3 動きだす人々

 からり、からりと。小さな鐘によく似た音が、町の小道を駆けてゆく。軽やかな音色ににぎやかな呼び声が重なって、ふだんはまどろむような平穏の中にいる町も、にわかに活気づきはじめていた。『豊穣節』の始まりの日。実りを祝う時期と建国の時が重なるグランドル王国では、国じゅうがいつもと違うざわめきと興奮に包まれる。大陸西部、学術都市の南東にたたずむポルティエも、例外ではない。

 ただ、異邦人たる魔術師だけは、いつもどおりの静けさをまとって歩いていた。花籠を両手に抱えるふくよかな女性が、揺れる黒衣に気づいて振り返る。

「あら、マリオンさん。今日は朝早いのねえ」

「はい、おはようございます」

 マリオンは、軽い驚きを抱きながらも挨拶を返す。魔術師に寛容なポルティエであっても、その態度から避けられがちな彼女だが、親しくしてくれる人も少なからずいる。日々、せいを売り歩く女性も、その一人だ。マリオンは、あれこれと話題を振りつつ今日の予定を訪ねてくる女性に、やんわりと笑みを向ける。

「今日、これから馬車に乗らないといけないんです。王都に向かうので」

「おやまあ、そうなの? 引きとめてしまったね」

 悪いことしたわね、と苦笑する女性にかぶりを振ると、マリオンは大きく息を吸った。緑と砂のにおいを含んだ風が、ふんわりと吹きこんでくる。

「ひょっとして、建国記念祭にでも行くの?」

「まあ、一応。たまには来いってうるさい人がいるので」

「……そういえば、マリオンさん、王都から来たんだったわね。もう、五年になったかしら」

「ええ」

 女性の声に、やさしさと懐古の響きが混じる。マリオンも、色あせた記憶を愛でて、ほほ笑んだ。あの頃は、世間のこともこの大陸のことも、何も知らない少女だった。時には失態をおかしもしたし、またある時には大きすぎる力を狙われて、ひどい目に遭ったりもした。ほんの少しの成功とたくさんの失敗を重ねた先で、果たして今の自分は、成長しているのだろうか。隣町に移り住んだ幼馴染の方が、まだうまくやっているのではないだろうか、と考えることも少なくなかった。

 彼女の考えを読んだわけではなかろうが。しんみりしそうな空気を打ち払うように、女性がいたずらっぽい瞳で笑う。

「ひょっとして、ロトくんと一緒かい? 王都で逢引とは、なかなかやるねえ」

「へ!? や、やだなあ、そんなんじゃないですよ!」

「またまたあ。今、ちょっといいな、って思ったでしょう」

 顔をまっ赤にして、両手を激しく振るマリオンに、女性はうりうりと肘を押しつける。彼女のからかいを真に受けたマリオンは、うっと声を詰まらせた。沈黙しかけた自分に気づき、慌てて咳払いをする。

 この女性は知らないことだが、ロトは今まさに、王都に向かっている最中のはずなのだ。しかし彼の場合、祭めあてではなく、きわめて事務的な用事である。話題にのぼっているようなことは起きようがない、はずだ。会うだけは会おうと思っていたマリオンは、とたんに恥ずかしくなってうつむいた。会わないようにしようかという思いが急速にふくらむ。

「じゃ、じゃあ、あたしはそろそろ行きます」

「はいはい。頑張ってきてね」

 これ以上惑わされる前に、と女性から逃れたマリオンは、足を速めて馬車乗り場へ急ぐ。町の中心からやや北東、えん形にひらけた場所で、子どもたちが甲高い声を上げながら駆ける。その隙間にちらほらと、青い軍服の人の姿があって、非現実的な光景を生み出していた。こんな田舎町に、派遣軍人以外がいるとは珍しい。軽く目をみはったものの、時期的なものだろうと結論付けた彼女は、気にもせず走った。

 一方、少し遠くから、去りゆく娘を見送っていた生花売りの女性は、眉尻を優しく下げる。

「気づいてないのか、気づいてないふりをしてるのか知らないけど。初々しいね。青春ね。おばさんうらやましいわ」

 うふふ、と、たおやかに笑った彼女は籠を抱え直す。そこでふとあたりを見回し、青い群を見つけて首をひねった。

「それにしても、軍人さんが多いねえ。いつもは『豊穣節』でもこんなに来ないのに。……何かあったかね?」



     ※



 天井高く、薄暗く。終わりの見えない空間に、高い音が反響する。かつかつと、規則的に鳴る靴の音。跳ね返る音を受けるのは、いくつもの高い本棚だ。けれど棚も、古びた本たちも、よそ者の生み出す気配などないかのように、沈黙を保っている。

 暗がりの中に、丸い光が灯った。橙色は、不安定に揺れて、強くなったり弱くなったりを繰り返している。虚空に掲げられた角灯は、ある一冊の本の前で、ぴたりと制止した。闇の中から手がのびて、本の背表紙をなでる。ぞっとするほど白い肌は、火の色を浴びてすきとおっているふうに見えた。

 しばらく本に触れていた『彼女』は、その白い手をからめて本を抜きとる。いとおしむように開いて、ページをめくりはじめた。紙のこすれる乾いた音が、静寂をわずかに揺らした。しばらくして、本をめくっていた指が止まる。紅い唇が弧を描く。また、靴音が響き、別の人影が、灰色の壁をぬりつぶした。

「――見つけたのか?」

 低い声が、問う。『彼女』は、笑いの吐息を闇にたらした。

「いいえ。まだよ。やはり、あの術をひもとくのは、簡単ではないわね」

 色をまとった女の声が、歌う。低い声は「そうか」と答える。『彼女』の背後から近づいた男は、本を興味深げにのぞきこんだが、黒い瞳は熱を失って、すぐによそへとそらされた。

 細い指が、一ページをめくる。そこにあった方陣に目をとめた『彼女』は、声を弾ませた。すでに何度もながめて、分析を繰り返した図形をなぞってから、本を閉じる。

「けれど、今回見つけた模造品は、役に立ちそうよ」

 本を棚にさしいれる。己の形跡をなくした本に一瞥をくれてから、『彼女』は、ルナティアは男を振り返った。

「それで、どうなの? 計画は順調?」

「まあまあ。……だったが、『はくよくの隊』が動いた」

「あら。もう見つかったの。下手くそね。しょせん、餌にくいついてきただけの者どもか」

「しかたがないだろう。魔術師とはいえ、もとはただの市民だ」

 やりとりは淡々と。天井に届いて消える音は、かすかな余韻だけを残す。男はうんと背伸びをし、みずからの長剣に目をやる。

「まだ、動いているのは下っの隊士どもだけだ。こちらの存在には気づかれていない」

「けれどいつかは気づかれる。そうなれば、方陣ができあがる前に、計画がつぶされるわ」

 ルナティアは、細い顎に指をかける。彼女の険しい表情を見てとって、思うところがあったのか、珍しく男がおどけたしぐさをした。

「悪い報ばかりでもないぞ」

 視線がぶつかる。漆黒の瞳が、薄闇の中できらめいた。

「おまえが目印をつけた奴が、王都に向かっているらしい。……『人形』がいれば、未完成な方陣でもどうにかなるのではないか」

 一瞬の沈黙が吹き抜ける。ひんやりとした空気へ、ほんの少しの熱が落とされた。笑い声が響く。ルナティアは、自分でも気づかぬうちに、わらっていたのだ。

「なるほど。確かに悪くない。――あの子の魔力のほどを見る、いい機会にもなりましょう」

 笑い声が大きくなる。高まる気分をおさえきれず、ルナティアは顔を覆った。少し筋書きを変えねばならない。けれどそれすら苦とも思えぬ、すばらしい状況だ。彼女は衣のすそを闇になびかせ、歩きだす。この国にもたらされる、変革への道筋を思い描きながら。

「行きましょう。まずは、あの役立たずどもをあおってあげなくちゃ」

 あでやかにほほ笑む彼女の背後に、男が冷たい静寂をまとって、つき従った。

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