2 赤い玉

 日がのぼりきり、街がすっかり騒がしくなった頃。ロトは、昨日訪ねた情報院の門前に立っていた。――一人の軍人とともに。

「それでは、行きましょうか」

 空気を打つ明るい声には、隠しきれない緊張がのぞく。ロトは、その軍人、アレイシャ・リンフォード少尉を振り返ってうなずいた。二人はどちらからともなく歩き出した。しかし、祭前の華やかな空気とは対照的に、彼らの沈黙はひどく重苦しい。ややあって、重石をどかすように、アレイシャが口を開いた。

「あの、ロトさん。本当に行かれるんですか?」

「もう、それ、何回目だ? 行っても問題ないんだろ」

「それは、そうなのですが……」

 ロトがきっぱり言葉を返すと、アレイシャは口ごもる。ややあって、彼女の言葉は続いた。

「行っても、何も残っていないと思いますが。特に今目指しているところは」

「方陣を仕掛ける前に、連中をお仲間が捕まえたから、か」

 アレイシャは黙ってうなずく。けれども、ロトは、「だからこそ、だよ」と言葉を返す。切れ長の目が、手もとの紙をすみずみまでながめる。方陣が描かれた紙をにぎりしめた青年は、疑念をぬぐえない女軍人をよそに、足早に人混みの中へと踏み込んだ。

 

 六月の終わりに、民家に不法侵入した魔術師たちを捕らえた。それが、事の起こりだという。彼らの供述をもとに、いくつかの魔術師の集団が同じように取り締まられる。彼らはいずれも行動を起こす前だったが、王国の法で所持が禁じられているはずの毒草を持っていたため、逮捕することができたのだという。さらに長らく調査を進めていると、いよいよ、こそこそと王都の路地裏に集まり、怪しい方陣を描こうとしている魔術師たちに行き着いた、というわけだ。この話をしてくれたアレイシャ・リンフォードの、はじめての現場仕事が、彼らの逮捕だったという。

 

 その話を聞いたとき、ロトはひそかに眉をひそめた。

 六月の終わり。ロトとマリオン、そしてアニーたちが、謎の二人組と戦ったあとのことである。関係があるかどうかはわからない。だから、アレイシャには話していない。おそらくエレノアは、彼の考えに気づいているだろう。だからこそ、方陣の分析をアレイシャとともにするようにと言ってきた。

「……今、『それ』を見た限りでのあなたの考えはどんな感じですか」

 ざわめきの合間を縫うように、かたい声がする。若い女性の瞳が、じっと青年を見つめている。試すような視線に肩をすくめてから、ロトは再び手もとの紙に目を落とした。

「隊と、情報院での解析でわかっているのは、何かを召喚するための方陣だということ。そして、複数の方陣を用意することで、術を発動させられるということ、だったな」

「ええ」

「そのとおりではあるんだけどな。でも、たぶん、あんたたちの思っているような術じゃない」

 指を丸めてから弾く。紙はわずかに揺れて、しんなりと曲がった。アレイシャが目を瞬く。不可解、と書かれた顔に、ロトは静かなまなざしを注ぐ。

「召喚と言われると、どういうものを想像する?」

「それは……動物や魔物をその場に呼び出したり、使えきしたり、といったところでしょうか」

 理論上可能ですが、あまり使われませんよね。陸軍少尉は真剣な顔で続ける。ロトは、うなずいた後、墨で描かれた方陣をなぞった。

「そうだな。間違いじゃあない。ただ、あんたの言ったとおり、理論上それができても、実際に召喚魔術を使う人間は、今の時代、ほとんどいない。準備が大変なばかりで利益が得にくいからな。精霊信仰のあった俺たちの村なら、まだわからねえけど」

「で、では、その方陣は……?」

「二つしか見てないから、確かなことは言えねえ。けど、おそらくは――召喚するのは、大量の魔力だ」

 アレイシャは黙りこんだ。形のよい眉がしかめられる。ロトはため息をこらえ、副隊長の班が見つけたとされる方陣の図を、彼女の方に突き出した。

「第三周百五十番から二百二十番にかけて、古代シェルバ語で長々と定義名が書かれてるんだけど。これ、それっぽく訳すと、『生きとし生ける我らの源』って感じになる。で、あんたたちが見つけた方陣の定義名はたぶん『精霊たちの歓喜』だった。どの言葉も、生き物が必ず持ってる『魔力』を言いかえたものだ」

 ロトがいったん言葉を切ると、アレイシャは顔をひきつらせていた。不審そうにちらりと見ては通りすぎてゆく人々を、気にする余裕もないらしい。ロトが首をかしげていると、彼女は近くの白壁に手をついて、うなだれた。

「よくもまあ、そんなにすらすらと……。私たちはそこが読めなくて困っていたんですがね。ジェフリー大尉があなたを推薦なさるわけです」

「魔術師部隊を名乗るなら、シェルバ語の勉強しろ」

「現代シェルバ語ならともかく、古代シェルバ語の資料はほとんどないんですよ!」

 うがあ、とでも叫びだしそうに頭を抱えた少尉は、深くため息をつく。それが切り替えのつもりだったのか、次の瞬間には背筋をのばして歩き出していた。心もち、足が速くなっている。わかりやすいやつだ、と思いつつも、ロトは黙ってついていった。

「ああもう、なんだかあなたはものすごい発見をしそうな気がしてきました。わかりましたよ。最初の現場に急ぎましょう」

「やけくそだろ」

 聞こえない、とのささやきが返ってくる。ロトはしかたなく、自分の仕事に集中することにした。アレイシャの案内にしたがって、人混みを潜り抜けてゆく。あるとき、ふいに人垣が割れ、そこを馬車が通りすぎていった。それに合わせて足を止めた二人も、ていの響きが遠ざかるのを待つ。その間に紙をながめていたロトは、かすかな違和感に頭を押さえた。

「なんだ、この式? 妙だな。よくある『変形』の式にも似てるけど、何か……」

『変形』の式は、地面を隆起させたり、手にしたものの形を変えたりするときの式だ。魔力が少なくて済むのでロトはよく使うのだが、それと違って見つけた式はやけに複雑だった。ところどころを意味のない単語の羅列に変えて、暗号化してあるようにも思える。その意味をいくら考えてもなかなか答えは出ず、アレイシャの案内が終わるまで、彼は頭をひねり続けることになった。


「ここです」と、アレイシャが指さしたのは、薄暗い通りの入口だった。まったく掃除する気がないのか、汚物がところどころにぶちまけられていて、異様な臭いを放っている。

「治安悪そうだな」

「実際、あまりよくありませんよ。ふだんから貧民と犯罪者の溜まり場です」

 語る彼女の声は苦い。きまじめなアレイシャのことだ、今すぐどうにかしたいという気持ちはあるのだろう。ロトは理解し、共感し、けれど受け入れない。今はただ、与えられた仕事のために動くのが一番だ。よけいなことに首を突っこめば、騒動を呼び寄せることになる。

 細い通りに踏みいると、あたりがかげった。同時に、ちりちりと鳥肌が立つ。ロトはわずかにしかめっ面を見せたものの、すぐに表情を消した。突きささる視線をさりげなく警戒しつつも、知らないふりをして進む。

 三度ほど、角を曲がったとき、目の前に小屋が現れた。屋根の板がところどころはがれおち、蝶番も壊れている。その小屋を横目に見つつ東へ進んでいくと、今度は少しずつまわりが明るくなった。静かな小路。そこに埋もれるようにして佇む家の前で、アレイシャは足を止めた。

「ここが、魔術師たちが忍びこんでいた民家です。もとの住人はその事件をきっかけに家を引き払ってしまったので、今は空家ですね」

「おいおい、大丈夫か、それ」

「もともと引っ越す予定だったそうですよ。それが早まっただけのこと、と旦那さんが笑っておっしゃっていたらしいです」

 アレイシャは言いながらも、淡々と扉を開ける。早足で中に入る彼女に続き、ロトも扉をくぐった。

 事件からすでに日が経っているからか、狭い家に人が生活していた空気は残っていない。あるのは、うすら寒い沈黙だ。ロトは眉ひとつ動かさず、民家をぐるりと見回した。居間と寝室を兼ねた部屋は、横の入口から台所に通り抜けられるようになっている。かまどのまわりにまといつく煙の臭いから、わずかに営みの名残が感じ取られた。

 けれども、それだけだ。魔術の気配はどこにもない。

「やはり手がかりなし、ですかね」

 アレイシャが、顎に指をかけて呟く。けれどもロトは、室内に投げた視線をそのままに、奥の壁際へ歩み寄った。壁の木目を見るともなしに見つめたあと、その壁を勢いよく蹴りつける。だん、と響いた鈍い音に、女軍人の肩が跳ねた。

「な、何をなさって――」

「静かに」

 ロトは、アレイシャの抗議をさえぎる。あたりが静まりかえった。しばらくのくうげきのあと、虫の羽音に似た、かすかな物音がする。ロトは、壁をにらんでいた視線をわずかに左へずらした。

「ふうん、こっちか」

 呟いた彼は、壁に指先をつけて、息を吹きかけた。爪の先に魔力の熱が灯る。木の板をしばらくなぞった彼は、刻まれた方陣の形を、見ることなく把握する。短く息を吸ったあと、今度は五本の指を動かした。方陣にたったひとつしこまれていた式をあっという間に解いてゆく。遅れて方陣を見つけたアレイシャが、引きつった声をあげている間に、方陣とともに木目が消え去り、その先に空洞が現れる。

 ロトがためらいなく空洞に踏みこむと同時、人影が躍りかかってきた。振りかぶられた拳の一撃を避けたロトは、逆に相手の手首をねじりあげ、あっという間に床に倒す。駄目押しとばかりに、左足で背中をぐっと押さえつけた。

「い、いででででっ!」

「――こんなところで何をしていた? 答えろ、グランドルの魔術師」

 足もとでうめく男を、ロトはひややかに見おろす。そこへすぐさまアレイシャが駆けつけてきてロトと代わり、男の両腕をすばやく拘束してみせた。さすがは軍人、慣れた手つきで不審者を引き立てる。

「事情を聞いても?」

「うるせえ! てめえ、軍人だな!」

「だったらなんだというのです」

 汗にまみれた丸顔を、くしゃくしゃに歪める魔術師の男を、アレイシャ・リンフォードは冷徹をもって見おろす。彼は、音を立てて歯を食いしばった。彼らをうかがいつつ空洞を見まわしていたロトは、奥の方に光を見つけて、しゃがみこんだ。壁に当たった丸いものが、ゆらゆらしてから動きを止めた。その、丸いもののまわりには、紙と石の破片が散らばっている。

「くそったれ! あいつらがきちんと仕事しねえから、俺がこんな目にあうんだ」

「その仕事ってのは、これと関係があるんだな」

 ロトが壁際の丸いもの――拳大の赤い玉を持ちあげてみせると、男は頬をひきつらせる。二の句を継げなくなってしまった男へ、「証拠はちゃんと隠せよ」と冷めた言葉を投げつけたロトは、『証拠』を手早くかき集めた。


「あの、すみません。二重に手伝ってもらって」

「気にすんな。たまたまだろ」

 男を同僚に引き渡したアレイシャが、民家の入口で待っていたロトを見るなり頭を下げる。ロトは、適当に手を振ってこたえた。

「あの紙、方陣だったな。さすがに持って帰るのはまずいだろうから、できる範囲で調べておく」

「え、できる範囲でって……。あの紙がないと調べるも何もないのでは」

「問題ねえよ。内容、だいたい覚えたから」

「はあっ!?」

 アレイシャが身を乗り出す。それまでの軍人然とした態度が、まるごとどこかへ吹き飛んでいた。ロトが思わず唇をゆがめると、アレイシャは顔を赤らめた。彼女はわざとらしく咳払いをしてから、「そうですか。それではよろしくお願いします」と、平たんな声で言った。青年は笑いをこらえ、そのまま協力者と別れようとする。けれど、彼らが来た道と逆の方から聞こえる話し声に誘われて、振り向いた。

「あ、あれ? 兄ちゃんと、誰だ?」

 ひょっこりと家の壁のむこうから顔を出したのは、悪ガキ――もとい、クレマン・ウォードだった。すぐそばにはフェイもいる。思いがけない少年たちとの遭遇に、ロトはつかのま言葉を失ってしまった。彼らがとことこと歩いてきたところで、ようやく口を開く。

「おまえらだけか?」

「あ、はい。ほかの人たちを待ってるんです」

 フェイが背筋を伸ばす。答える声はよどみないが、目がわずかに泳いでいる気がした。ひっかかりはしたものの、追及の糸口がつかめないロトは、とりあえずうなずいておく。去っていなかったらしいアレイシャが、彼の後ろから子どもたちをのぞきこんだ。

「おとなしく待っているのは大事なことですが、ここは危ないです。大通りまで戻りませんか?」

 え、と、少年たちが気まずげな声をあげた。ロトがわざと目を細めてみせると、フェイがさっと言葉をかぶせる。

「あー、と。でも、ちょっと今、戻れなくて……」

 すると、勢いにのったクレマンが手をあげた。

「そ、そうそう! ちゃんと玉見つけてこないと怒られちまう」


 空気がひび割れた。ロトにはそう感じられた。アレイシャはいまいち事情をのみこめていないのか、ふしぎそうにしていたが、少年たちは青ざめている。フェイに言葉を止められたクレマンが口を押さえているが、もう遅い。やっと追及の糸口をつかんだロトは、深海より暗い瞳を彼らに向けた。

「へー、そうか、そうか。玉がなんだって?」

「えっと、いや、そうじゃなくて」

「うん。あの、間違えた」

 フェイとクレマンは、わたわたと顔の前で手を振る。二人の目をのぞきこんだロトは、それから、今までにないくらい美しくほほ笑んだ。

「正直に話した方が痛みが小さくて済むぞ。なあ、わかるだろ、クソガキども?」

 答えはない。固形物のような沈黙が、彼らの間に転がった。

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