5 二日目の朝

 長く静かな夜が終わり、ゆっくりと暗幕がとりはらわれるように、朝がやってくる。王城のところどころに施されている金の装飾が、薄い光をあびてチカリと光り、色鮮やかな家いえの屋根は、闇夜の中から姿を見せて、地上を明るく染めつつある。そしてまた、王都の一角に埋もれる宿屋にも、夜明けはやってきていた。

 薄い布の裏からさしこんだ光は、まぶたの裏を突きぬけて、少女の意識をつついてくる。せかされるままに目を開けた彼女は、窓際の布をそっとめくって、まだ太陽が東の端にいる時間であることを確かめた。数回まばたきして、うんと伸びをすれば、アニーの頭はじょじょに目ざめてゆく。寝間着から麻の上下に着替えたあと、髪をひとつに束ねた彼女は、そうっと寝台から下りて、歩いた。まだ寝ている少女二人を刺激しないように、するりと部屋から出る。

「あっ」

 まだ薄暗い廊下に出たとたん、アニーは声を上げた。隣の部屋から出てきた少年も、目を見開いている。ばったりと出会ってしまった二人。いつもならここで、盛大な嫌味と悪口と、ときどき拳のやりとりが始まるところだ。けれど、今朝は互いの顔を見ると、にんまりと笑ってから並んで歩き出した。

 アニー・ロズヴェルトもクレマン・ウォードも、立派な未来の戦士である。


『戦士科』の生徒の日課となっている朝の走りこみは、そもそも、『鬼曹長』と名高い学院の教師からしこまれたものだ。ふだんならばいざ知らず、戦士科の合宿などでは、走りこみをさぼったことがばれると、宿舎と演習場の掃除をやらされる。屈強な十二回生が、掃除を終えて戻ってきたとたん地面に倒れ伏すほど、つらいらしい。幸い、アニーもクレマンも、まだその過酷な掃除をやらされたことはない。できれば、卒業までやりたくないと思っている。なので、王都に来ようがなんだろうが、走りこみは欠かさないのだった。

「なんか、見える景色が違うと楽しいなあ」

「そうだねー」

 軽く息を弾ませながら、ひとけもまばらな通りを走る。クレマンのささやきに、アニーは珍しく同意した。立ち並ぶきらびやかな建物も、不思議な動物の像も、ヴェローネルのそれよりも大きくて豪華な時計台も、二人にとっては新鮮なものだ。まだほとんどの人が眠りの中にある時間だが、耳を澄ますと、自分たち以外の靴音が聞こえてくる。感嘆するほどにそろった響きはおそらく、巡回の軍人のものだろう。

 大通りを走っていると、ところどころに旗が掲げられたり、鮮やかな色のひもやれ幕がさがっているのが見て取れた。建国記念祭の前夜祭は明日だ。考えるだけで胸が高鳴って、アニーは思わず口もとをほころばせた。隣から少年の声がしたのは、そんなときである。

「なあ。あの兄ちゃんのことだけど……なんか、つきあいにくくね?」

 クレマンの呟きには、かすかな苦みがにじんでいる。アニーは驚いて、隣を見た。二人とも、いったん立ち止まる。

「そうかな?」

「だって、なんか、ぶあいそだしさ。よくわかんねえとこあるし、やたらすごい知り合いが多いみたいだし」

 少年の言葉に、少女はくすりと笑ってしまった。『すごい知り合い』については、アニーも昨日はじめて知ったところだが、驚きこそすれひるむことはなかった。誰と知り合いであろうが、ロトはロトなのだ。――しかし、出会って間もないクレマンには、同じように割り切ることなど無理だろう。

「クレマンでも、そういうの気にするんだねー。なんか似合わない」

 あえてアニーが茶化してやると、クレマンは「うっせえほっとけ!」と叫んで、殴りかかってくる。振りかぶられた拳をあっさり避けたアニーは、今度こそ声を立てて笑った。

「つきあいにくいとは思わないなあ。ま、口は悪いし、無愛想だし、秘密が多い人だとは思うけど」

「おまえとは絶対気が合わない人だって思ったけどな」

「最初のうちはいっぱいけんかしたし、今でもときどき言いあいするよー」

 だめだめばっかり言うんだもん、ロトは。そう続けて、アニーは唇をとがらせた。けれども、すぐに表情をやわらげる。

「でもね、あれで結構いい人なんだよ。他人のことばっかり気にするし。もうちょっと自分の心配もしたら? って、あきれるくらい」

 アニーはそっと目を閉じる。めったに波の立たない瞳の裏に、悲しい傷が見え隠れするのを、アニーは知っていた。その傷が、彼女のものと、とてもよく似ていることに気づくのに、時間はかからなかった。彼がどんな道をたどってきたのか、詳しいことは知らないが、きっと、若い彼には重すぎるほどの痛みと苦労をともなった道だったのだろう。

 そっと目を開くと、ぽかんとしているクレマンと目が合った。

「……そういや、あの兄ちゃんと会ったの、『お仕置き』のときだったんだよな?」

 突然、クレマンはそんなことを言う。アニーは首をかしげつつも、そうだよ、と言った。春先に、彼女が学院の準備室に忍びこみ、備品のぼっけんを折ったことから始まった特別課題と、遺跡の探検。懐かしい記憶をたどっていた彼女の耳に、クレマンの、めったに聞けない優しい声が届く。

「ずっと思ってたんだ。おまえらが、特別課題の後から変わったな、って。……あの人のおかげもあんのか」

 アニーは虚を突かれて立ち尽くす。遠くに響く鐘の音と、空に突然さしこんだ太陽の輝きで我に返ったアニーは、「そうかもね」と返しておいた。また、助走をつけて走り出す。二、三拍遅れて、クレマンもついてきた。

「――俺も、変われるかな」

 前を向いていたアニーが、小さな呟きを聞くことはなかった。


 宿屋に戻るころには、夜が玉座を降りて、天空は金色の光と薄い青色に支配されていた。鐘はゆるりと鳴り響き、街は早くもざわめきはじめる。家と店を開けようと外に出てきた隣の男性が、早くから走っている子どもたちを見て、ぎょっと半歩後ずさりをした。もちろん、アニーもクレマンも、まわりの人の反応など気にしていない。締めの柔軟体操をしてから、部屋に戻ろうとしていた。だが、そのとき、宿屋の入口におぼえのある人影を見つける。

 先に気がついたのはアニーの方だった。何やら難しい顔をしている青年へ、転がるように駆けてゆく。

「ロト!」

 大声で呼びかけると、彼はぱっと顔を上げた。それから、ぞんざいに手を振ってくる。

「まーた、戦士科の走りこみか」

「そう!」

 アニーは挙手して、元気いっぱいに答える。フェイとエルフリーデも一緒の四人でポルティエに行ったときにも、走りこみのあとに彼に出くわしたことがあったのだ。あのときと違うのは、後ろにクレマンがいることである。ロトも彼に気づいていたのか、アニーの背後に視線をやりながら、「お疲れ」と声をかける。クレマンは、曖昧にうなずいていた。

「ロトは何してたの? 感傷にひたってた?」

「ちげーよ。どこで覚えた、そんな言葉」

 否定されたアニーが、後頭部で手を組んでいると、ロトは言葉を続けた。

「ちっと、軍部に行ってた。『あそこ』の隊長は朝早いからな」

「軍? ……ひょっとして、昨日の青い玉のこと?」

 ロトはうなずいた。それを見て、アニーとクレマンは同時に身を乗り出す。きらきら輝く二人の目を真正面から見た青年は、彼らの言いたいことにも気づいたのだろう。二人が口を開く前に、「おまえらにはなんも教えねえぞ、関わるな」と釘を刺した。

 くっぷりと、頬をふくらませたのはアニーの方である。

「なーんーでーよー。ちょっと話聞くくらいはいいじゃない」

「今回は軍が動く。つまり、ここから先の情報は軍事機密だ。おまえらが知っていいことじゃない」

 軍事機密、と聞くと、子どもたちの心にも鋭い緊張が走る。二人が、顔をこわばらせて固まった。その隙に、ロトはさっさと踵を返して二人の前から去ってしまう。何を言っても取り合わなさそうなロトを見送ることしかできなかった二人は、彼の姿が完全に見えなくなってから肩を落とした。

「やっぱり怖えよ」というクレマンの独白は、石畳にむなしく跳ねかえった。



「それは――事がおさまるまで関わらないのが、正解だと思うよ」

 フェイ・グリュースターは、腕を組んで、まっとうな意見を口にする。アニーはそれが気に入らなかったので、ふてくされるようにそっぽを向いた。すぐ隣では、頭をがりがりとかいているクレマンを、エルフリーデが困った目で見ている。

「ちょっとくらい……ちょっとくらい、何か手伝わせてくれてもいいと思わない? だって、ロトは絶対調べる雰囲気だったよ。ほっといたら無茶するって、あの人!」

「アニーがそれを言うかなあ」

 ばん、と卓上を叩いた幼馴染を前にして、フェイは肩をすくめる。

 彼らがいるのは宿屋の一階、玄関口の近くにある休憩場所だ。今は、先輩たちはいない。二階で今日の予定を話しあったり、手続きをしたりしているはずだ。彼らの『仕事』が終わるのを待たされている格好の子どもたちは、この空白を利用して、上級生には言えない情報を交換しているわけである。

「でも、調べるって言っても何すんだ?」

 椅子の背もたれにもたれたクレマンは、言いながら隣の少女をうかがう。魔術についてはまったく知らない、と胸を張っていた彼の視線を受け、エルフリーデは考えこんだ。

「魔術っていうと、たいていは方陣を使うから……たとえばロトさんは、方陣の解析や解除を任されたのかも」

「ああ、ロトさんならあり得るね」

 エルフリーデとフェイは、深くうなずきあう。ポルティエに行ったさい、彼の方陣の扱いを目の前で見た二人だ。アニーは直接見ていないが、かなり鮮やかな手さばきだったと、あとから二人に聞いていた。知識も豊富な彼のこと。軍の人とつながりがあるのなら、そのくらいのことを頼まれても不思議ではない。しかし、相手が方陣なら、エルフリーデはともかくアニーたちの出る幕はない。うんうんとうなっていると、さざ波のような声が、卓のまんなかに落ちた。

「それか、あの玉を探すのかしら」

 三人は、きょとんと目を瞬いた。誰にも、彼女の言葉の意味がわからなかった。

「あの玉、たぶん、ひとつじゃないの。あんな場所に青い玉があったってことは、王都のどこかにあと二、三個玉があるんじゃないかしら」

 三人の雰囲気を察したのか、エルフリーデは慌てて付け足す。アニーたちは、ほぼ同時に顔をしかめた。

「なんでそう言えるんだ」

「昔の魔術には、方陣以外にも、そういう道具を使う魔術があったんだそうよ。玉や、短剣や、五芒星の円板……そういうものを決まった場所に配置して、そこを起点に方陣を描くんだって。家にある本を見てたら、書いてあったわ」

「へえ……なんか、壮大だね」

 フェイが感じいったように聞いている。しかしアニーは、顔をしかめた。――あの青い玉がエルフリーデの話どおりのものならば、王都の街中に方陣が描かれているということではないのか。きな臭い空気に、ますます『便利屋』の青年のことが心配になってくる。こらえきれず、彼女が「やっぱり手伝う」と言いかけたとき、その前にすぐそばで椅子が鳴った。振り仰げば、クレマンが立ち上がっていた。

「なあ。ならさ、ほかの玉を俺たちで探せばいいんじゃねえの。そのくらいだったら、兄ちゃんたちもそんなに怒んないぜ――たぶん」

 三人は、顔を見合わせる。アニーがまっさきに顔をそらし、クレマンと目が合わせた。彼の瞳にたたえられた光は、悪戯を思いついたときのそれだった。そして、次に彼を見たフェイは、思うのだ。アニーが悪だくみをするときの表情によく似ている、と。

 反対の声はない。ただ、優等生のため息が、四人の間を漂った。

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