3 黒い竜との戦い

 名前を呼ぶ声は、みっともなくかすれていた。けれど、体の縛りを解くにはじゅうぶんだった。アニーは唇のわななきをそのままに、剣を抜く。力の差や死ぬ恐怖を考えるより先に斬りかかろうとして、踏みこんだ。その瞬間、竜の目の前で光が弾け、その巨体が軽く突き飛ばされる。いつの間にか、ロトの前に薄い円板のようなものが現れて、竜をさえぎっていた。

「なるほど。おまえ、そんなに呪いの力が欲しいか」

 魔力を灯したロトの五指と、頑強な竜の頭が、円板ごしにせめぎ合う。青年は、流れ出る魔力に顔をしかめながらも、むりやり口角を上げた。

「残念だったな。俺も、『漆黒の魔女』も、おまえみたいなまがい物に魔力をやるほど……お人好しじゃ、ねえんだよ!」

 言葉の隙間を縫って、あいていた左手が軽快に空を叩く。言葉の終わりとともに方陣ができあがり、光を放って氷の塊をうみだした。氷は術者の手を離れると矢のように飛び、竜のやわらかな腹をえぐる。竜は、声を上げて空中へと舞い戻った。

 あたりから、感嘆の息がこぼれる。同時にアニーは、叫んでいた。

「ロト、大丈夫!?」

「平気だよ。おまえらはとっとと行け。――エレノア!」

 いつもどおりに無愛想なロトは、そのまま軍刀を構えていた少将を呼ぶ。彼女は隊員に攻撃命令を飛ばしたあと、ロトを見返した。彼女が「なんだ」と言うと、ロトは無言で彼女を手招きする。エレノアが駆け寄ると、声を落としてささやいた。

「あれは《爪》に似せて作られてるけど、どうも不完全みたいだな。魔女から魔力が送られてくるわけじゃねえから、自分を形作っている魔力を削ぎ落されたら消えるんだ。たぶん、今、それを補うために、すでに呪いを受けている俺を食らって魔力を補てんしようとしてた」

「なるほど」

 冷静にうなずいたあと、エレノアは息をのみ、奥歯を噛みしめる。「それが狙いか」というささやきは、耳のいい子どもたちにだけ届いて、彼らの顔をこわばらせた。対して、ロトは静かにうなずく。

「そういうわけだ。だから、それを逆手に取る」

「逆手に取る?」

「俺が、おとりになってあれを引きつける。その間に魔力なり砲弾なりぶちこんで、あれの魔力を削ぎ落してくれないか」

――その言葉に、彼のまわりにいた誰もが凍りついた。アニーは眉をつりあげる。けれど、子どもたちが怒りをぶちまける前に、エレノアが顔を険しくして、青年に詰め寄った。

「馬鹿なことを……! 自分が何を言っているのか、わかっているか!? 呪いがない状態ならまだしも、その体で」

「わかってる。でも、それが一番確実だろうが。俺が魔力を振りまいとけば、《爪》もどきはそれを無視できない」

「正気か。――の思うつぼだぞ」

 叫んだあとに、声が低くなる。エレノア・ユーゼスの、刃のようなまなざしを前にして、ロトは一歩もひかなかった。むしろ、不敵な笑みを刷く。

「踊らされるふりをするんだよ。俺が死ななければ、思惑どおりにもならんだろ?」

 アニーたちは、きょろきょろと互いを見比べる。ガイ・ジェフリーが凍りついているため、せかされることもなかった。

 まだ魔術が効いているのか、もだえる竜。その巨体に、弓や炎や石が容赦なく叩きこまれる。翼を集中的に狙うそれに、竜がいらだちをあらわにした。轟音があたりを包むなか、女性のため息は場違いに響く。

「まったく。君も、少年たちのことを言えんぞ」

「悪い」

 ロトが、悪びれもせず頭だけを下げると、エレノアは、ひらひらと両手を振った。

「わかった、わかった。その方針で軍を動かす。ただし、うまく立ち回れよ。君に何かあったら、北の子らに合わせる顔がない」

 ああ、とロトが答えて竜をにらむ。ようやく場の空気がゆるみ、エレノアが軍隊のただ中へ駆けだした。同時にガイも、ぼうっとしていた子どもたちを手招いて走り出す。

 竜が高く、咆哮する。その真下で、青年が挑発的な笑みをこぼす。戦場が、動き出そうとしていた。



 どおん、と低い音がして、地面が大きく揺れる。たたらを踏んだアニーはけれど、すぐに気を取り直した。黒い翼のある方を見れば、すでにおとりをになった青年が、軽やかに駆けだしている。彼の狙い通り、竜はそちらにぐるりと目を向け、彼の方を追いかけはじめた。

 細い手が、自然、腰にのびる。今すぐにでも剣を抜いて戦いたい衝動にかられる。けれども、今は、我慢だ。アニーの剣では、今の竜には届かない。アニーは気分をまぎらわすつもりで、青い群衆の中を見回し、おぼえのある人影に目をとめた。挨拶もそこそこに、隊士から弓を手渡されたクレマンは、しばらくおぼつかない動作でつるをひっぱったりゆるめたりを繰り返していた。しばらくすると、構えをとる姿も様になってくる。きっと、体が覚えているのだろう。

「いいなあ。私も、弓、習おうかな」

 のんきなことを呟きながら、アニーは自分と同じ刀剣使いの軍人たちに混じり、竜の動きを逃すまいと観察をする。隣に来た女性の軍人から双眼鏡を受け取って、ときおり透明な窓を通して空を見た。

 一見平和なやり取りの間にも、竜への攻撃は続いてる。弓矢に炎や鉛が混じる。竜はそれらをいらだたしげに翼ではたき落した。空中で爆ぜる炎に悲鳴が上がるが、それらの多くは、石畳にぶつかる前に浮かびあがる方陣に弾かれる。光の図形は、たえまなく生まれては消え、また描き出される。地面に広がる芸術品めいた光の図形に、少女は小さく息をのんだ。

 魔術師がここまで集まることなど、めったにない。


 これが魔術師部隊、『白翼の隊』か――

 言いようのない震えが、襲ってくる。


「――そらあっ!」

 感情の渦にのまれていた、アニーの意識を引き戻したのは、クレマンの声だった。威勢のいい叫びにかぶさって、風切り音が聞こえる。ひょうっ、と飛んだ太い弓矢は、竜の翼に当たりこそしたものの、きょうじんなそれに弾かれる。

「だー、くそっ!」

「やはり、魔術でもう少し弱らせないとだめか」

 汗だくで叫ぶクレマンの横で、年かさの中尉が歯噛みする。

 はじめて扱う弓で、あそこまで飛ばせるクレマンはかなりすごい。アニーはすなおにそう思うのだが、いかんせん、手放しでほめてあげられる状況でもない。これが終わったらいろいろ聞いてみよう。思いながら、双眼鏡を構える。

 竜の表情はわからない。それでも視線は、ロトが逃げ回っている方向にむいている。よし、とうなずいて地上に目を戻すと、クレマンが新たな矢をつがえようとしているところだった。同時、遠くで、ひょう、と火薬玉の飛ぶ音がする。ゆっくりと弓を構えたクレマンが、目を細める。

「待って、クレマンくん!」

 人の群をすり抜けて、高い声が響いた。少年の手が止まる。アニーと彼は、同時に振り向いた。といっても、クレマンは視線だけで後ろをうかがっている。

 結界の縁にいるフェイが、両手で大きくバツ印をつくる。次の瞬間、隣でかがむエルフリーデの、目の前の地面が輝いた。――方陣だ。

 アニーははっとして、竜の方へ目を向ける。先ほど狙われた翼に、炎の矢が飛んで刺さった。黒い竜がうっとうしげにかぶりを振る。

「今だ!」

 フェイと、アニーが、知らず同じ時に叫んだ。クレマンがうなずいて弦をひく。きりきりと鳴った矢は、少年の指が弦から離れると、鳥より早く飛び出した。炎が消えたばかりの翼に、吸いこまれるようにして矢が刺さる。すると、竜がわずかながら叫び声をあげた。軍服の集団から歓声が上がる。

「っしゃあ!」

「やるじゃねえか、あのガキども!」

「油断しないでください、まだあれはこちらに降りてきていません」

「次、構え!」

 最後の鋭い叫びは、子どもたちの知らない声だった。けれどもそれを合図に、騒いでいた軍人たちが、いっせいに構えを取る。徹底的に洗練された動きは、まさしく完璧な軍隊のものだった。

 その後も集中的な攻撃は続く。エレノアのいう『最前線』には魔術師が多いのか、竜の足もとでは何度も円環が表れては消えていた。けれども、矢を受けても弾を受けても術を受けても、竜は痛がるそぶりをほとんど見せない。当然、彼らの方に降りてはこなかった。

「これ、きりがないな」

 誰かがあらい息の下でささやく。アニーの中にもあせりが募った。戦うためにこの場にいるはずなのに、戦えないことのもどかしさ。うずく心に誘われて、体が自然と震えだす。


 しかし、幸か不幸か、間もなく竜が動いた。

 せわしなかった羽ばたきが、突然、ゆっくりになる。そうかと思えば風が渦巻き、誰もがとっさに顔を覆った。そして、覆いを外してみたときには、竜が彼らの方を向いていた。戦場の空気が凍りつく。容赦がなかった砲撃も、つかのまやんだほどだった。

 口がひらく。ずらりと並んだ大小の牙が見える。その奥にたまった力の気配を、大人も子どもも関係なく、誰もが感じて青ざめた。

「あ、れ」

 アニーはおののいた。声を出したのが、自分だったのか、軍人だったのか、クレマンだったのかもわからない。ただ、口の中がからからに渇いて、喉がぎこちなくつまった。

「――伏せてください!」

 アニーがなんとか動けたのは、空気を切り裂くような、エルフリーデの声がけがあったからだ。考える前にしゃがみこむ。頭を抱える。こういうとき、君らは身を守ることに集中しろ、というのは、ガイ・ジェフリー大尉からの言いつけだ。

「魔物と同質の……いえ、もっと強い攻撃がきます! 備えて!」

 同じように頭を抱えているのだろう。少しくぐもった、しかし戦場に響き渡る、フェイの声がする。すかさず魔術師たちが動きだしたのか、あたりの空気が揺らぐ。

 風が高く鳴き、低くうなる。遠くで熱がうずまいて、つかのま、視界がゆがんだ。鳴ったのは何か。光がまぶたの上で弾ける。魔力が固まって熱をさえぎるが、それすらも、不安定に揺らいでいるようだった。

 魔術の防壁をかいくぐって、轟音と衝撃が伝わってくる。全身がめちゃくちゃにかきまぜられる感覚の中、アニーは絶望的な言葉を聞いた。

「まずい、破られる!」

 すぐ後、硝子がらすが割れるような音が響いた。

 だが、アニーたちが予想していたような痛みや熱は、やってこなかった。

 おそるおそる目を開ける。見えたのは、薄緑色の膜。すぐそばで、息をのむ気配が伝わってくる。アニーもまた、叫びをのみこんだばかりだった。

 その薄い緑色からは、なじみのあるふたつの気配が感じられたから。



     ※



 低い建物によじのぼったロトは、たいらな屋根から、戦場を見おろしていた。

 続けざまに打ちあげられる、魔術や石や弓。ときどきそこに、黒い玉やなまりだまが混じる。そのたびに、こげた臭いが鼻をついた。しかし、それだけの攻撃を一身に浴びている黒竜は、いっさい彼らを気にしない。赤い両目は、先ほどから、ロトばかりをとらえている。

 やれやれ、と、ロトは肩をすくめた。

「おとりになるつったのは俺の方だけど……そこまで執着されると、嫌になるな」

 言いながら、足もとを蹴った。逃げだしたロトを追って、まがい物の《爪》が飛ぶ。逃走と追走。何度も繰り返されたことだ。ロトが、屋根を蹴って隣家に跳び移ったとき、竜の腕が勢いよく振りおろされる。ぎりぎりでそれをかわしたロトは、着地と同時に方陣を編みあげて、氷の針を放った。竜の鼻先めがけて放ったそれは、わずかな痛みも与えることなく、鱗にぶつかり砕け散る。

 知らぬうちに、舌打ちがこぼれた。

「やっぱ、腕輪してるとこんなもんか」

 左手で、右の腕をなでる。そこにある、確かな、冷たい感触。

 腕輪をもどかしく感じるのは間違いないが、かといって、これを外せば間もなく身動きがとれなくなるだろう。それだけの力があるのだ、『漆黒の魔女』の呪いには。

 青年はかぶりを振り、もやに似た雑念を、追いだした。赤い瓦を蹴って走る。すぐ後ろから、重い風の音がした。

 竜の爪をかわす。そのたびに、瓦や石が砕け散る。それでもロトは構わない。ただ、おとりとして自分の身を守る。それだけのために術を編み、慣れない小剣をふるって、ひたすらに走った。

 どれくらい経った頃だろう。爆音とともに、竜の体が大きくかたむいた。あまりにすさまじい音に、ロトは思わず振り返る。そのとき、竜の目が不気味にぎらついたことに気づけなかった。彼が、音と巨体に気を取られているその隙に――五爪がまた、振り下ろされる。

「しまっ……!」

 ロトは慌てて飛びすさる。直撃はまぬがれたが、太く鋭い一撃は、とっさに立てた腕をかすった。痛みと熱が走り、赤い血がそこらに飛び散る。不快な音にまじって、金属音が鳴り響いた。

 ロトはどきりとして、足もとを見る。点々と落ちる血の雫、そのなかに、銀と緑の破片が散らばっていた。右腕を見ると、腕輪に大きな爪痕が刻まれている。

 悪態をつくひまもなく、頭が揺れて視界がぶれた。ロトはこらえきれずに膝をつき、それでも竜から目を離さなかった。獲物が弱ったことに気がついたのだろう、竜はよろこぶように、口を大きく開けた。

 あ、これはまずい。他人ひとごとのような言葉が、青年の脳裏を走る。

 どうやって切り抜けようか。考えを巡らせた次の瞬間。

 背後で光が瞬いた。その光が固まったかのような球がみっつ、ロトの頭上を通りすぎて、竜の額にぶつかる。魔女の《爪》に似た黒竜は、生まれてはじめて、苦痛に身をよじった。

 ロトは、あっけにとられて固まる。しかし、体に反して頭は状況をわかっていた。

 感じる魔力はあまりにもなじみ深く、温かいものだったから。


「ったく、懲りないわね、あんたは。こんな状況じゃなきゃ、七日は家から出るなって言うところよ」


 高い靴音とともに聞こえたのは、呆れを多分に含んだ言葉だった。後ろを向いたロトは、思わず頬をゆるめてしまう。長い黒髪をなびかせる助っ人は、切れ長の目をじっとりと細めた。

「ちょっと、反省する気ある?」

「あるよ。ただ、今はそのときじゃない。反省も説教も、後にとっとけ」

「――はあ。しかたないわね」

 揺らぎの少なくなった頭を振って、ロトは立つ。ため息を落としたマリオンが、彼の隣に並んで、竜を見上げた。瑠璃色の瞳には、畏怖の念も、ましてやおびえの影もない。ただ、ほんのわずかな怒りの炎がちらついていた。

「それで、なんなの? この腹立たしい魔力を漂わせてるとかげは。ご丁寧に体の色まで黒ときた」

「……おまえも、こういうときは容赦ないな」

 いきなりの毒舌に、ロトでさえもたじろいだ。竜は、少し警戒しているのか、動こうとしない。ロトは気を取り直して言った。

「馬鹿な反体制派の魔術師たちが作った《爪》もどきだ。俺の呪いを狙ってきたり、民家を壊しまくったり、いろいろめんどくさい」

「はあ?――ああ、なるほど」

 マリオンは素っ頓狂な叫び声を上げたものの、すぐに腕をくんで、うなずいた。

「あんたの力で《爪》もどきをさらに強くして、手に負えないようにする。それにより、呪い持ちのあんたを受け入れた、現国王および『白翼の隊』を非難する。ついでに、立場を厳しくして今の地位から引きずりおろす、ってところかしら? くだらないこと考える奴もいたものね」

 ロトは目をみはった。彼とエレノアがたどり着いた結論をあっさりと言いあてる幼馴染に、ただひたすら感心する。だが、いつまでもひたっているわけにはいかなかった。

 彼が吐息をこぼしたとき、竜がぐうっと身じろぎした。それに合わせて風が巻き上がり、さしもの二人も身構える。竜はゆっくりと体を反転させ、地上をにらみつける。巨体のまわりに渦巻く魔力を感じ取り、二人はさっと表情をひきしめた。

「ほう、あたしに恐れをなしたのかしら?」

「みたいだな。矛先をあっちに向けることにしたらしい」

 マリオンのおどけた物言いに、ロトも肩をすくめて答える。それからすぐ、宙に手を置いた。

「マリオン」

 青年の呼びかけに、女魔術師は無言で振り返る。しかたない、とばかりにほほ笑んだ彼女もまた、虚空に指を滑らせた。

「何をするの?」

「――あそこに、防壁を張る。いけるか?」

 ロトはそう言い、あいた手で青い群を示す。マリオンは、静かにうなずいた。

「余裕よ。ただし、細かい式と座標指定はロトに任せる。時間がないからね」

「ああ」

「じゃ、いくわよ」

 彼女のかけ声が終わるかいなかのところで、魔力の灯火をまとった二人の手指が、宙に図形を描きはじめた。

 間もなく、竜の口腔こうこうに力がたまり、吐きだされる。光が帯をつくったところで、精密な方陣がふたつ、空中にできあがった。

――陸で張られた防壁が砕けるとともに、方陣が輝きの粒となって散る。あとには、人々を包むように広がった薄緑の膜が残った。

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