3 崩れて、落ちる

 アニーたちは、正面の階段とはまた別の、狭い階段を使って一階に戻った。照明のない広間に出ると、反対側から別の二人が顔を出す。アニーとフェイは、互いの顔を見た。その間にも、別の二人がアニーたちの存在に気づいたようで、駆けよってくる。

「アニーとフェイも戻ってきたのね。さっきの声、聞いた?」

 エルフリーデが、緊張した様子で言う。それに対して、フェイがおびえつつうなずいた。その隣で、クレマン・ウォードがアニーの方へ顔を突き出してくる。

「なんだよ、びびって戻ってきたのか」

「どっから声がしたのか、確かめようと思っただけよ。おんなじように戻ってきた人が偉そうにしないの」

「か、勘違いすんなよ! 俺は、下からあの声が聞こえたと思ったから降りてきただけだ」

 ふうん、とうたぐる声でアニーが言えば、クレマンは彼女をじろりとねめつける。火花を散らし、今にも大げんかになりそうな二人だったが、途中ではっと口をつぐんで、距離をとった。

「何これ……」

 アニーは、つるつるの床をにらんで呟く。先程から、足もとが細かく振動しているのだ。立っていられないほどではないが、強い違和感がある。フェイとエルフリーデがそれぞれ、近くの柱や壁につかまって、体を支えていた。

「ひょっとして、地震……っていうのかな?」

「だとしたら、間がありすぎだろ。地震だったらもっとこう、ずーっと揺れてる感じじゃねえの」

 エルフリーデの細い呟きに、クレマンがそっけなく答える。彼の言うとおり、謎の揺れは断続的だった。アニーは念のためあたりを見たが、もう使えない棚や壁の絵も震えているように見えるので、揺れているのは間違いないようだった。そう思ったときに、ひときわ大きな揺れを感じ、さすがのアニーもたたらを踏んだ。そのとき、はっと目を開いた。

「この揺れ、何かに似てる――」

 思ったことを口に出すと、フェイが顔をこわばらせた。けれど、『何か』がなんなのか、アニーはうまく思い出せずにいた。

 その間にも揺れは続き、空隙を縫うようにして、あの声も響いてきた。


 おおぉぉ――あああー……!


 声は、それまでで一番大きくはっきりしていた。四人は顔を見合わせる。やっと揺れに慣れてきたフェイが、「やっぱり一階から聞こえてたんだ」と感慨深げに呟いた。アニーは唇に人さし指を当てて、クレマンは目を閉じて立つ。そして、少しの間黙ったあと、二人は同時に、指を屋敷の奥へと向けた。

「こっちだ」

 二人は、ほとんど同時にそう言った。

 四人はつかのま顔を見合わせる。そのあと、アニーとクレマンが競うように駆けだした。フェイとエルフリーデも、慌てて後を追う。

 彼らが音を聞いたのは、広い階段の下に広がる空間の方向だった。いくつか小さな扉があって、それぞれ、厨房や書庫といった場所に通じているようだった。走っている間にも、小さな揺れが四人を襲う。大きくよろめいたエルフリーデの腕をクレマンがとっさにつかんで、ひっぱった。その間にアニーが、くるりと体の向きを変える。

「ねえ、こっち、こっちよ」

 アニーは、厨房へ続く大きな扉の前で立ち止まり、扉ではなく、そこへ続く廊下の一角を指さした。横穴のように細く、暗い廊下が、続いている。今までよりさらに薄気味悪い空間への入口に、子どもたちはひるんだ。「うがああ、行くぞ!」と、やけ気味に叫んだクレマン・ウォードが率先して歩きだした。

 こわごわと歩くフェイたちをうながしながら、アニーも続く。

 踏むたびにぎしぎしと音を立てる床は、下手をしたら抜けおちそうな感じがした。さっそく、踏んだ先の床板が軽くへこんだ。嫌な汗がぶわっと噴き出す。アニーは動揺をごまかすように、壁際を見やった。

「小さな扉がいっぱいあるね。なんだろう、ここ」

 古臭く、不気味な雰囲気さえなければ、学院の廊下をも思わせるような通路。その、扉のひとつを、クレマンがためらいなく開けた。濃密な木の香りが漂ってくる。

「倉庫っぽいぜ、ここ」

「倉庫?」

 クレマンの言葉を三人が反芻すると、彼は短くうなずいた。

「なんか、木箱がいっぱい積まれてる変な場所――うわっ!?」

 踏み込もうとしたクレマンはけれど、直前で飛びのいた。彼の叫びと、風切り音が重なる。暗くて何が起きたのか、わからない。それでもアニーは、クレマンのそばに走り寄って身構えた。すると、部屋の奥からほんの一瞬、鋭いものが飛来する。かすかなしびれが鼻先を通りすぎ、アニーは目をみはった。

「な、なにあれ……?」

 もともと、ひとより鋭敏な少女の両目は、倉庫だという部屋の奥にこごる影を、しっかりととらえていた。ちらりと見た限りでは、犬のようにもみえるが、ただの犬よりひきしまった体をしている。闇の中、のぞく両目に敵意を感じて、アニーが剣の柄に手をかけたとき。犬のような影は、少年と少女の脇をすり抜けて、飛び出した。

「なっ――」

「やべえ!」

 二人は反転し、影を追いかけ走り出した。すでに二人とも、剣を抜き放っている。予想に反して、謎の犬はフェイやエルフリーデに狙いをつけていなかった。飛び出した勢いで反転すると、二人にめがけて飛びかかってくる。

 振り下ろされた爪を、アニーは小剣で受けとめた。影は器用に飛び下がって着地する。床板が激しくこすれて、揺れた。


 ううー……あおー……


 すぐそばで聞こえるうなり声にはおぼえがある。アニーとクレマンは、思わず顔を見合わせた。

「ひょっとして、さっきの声って、こいつ……?」

「だと、思う」

 クレマンがうなずいたとき、背後で小さな足音がした。フェイとエルフリーデが、謎の犬の視界から逃れるように、二人へ近づいたのだった。

「気をつけて、二人とも。あの子、魔物だわ」

 すぐ後ろからささやかれて、アニーはぎょっとする。獣はいるだろうと思っていたが、まさか魔物が出てくるとは予想していなかった。

 アニーが驚いている間にも、魔物は動いていた。飛び上がり、噛みつき、爪を振るって子どもたちを撹乱する。クレマンの力強い剣をかわした魔物は、戦いに加わらない少年たちの脇をすり抜けて、再び倉庫の方へ入っていった。アニーはすばやく反転し、追いかける。あとに、クレマンも続いた。

 けれど、状況は悪かった。倉庫には木箱やが散乱していて、足の踏み場がほとんどない。その上、薄暗くてまわりがよく見えなかった。犬のような影は、暗がりと完全に同化してしまっている。

 さっそく木くずをふんづけてつまずいたクレマンが、「この!」と声を上げて、剣を振る。飛び出そうとしていた魔物をかすめたらしく、長い毛が数本、宙を舞った。その隙に、アニーが影から飛び出して追い打ちをかけようとしたのだが、魔物は俊敏に、剣をかわしてしまった。木箱のひとつを踏みつけると、大きく跳躍する。

「ひゃあっ!?」

 近くで響いた悲鳴に、アニーは振り返った。倉庫に踏みこんでいたエルフリーデが、のけぞっている。彼女のまわりには桃色の光の粒が散っていた。

「エルフィー! そんな無茶しちゃだめだって!」

 アニーは思わず怒鳴って、剣を右から左へ薙ぐ。魔物には、わずかに届かない。その間にも、黒い影が、少女へ踊りかかる。息をのんだアニーの横で、クレマンが左足を木箱にかけて、飛び出していた。

「エルフリーデ!」

 彼が叫ぶと同時、エルフリーデは後ずさりする。濃い茶色の壁に、小さな背中がぶつかった。――床が、みしり、と音を立てる。

「え?」と――素っ頓狂な声を上げたのが、誰だったかは、わからない。誰もが呆然としているうちに、エルフリーデのすぐ下の床板が、思いっきりへこんでひしゃげた。もともと、特にもろくなっていたのであろう床板は、そのままめきめきと音を立てて、砕けてゆく。そして、エルフリーデは――落ちた。

 宙を裂くような悲鳴が響く。誰もが魔物への恐怖を忘れ、身を乗り出した。最初から前へ飛び出していたクレマンが、魔物を押しのけて穴のあいた床の方へ、手をのばす。

 ぱし、と短い音が鳴る。悲鳴がやむ。なんとか、少年は少女の腕をつかんだらしい。アニーははじめて、心の中でクレマンに喝采をおくった。

「あとは、こいつをどうにかすれば――」

 アニーの碧眼に炎が灯る。彼女は魔物に狙いを定めて、踏み出そうとした。

「クレマン、危ない!」

 寸前で聞こえたフェイの叫びが、アニーの足を止めさせた。その間にも、薄い闇のむこうで、めきめきと不穏な音がする。目をこらすまでもなく、クレマンの足もとまでもが崩れ落ちそうになっているのが見えていた。「ちょっと!」と叫んだアニーは、一度剣をしまって、行く手をふさぐ木箱に手をかけ、飛び越えようとする。

 彼女が箱を飛び越えた直後に、再び床が崩れた。

 アニーは、引きつった声で二人の名を呼ぶ。のばされた彼女の手は、暗闇で、くうを切った。


「う、うわあああっ!」


 少年の絶叫は、暗い穴に吸い込まれて、しぼんでゆく。間もなく、声は闇にのまれてしまった。

 アニーは、床にあいた大穴を見おろして、呆然としていた。魔物がそばにいることさえ、忘れていた。

「ど、どうなってんのよ」

 愕然として呟く彼女に、魔物がゆっくりと近づく。魔物は、膝をついている少女には目もくれず、ふんっと小さく鼻を鳴らすと、一度ふっさりと尾を振って、みずからも穴のなかへと飛び込んだ。


 しなやかな魔物の体は、犬というより狼だ。下へ消えてゆく魔物を目の前で見て、はじめてアニーはそれに気づいた。そんな思考がひらめいても、まだ、彼女の意識には靄がかかっていた。靄が完全に晴れたのは、床板の軋む音が聞こえたときである。

 顔をあげると、すぐそばに幼馴染の姿があった。彼は、膝をついて穴の中をのぞきこんでいる。

「このお屋敷、地下室があったんだ。二人は、そこに落ちたんじゃないかな」

 青い顔をしつつも、フェイは冷静に呟いた。

「地下室ってことは、二人とも、無事なのかな?」

「たぶん。そんなに深いところじゃ、なさそうだし。ただ、問題なのが、あの魔物だ」

「二人を追いかけていっちゃったよね」

「それもあるけど」フェイは一度かぶりを振ってから、アニーをまっすぐに見た。

「あの魔物、もとはティスタ森林の森狼だよ。彼らは群れをつくる習性があって、群れには序列があるんだ」

 突然はじまった、生物の話に、アニーは眉をひそめる。そのとき、また、小さな揺れが屋敷に起きた。

「あの狼はけっこう小さかったし、まだ若いように見えた。序列では、結構下の方だと思う。使い走りのしたっぱみたいなものだ。その狼が、ぼくらに目もくれず地下に行ったってことは……」

 揺れが、少し大きくなって、二人の足もとに突き上げた。そのときになって、アニーは息をのむ。……フェイの言わんとしていることに、やっと、気がついた。

「地下に、大きいのが、親玉がいる?」

「そういうこと」

 フェイがきっぱり答えると、二人は同時に立ち上がる。フェイがそばに転がっていた古びた縄を手にとって、手繰り寄せた。アニーは彼からそれを受け取って下にたらし、眉をひそめる。

 この縄だけでは下へは行けない。けれど、なんとしても地下に行かなければならなかった。エルフリーデとクレマンが、魔物の親玉に出遭ってしまう前に。

 少女と少年は、地下へ降りる方法を編み出すべく、必死で頭をひねり続けた。

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