第四章 まがい物の獣
1 やるべきこと
遠くの空に見える、黒竜の姿に気づく。ルナティアは、屋根の上でほほ笑んだ。赤い唇が三日月を描き、楽しげにゆがんだ瞳は渡された飾りひもなどには目もくれず、ただ空を占領する魔力の獣に向けられている。
足音が聞こえても。時代がかった上衣のすそが視界の端に入ってきても。彼女はそれから目を離さなかった。
「どうだ、成功か」
「一応ね」
訊かれてはじめて、答える。答えたとたん、たとえようのない快感がわきあがってきて、自然と笑い声がこぼれていた。
「すばらしいわ。あの子の魔力も、魔女の技術も――彼女の魔力も。これならば、あの女たちも私を意識せずにはいられなくなる」
「よく、連中を敵に回す気になるな」
隣に立ったオルトゥーズが呟いた。その声にはあきれも感動もない。淡々とした声に、ルナティアも、ただ笑う。
「そうでなければ、意味がないもの」
腕をさしだす。細く、白い指を空に向けた。
「さあ。あとは王国の人間たちが、どれほど抗えるか。高みの見物といきましょう」
※
大きな翼と、丸っこくも頑強な胴体。太い尻尾にとかげのような目。あれは間違いなく竜だろう。むしろそれを否定する材料がない。けれどもやはり、子どもたちにはにわかに信じがたいことでもあった。
竜などしょせん、空想の産物だ。竜を倒す英雄の物語に数えきれないあこがれを抱いた彼らでも、災厄の象徴ともいえる生き物が、実際にいてほしいとは思わない。
何よりも空想じみた現実に、アニーが呆然としていると、いちおう体調が戻ったらしいエルフリーデが呟いた。
「あれ、魔力で作られているわ」
「魔力」
アニーが
「あの玉が割れたすぐあとに、魔力を強く吸いだされる感じがしたの。たぶん、あの玉を使った古代魔術は、魔力を集めて生き物のようなものを作りだす術だったんだと思う」
その場にいた誰もが、目を丸くする。
「じゃあ、ロトさんは、それに気づいてたんだね」
「……そうだ、ロト!」
手を打って呟くフェイをよそに、アニーは目を走らせる。先輩二人の手で寝かせられた青年は、いまだに身じろぎひとつしない。エルフリーデの言葉が確かなら、彼も魔力を吸いだされたということなのだろう。それなら、突然意識を失ったのにも納得できる。
アニーが唇をかんだとき、彼の眉がぴくりと動いた。
「う……ぁっ」
うめき声とともに顔をしかめた青年の目が、うっすらと開いて空を見つめる。
「あ、お兄さん」
「よかった、気がついた」
リーヴァとフランがのぞきこむ。フランが浅黒い手を顔の前でひらひら振ると、ようやくロトはしっかりと目を開けて、まばたきをした。意識もはっきりしてきたのか、ぼやけた声でお礼を言う。けれど、そのあと、フランが離れた拍子に黒い竜の姿が目に入ってしまう。彼は竜を見つけるなり飛び起きたが、すぐにうなって頭をおさえる。
「ちょ、ちょっと、無茶しないでよ」
アニーが思わず声を荒げた。けれどもロトは聞かなかった。痛みに顔をゆがめたまま、天に居座る黒竜をにらむ。唇が繰り返しうごいたあと、ぐっと奥歯を噛みしめたようだった。
「魔女の《爪》――ちくしょう、やられた!」
彼の言葉の意味がわからず、学生たちは顔を見合わせる。その間にも、ロトはゆっくりとだが立ち上がっていた。あたりをぐるりと見回す彼につられて、ほかの六人も広場を見やる。
混乱に陥っていた人々は、けれど最初に比べれば、いくらか落ちついているようにも見えた。ところどころに青い軍服の姿がある。ある者は厳しく声を飛ばしているが、またある者は、他の人々をなだめながら、広場の外へ誘導しているようだった。
「よし。おまえらも逃げろ」
しばらくの間をおいて、ロトがぽつりと言った。アニーとフェイとエルフリーデは顔を見合わせ、クレマンはぎょっと目をむく。
「兄ちゃんは一緒に行かねえのか」
「ひとまずここに残る」
淡々として投げられた言葉に、驚いたのはクレマンだけではなかった。やっぱり無茶をする、と、アニーは目をつりあげかける。けれども、それをさえぎるように、エルフリーデが身を乗り出した。
「ちょ、ちょっと待って! ここに残ってどうするつもりですか!?」
「どうするって、対処。あいつはたぶん俺を狙ってくるから、俺がここにいれば被害が広がらなくて済むだろうし」
「どういう意味――」
「いいから逃げろって。頭からばっくりいかれたかねえだろ」
ロトはひらりと手を振り、追い払うしぐさをする。まったくとりあってくれない青年に、怒りさえこもった視線が投げつけられる。そんななか、静かに踏み出したのは、フランだった。
「いくらなんでも、一人は危険でしょう」
フランは淡々と言い募る。怒るでもなく、諭すでもなく。そして、ロトも、冷静に答えた。
「一人じゃねえ。あれとやりあえるだけの力を持った軍人たちが、さすがにもう来るはずだ」
「大丈夫なんですね?」
「なんとかなるさ」
青年は、笑いもせずに空をあおぐ。対してフランは目を伏せたが、すぐに顔を上げると、友人を振り返った。リーヴァは強くうなずいて、ぐいぐいと子どもたちの背を押す。
「後輩諸君、行くよー」
「ちょ、ちょっと!」
「行くってどこにっすか!?」
アニーとクレマンが手足をばたつかせて抗議をしても、フェイとエルフリーデが不安げにロトの背中を見やっても、先輩たちはまったく手をゆるめない。そのまま彼らは、押し出されるようにして、広場の外へと走っていった。
黒い竜の影は小さい。けれど、広場や王宮から流れ出てきた人々は、そろって暗い顔をしている。アニーたちはリーヴァとフランに手をひかれ、その人混みから抜け出した。青い軍服の人々が集まっているあたりへ連れてこられる。彼らが呆然としていると、リーヴァはぱっと身をひるがえし、人混みの中へ突っこんでゆく。人々を誘導しようと苦心している、若い軍人の隣に立つ。
ひそひそと、不安や憶測を交わしあい、動揺する彼らに向かって、大きく手を振った。
「はいはーい、みなさん、落ちついてー! 軍人さんたちいらっしゃってますから、もう大丈夫ですよー!」
すると、百は下らないであろう人の群が、いっせいにリーヴァを見た。彼女はそれでもひるむことなく、隣の軍人に追従するように、手を動かして声を張り上げる。
「ほらほら、あれはこっちに来ませんから。ゆっくり順番にこちらへ来てください。軍の方や警察の方が案内してくれますから、ちゃんと従ってくださいねー」
色とりどりの屋台が立ち並ぶ通り。その道をうめつくす人たちは、やがて、ゆっくりと動き出した。怖がりながらも静かに歩く彼らの姿に、アニーたちは思わず見入ってしまう。四人のそばで、フランがふっと口もとをゆるめた。
「……なるほどね。まあ、僕らができることと言ったら、そのくらいか」
フランはそう呟くと、自分もリーヴァの隣に立って誘導を始める。残された子どもたちは、しばらく顔を見合わせていたが、やがて人混みから弾き飛ばされて泣き叫ぶ男の子を見つけると、誰からともなく走り出した。
「ねえぼく、どうしたの? お父さんやお母さんは?」
「お、おかあさん……おかあさん、いないよう……」
しゃがみこんだエルフリーデが優しく問うと、男の子はそう言って顔をくしゃくしゃにした。そのまま、火がついたように泣きだす彼を見かねて、アニーもそばでかがむ。
「ほーらほら、泣かないのー。泣く子はこうだぞー」
アニーはそう言いながら、べっと舌を出し、目をゆがめる。それから、男の子の癖っ毛をかきまぜた。男の子は、涙にまみれた頬をわずかにひくつかせる。そのまま泣き笑いをはじめた子を、今度はアニーも優しくなでる。
「ね、もう怖くないでしょう?」
「う、うん」
「よし、いい子だ! じゃあ、お母さんをさがそっか!」
アニーが男の子の手をとって立ち上がると同時、クレマンが隣につき、フェイが先輩たちの方へ駆けだした。
――ほどなくして、男の子の母親は、見つかった。そのあとも、たえまなく、人々の誘導は続く。リーヴァたちのがんばりのかいあって、市民の避難は穏やかに済むと思われた。しかし、先に行った人たちを追ってアニーたち四人が広場の前を離れようとしたとき、すさまじい震動が襲いかかる。遠くから、甲高い悲鳴がいくつもあがり、赤ん坊の泣き声も、そこに混じった。
ぱっと振り返っていたクレマンが、ぴくりと震えてからかたまる。
「おい、あれ……」
言いながら、空を指さす少年は、青ざめて震えていた。指の先を追ったアニーも、唖然として立ちすくむ。
竜が、目をかっと見開いていた。さらに、竜と地上の間で、光が繰り返し弾けている。その間に、号砲にも似た音が、何度も空気を揺らした。
「始まった」
フェイが空を見つめながら呟くと、エルフリーデは胸の前で手をにぎる。
少しの間、誰も、動かなかった。けれど、三度続けて光が瞬いたとき、アニーは三人の少年少女を振り返る。
「ねえ。フェイ、エルフィー……クレマンも」
自然、腰に手がのびる。先輩たちには内緒にしていたが、今日は真剣を
「私さ。やっぱり、見て見ぬふり、できないよ」
――フラン・アイビスは、人々を避難されせる友人を見て、言った。自分たちにできることはこのくらいだ、と。ならば、今、アニーにできることはなんなのか。アニーがやるべきことは、なんなのだろうか。
ふっと、吐息のような笑い声が漏れる。フェイが小さく吹き出したのだ。彼に誘われるようにして、ほかの二人も頬をゆるめる。
「ほんとに、もう。しょうがないな。一度言い出したら聞かないからね、アニーは」
「わ、わたしも……見ているだけは、嫌だし」
強くうなずく二人の言葉に、アニーは思わず涙ぐむ。そのとき、最後の一人が、クレマンが彼女とよく似た真剣の鞘を叩いて、腕をのばした。
「仲間外れはゆるさねーからな」
力強く突きだされた拳。アニーは「もちろん」と不敵に笑うと、自分も拳を突きだした。互いに軽く打ちあって、笑う。
そこへ、リーヴァが駆けてきた。四人は顔を見合わせてから、一斉に駆けだした。彼女とは反対の方向へ。黒竜に覆われた、広場の方へ。
「ごめん、リーヴァ先輩! 私たち、やっぱり戻るね!」
アニーは満面の笑みで叫ぶ。最後に見たリーヴァは、今までにないほど、目をむいていた。
子どもたちが、広場の方へ消えてゆく。
「ちょ、ちょっとー!?」
リーヴァ・ジェフリーが我に返って叫んだ頃には、彼らの姿は見えなくなっていた。彼女がため息とともに肩を落とすと、追いついてきたフランに、ぽんぽんと背中を叩かれる。その隣では、王宮から駆けつけてきたジルフィードが苦笑していた。
「まったく、あの子たちには驚かされるな」
「まあ、いいんじゃないかな。ロトがたっぷり叱ってくれるだろうし」
二人とも、子どもたちを止めにいく気はさらさらないらしい。リーヴァは乾いた笑いをこぼすと、広場に背を向けた。もともと彼女も、後輩たちの意思をないがしろにしようとは思わないのだ。彼女たちを気にするくらいなら、自分たちのできることをやった方がいい。気持ちを切り替え、顔をひきしめ、軍医を見上げる。
「それで、ジルフィードさん、どうでした?」
「うん。重傷者は、今のところいないね。……でも、このままあれが暴れたら、どうなるかわからない」
淡々と答えるジルフィードは、天を覆う黒竜を、鋭くにらみつけている。
「あの怪物に襲いかかられたら、僕らじゃ何もできませんね」
「残念ながらね。だから今、あれを魔術かなにかで広場に閉じこめようと、『白翼の隊』が頑張ってる。……でも、いかんせん、人手が足りないんだよなあ」
ジルフィードは両手をあげ、やれやれと首を振る。
「それがわかってんなら手伝ってくださいよ、まったく」
後ろから飛んできた一声は、荒々しくも親しみのこもったものだった。誰よりもその声におぼえのあるリーヴァは、弾かれたように振り返る。自分と同じ茶色い髪の軍人を見つけるなり、叫んだ。
「お、お父さん!」
「ようリーヴァ。愛しの我が娘。帰ってきてくれないから、父さんさびしかったぞ」
『白翼の隊』所属の大尉、ガイ・ジェフリーは岩のようにいかつい顔をしている。しかし娘を見るなり、その顔は優しく溶けた。触れてこようとする父の手から、身をひいて逃れたリーヴァは、きっと彼をにらみつける。
「仕事しろ、仕事! それが嫌だから、祭の当日に帰ろうと思ってたのにー!」
「相変わらずですね」
頬を染めて怒るリーヴァの横で、フランが肩をすくめる。ガイは笑って彼らに挨拶をしたあと、表情をひきしめて、ジルフィードを見た。
「と、いうわけで。戻ってきてくだせえ、先生。ちょうど援軍も来たんだ」
「――援軍?」
思いがけない言葉を三人ともが反芻する。彼らはすぐに、ガイの背後に人の姿を見いだした。いち早く、『彼ら』の素性に気づいて息をのんだのは、ジルフィードだった。
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