、マリオンは空をあおぐ。竜の目は、濁った赤色だ。そこにはまだ、傷ひとつついていない……はずである。竜じたいに攻撃を加えることも難しい。そのうえ目だけを狙うとなると、至難のわざだ。けれど彼らは、まったくひるんでいなかった。

「よしわかった。あたし、エレノア――『白翼の隊』の隊長さんに、この話をしてくるわ」

「はい! あ、アニーとクレマンにも伝えなきゃ」

「じゃ、じゃあ、わたしが行ってくる。ちょっとした防壁なら張れる、はずだし」

 役割を確かめあった三人は、それぞれの場所に戻ってゆく。駆けだす二人を見送りながら、フェイは必死で、幼馴染の姿を探した。



「目かあ。きっついよね」

「難しいな。どうやれってんだ。弓でも顔に届かないと思うぜ」

 フェイのひらめきを伝えられたアニーたちは、そろってうなった。意気込んでいたエルフリーデも「だよね」と肩を落とす。

 目を狙う難しさは、武術をやっていなくてもわかるはずだ。現に、エルフリーデはうんうんと考えこんでしまっている。きっとフェイも、マリオンも、理解はしているのだろう。けれど、その可能性に賭けるほかに、打つ手がないのも、確かだった。

「可能性があるとすれば、魔術、かなあ」

「あとはおまえが竜の鼻っつらに飛び乗るとかな」

「無茶いわないでよ」

 アニーはぶすっとして返す。クレマンは、けたけたと笑ったので、とりあえず軽く拳を頬に押しつけておいた。

 それから三人で話しあった。結局は、竜のそばまで行かないとどうにもならない、という結論に落ちつく。アニーとクレマンのけがを気にしつつも、彼らは前線への突撃を敢行かんこうしたのだった。


 竜の下の石畳は、もはや原型をとどめていない。それでも人々は、あきらめずに竜へと飛び道具を放ち、刃を向けていた。そのたびに黒いものがもやのように散るが、姿が崩れる気配はなかった。

 アニーたちが下まで駆けたとき、竜の咆哮が耳を打つ。こらえきれずに、うずくまった。

「ほんと、どうするんだ?」

「剣を抜くのも難しい……っ」

 魔女の《爪》もどきは、よほどお怒りらしい。絶えまなく叫び声で空気を震わせ、人々をじりじりと広場の端へ追いやってゆく。すぐ近くにいるアニーは、耳の奥にしびれを感じてぞっとした。

 とうとう鼓膜が破けるかもしれない、という考えがよぎったとき、温かい風が頬をなでる。風が自然のものではないと気づいたときには、竜の叫びが遠ざかっていた。

「え? なんだ、これ」

 ふらふらになりながら立ち上がったクレマンに、エルフリーデが「魔術ね。風を起こして音をさえぎったんだと思う」と、感じいった様子で言う。そして、アニーは――風を起こした人にすぐさまあたりをつけ、竜の足もとに目をやった。予想どおり、青年が仏頂面で立っている。かたわらには、彼の幼馴染の女性もいた。

「ほれ、ガキども、しっかりしろ」

 術者だからだろうか、それともそういう式を組んでいるのだろうか。ロトの声は、驚くほど鮮やかに響いた。

「あ、兄ちゃん」

「目を狙うんだろ? マリオンから聞いた」

 突然のことにほうけるクレマンをよそに、ロトは歩みよってくる。それから、竜の尾の方を指さした。

「もう、エレノアにも伝わってるから、『白翼』の魔術師たちもそのつもりで動くと思う。おまえらは、どうする?」

 風の幕をすり抜けて、かすかに鋭い音が届く。弓兵隊が、再び竜にむかって矢を放ちはじめたのだ。そのかたわらでは、白い翼の胸飾りをつけた人々が、せわしなく動き回っている。前の方に出てきたのは全員魔術師なのだろうか。いずれも、魔術師というより武人の顔をしている。

 彼らに任せることもできるだろう。けれど――頑固な子どもたちは、それをよしとしなかった。

「アニー、クレマンくん、やるの?」

「当然、俺たちは俺たちでやるに決まってる」

「うんうん。クレマンにしては話がわかるじゃない」

 拳をにぎって決意をかわす、少年少女。彼らを見た魔術師二人は、苦笑した。

「ま、そう来ると思ってたわ。フェイもやる気みたいだし」

 マリオンが、笑顔で手を広げ、ある一点を示した。人の群の一番前に出たフェイが、双眼鏡を構えてこちらに手を振っている。

 彼もまた、戦うつもりなのだ。

「じゃあ、行くか」

 ロトのそっけないかけ声がかかる。彼がひらりと手を振ると、風がふわりと散っていった。音の波が、一気に押し寄せてくる。少しの間ひるんだ彼らはけれど、気を取り直して竜を見上げた。

「行くか、って言われても。どうしよう」

「俺がおとりになるから、アニーが飛び乗れ」

「なんでそうなるのよ!」

 アニーは、歯を見せて怒鳴ってしまった。クレマン・ウォードはどうしても、竜の鼻先にアニーをのせたいらしい。冗談めかしたやりとりに、けれど神妙にうなずく人がいた。

「それ、いいかもな」

 ロトの言葉が、戦場にぽつりと落ちる。子どもたちは「ええっ!?」と目をむいてしまった。彼の方は、冗談のつもりはないらしい。真剣な顔のまま、クレマンを見た。

「ただし、おとりになるのはクレマンじゃあない」

「え? じゃあ誰――」

「俺に決まってんだろうが」

 ロトは、あっけらかんと言い放つ。クレマンは、目を落っこちそうになるほど大きく見開いて、けれどロトがおとりを引き受けていたことを思い出すと、そのまま口をつぐんだ。

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