2 灰色の仔

 草を踏む音がした。ぴくり、と耳が動く。男は無言で、弓を担ぎあげて立った。毛皮の衣が重く揺れる。彼が、真正面に広がる藪をじっと見ていると、ふいに草が揺らいで中から女が現れた。短く切りそろえられた髪を、なおもうっとうしそうに振りながら、彼女は大股で男に近づいた。

「どうだった?」

 男が問うと、女はため息をついた。

「やっぱり、巣はもぬけのからだったわ。狩人が荒らした形跡と、『彼ら』の足跡があったから、群全部、どこかに移動したのかもしれない」

「ふむ。やっかいな」

「そっちは?」

 女は襟をかきあわせ、鋭い瞳を光らせた。男は長く息を吐いたあと、足もとを見た。一匹の蟻が、行き場に困ったのかうろうろとしている。男は右に一歩ずれる。すると蟻は、急に迷いのない足取りになって、そばに転がる大きな岩の隙間へと入っていった。

「森では特に収穫はなかった。けど、おもしろい話を聞いた」

「へえ? どんな話?」

「森の奥に、屋敷があるだろう。あそこ、今、幽霊屋敷って呼ばれてるらしいんだ。声が聞こえたり、揺れが起きたりするらしい。ひょっとしたら……」

 男がみなまで言う前に、女は荒々しく踏み出した。男は振り返ると、肩をすくめる。

「そこまでわかってるんだったら、話が早い。とっとと、あの屋敷に行こうじゃないか」

 丈の長い草をかきわけながら、女は言う。男は、短くうなずいて、彼女の隣に並んで歩いた。同じ素材、同じつくりで柄だけ違う衣が、緑の中で揺れながら、やがて森に埋没してゆく。

「そういえば、もうひとつおもしろい話を聞いた。サリカが、街の男を連れ込んだらしい」

「なんだって? あの子もそんな時期か? 弟くんが反発しそうだが」

「一応言っておくけど、どうもそういう雰囲気ではないみたいだ」

「ちぇ、なんだ」

――彼らの俗っぽい会話すらも、やがては木々のそよぎと鳥獣の声にかき消されて、消えた。



     ※

     

     

 灰色の魔物は、耳をまっすぐにして、全身の毛を逆立ててうなっていた。『彼』のそばで渦巻く力を、魔力持ちでないアニーたちですら、感じ取れるほどだ。ちらと隣を見やれば、ふだんは強気のクレマンが、まっさおになっている。それでも剣を手放さないあたりは感心するが。

 狼の怒りは、おさまるどころか大きくなっているらしかった。渾身の一撃を人間の魔術が防いでしまったことが、怒りをあおっているのかもしれない。子分の狼たちですら、尻尾を丸めて『彼』から距離をとっている。どうしよう――と、アニーが狼たちの出方をうかがいながら悩んでいると、背後から声がした。

「アニー、これ!」

 フェイだった。彼は、アニーが振り返るなり、小さな袋を放り投げてきた。左手を剣から放して袋をつかんだ彼女は、いったん武器をおさめてから、袋の口をほんの少しゆるめる。薄暗い穴から見えたのは、円筒形の木の入れ物だった。クレマンと狼の様子を気にしつつ、入れ物を袋から引き抜いたアニーは、それを小さく振ってみる。

「これ」

 何? と、幼馴染に向かって続けようとしたアニーだったが、寸前で言葉をのみこんだ。どこかに小さな隙間があるのか、入れ物と栓の間から空気が漏れているのか、ほんのかすか、『中身』のにおいが漂ってくる。嗅覚を限界まで研ぎ澄ませたアニーは、いいようのない刺激臭に顔をしかめる。同時に、幼馴染の意図を理解した。

「クレマン」

 アニーは小さく少年の名を呼んだ。彼がぴくりと震えて振り返るなり、不敵な笑みを唇に刻む。

「ちょっとだけ、囮になって」

 クレマンが口を開く。けれど、うろたえる彼の言葉は、狼たちの吠え声に消されてしまった。


 灰色が襲いかかってくるなり、アニーは大きく左に跳んで、そばの木箱に飛び乗った。獲物を食らい損ねた牙が小さく鳴って、ぎらついた瞳は逃げたものを探してさまよった。その目はやがて、新たな獲物に狙いを定める。魔物たちの視線を一身に浴びたクレマンは青ざめ、木箱を跳び移るアニーをにらんだ。

「ちょ――アニーてめえ、俺に押しつける気か!」

「言ったでしょ。囮になって、って」

 アニーは悪びれもせず答えて、袋を抱えたまま木箱を蹴って跳んだ。狼たちはクレマンに気を取られていて気づかない。狙われた彼の方は、躍起になって剣を振るった。クレマンの一撃が、狼の耳をかすめたとき、群の頭上で光が弾けて、火花を散らす。横から状況を観察していたアニーは、クレマンのすぐ後ろで桃色の方陣が消えるのを見た。

「だ、大丈夫、クレマンくん。わたしも一緒に頑張るから!……い、今のは失敗しちゃったけど……」

「やりすぎないでね。天井崩れたら困るから」

 エルフリーデが、胸の前で拳をにぎる。彼女の肩を叩いたフェイが、視線をちらりとアニーの方へ向けた。

 非難と期待が入り混じった瞳。アニーはほほ笑みを返すと、親玉である魔物の背後にまわりこんだ。埃がたまり、ごみが散らばるその場所。ちょうど、狼のふさふさの尾が触れるくらいの位置に、古びて壊れそうな箱が、うずたかく積まれている。アニーは息を吸い、軽く助走をつけると、箱の山に飛び乗った。足場はゆらゆら揺れたが、なんとか崩れることなく安定する。

 アニーは頂上でほっと息をつくと、脇に抱えていた袋を両手で持った。慎重に、中から先程の入れ物を取り出すと、強く息を止めて栓を抜く。突き抜ける鋭いにおいに顔をしかめながらも、アニーは思いっきり息を吸った。そして――

「えい」

 短いかけ声とともに、入れ物を投げた。無造作に放られた木の円筒は、くるくるくるりと回転しながら、灰色の群のなかへ落ちてゆく。栓の抜かれた入れ物からは、赤や茶色や黄色がまざった細かい粉が吐きだされる。それが灰色へ吸い込まれていったすぐあと、群のなかから一斉に悲鳴があがった。

 甲高い声は、いずれも狼たちのものだ。

「クレマン、離れてた方がいいよー!」

 剣を持って戸惑っている少年へ叫んだアニーは、二個目の入れ物を投下する。今度は、まっ赤な粉が霧のように広がった。さすがのアニーも、粉の余波と強いにおいを受けて咳きこんだ。

「ちょ、か、あ……からっ」

 ほんの少し粉を浴びただけのアニーでも、辛い粉が鼻と喉の奥にへばりついて、つらい。彼女が粉を追いだそうと躍起になっていると、唐突にその足もとが崩れた。

「うわわっ!?」

 箱の山がとうとう崩壊し、アニーも袋を抱えたまま転げ落ちる。地滑りのごとく落ちた箱に巻き込まれた少女は、さんざん振りまわされたあと、床板に叩きつけられた。うめきながら起きあがった彼女は、這いつくばって進む。落ちた先は狼の集団のただ中だったが、『彼ら』は辛い臭いの粉にやられてしまっていて、小さな生き物に構っている余裕がないようだった。

 大きくくしゃみをした狼の横を通り抜けると、呆れ顔の三人と目が合う。アニーはへらりと笑った。

「……で、なんなんだよ。あれ」

 クレマンが、フェイを横目でにらむ。彼はすでに鼻をつまんでいた。フェイは、肩をすくめる。

「実は、ぼくもよくわからない。でも、たぶん、食べると辛い実からできてるんじゃないかな。アニー、袋の中に実がなかった?」

 体を起こし、狼から距離をとっていたアニーは、フェイに言われて袋をひらいた。円筒形の入れ物のそばに、新鮮そうな赤い実や、黒い粒の入った別の袋がしまわれている。赤い実からもつんとしたにおいが漂ってきた。

 三人はしばらく、なんともいえない表情で黙りこんでいた。まっさきに気持ちを切り替えたクレマンが、狼たちに剣を向ける。

「まあ、とりあえず、こいつらは動けなくなったんだよな。親分だけでも殺しといた方がいいのかな?」

「……え? こ、ころすって」

「だって、魔物だし」

 クレマンは淡々と言う。彼の言い分に、アニーたちはうなずいたが、エルフリーデは青ざめていた。彼女はしばらく、口を震わせていたが、結局は何も言わずに黙りこむ。

 アニーは目を伏せた。友達が何を言おうとしたのか、察しがついていたから。けれど、彼女の方は、魔物は出会ってしまったら逃げるか退治するかのどちらかだと思っている。今だって、彼らに襲いかかられたからここまで苦労したのだ。だからこそ、少年を止めることはできなかった。

 クレマンが一歩を踏み出す。けれど、そのとき、アニーの耳が高い音をとらえて動いた。音のした方を見た彼女は、目をみはる。

「待って。あれ」

 鋭い声で少年を制したアニーは、群を指さす。なかから、灰色の小さな毛玉が転がり出てきたところだった。

 きゅんきゅん、くぅんくぅんと鳴く『毛玉』を見て、三人ともがぽかんとした。

「犬?」

「……じゃなくて、狼の子どもだよ」

「あの子たちは、魔物じゃないみたい」

 首をかしげるクレマンを見、フェイが肩をすくめる。一方、アニーはしゃがんで、仔狼を観察していた。彼女が袋を遠ざけると、狼の仔たちは人間に気づいているのかいないのか、鳴きながら――泣きながら――転がってくる。そばにいたエルフリーデが「あっ」と言った。白い指が、狼にのびる。

「エルフリーデ! 触っちゃだめ!」

「人間のにおいがついたら、親に食べられちゃうよ!」

 フェイとアニーがほぼ同時に声を上げると、エルフリーデはぴくりと震えてから手をひっこめ、そのまま尻もちをついた。すでに、においに打ち勝った狼の数頭が、子どもたちをにらんでいたのだ。

 エルフリーデが、蒼白な顔をクレマンに向ける。

「ねえ、クレマンくん。やっぱり、殺すのはだめよ。狼たちはたぶん、子どもがいるからこんなところに棲みついたんだわ。それで、子どもを守ろうとして入ってくる人間たちを威嚇していただけなんだと思うの。ここで大人の狼たちが死んだら、子どもたちが生きていけなくなってしまう」

 クレマンは、目をみはったあと、泳がせた。迷っているようだった。

 その間にも、狼たちがじょじょに調子を取り戻している。アニーは大きく息を吸ってから、クレマンの肩を叩いた。

「何すんだよ!」

「まあまあ。今回は、エルフィーの言うとおりにしない? いつまでも悩んでたら、嫌でも殺さなきゃいけなくなるよ」

「うっ……」

 クレマンはしばらく、顔をしわだらけにしてうつむいていた。けれど、すぐにかぶりを振って、剣を収める。少年の意思を見届けたアニーは、一歩前に出た。フェイの制止の声を背中に受けながら、がばりと頭を下げる。

「狼さんたち、騒がせてごめんなさい」

 少し声を張り、やさしい調子で言うと、狼たちがつかのま、ひるんだ。

「でもね。私たち、あなたたちに悪さをするつもりはなかったの。子どもたちにも何もしない。だから、見逃してください」

 言った後、アニーはそばで尻尾を振っている仔狼たちに気がついた。手ぶりだけで帰るよううながすと、彼らは魔物である親玉狼の方へ飛び跳ねてゆく。

 あたりの狼たちは、それでも牙をむいてうなっていたが、仔狼を迎えた親玉は、じっと座ってアニーを見つめていた。彼女が微動だにせずにいると――『彼』は大きく鼻を鳴らす。同時に、ほかの狼たちも威嚇するのをやめた。

 見逃してやれ、とあの魔物が命令したのだと、アニーにはわかった。穏やかに「ありがとう」と言うと、視線だけで後ろの三人をうながす。

「しょうがねえな。戻るか」

 クレマンのぼやきを合図に、四人は順番に梯子をのぼっていった。その間、狼たちは静かに座って彼らを観察していた。

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