4 地下室の獣

 心細いわずかな浮遊感のあとに、強い衝撃が駆け巡る。ばきばきっ、と、かたい何かが割れるような音もした。それから急に静かになって、今度は背中がじんじんと痛みはじめる。とりあえず自分が生きていることを確かめて、クレマン・ウォードは目を開けた。

「いってえ」

 そのつもりがなくとも、うめいた。痛みと熱としびれが主張を続ける背中を押さえ、どうにか体を起こそうとする。不思議な重みを感じた。遅れて、自分の上に少女が乗っているのだと気がついた。花の香りがふわりと漂ってきて、やわらかい黒髪が頬をくすぐる。こんな状況だというのに、クレマンは顔を赤らめた。

「お、おい。おまえ、ちょっとどけよ」

 クレマンは、慌てふためき少女を揺する。とがった声にいつもの力強さはない。彼が少しの間そうしていると、彼女――エルフリーデ・スベンは、かすかにうめいて目を開けた。

「あ、れ……生きてる……」

「ったりまえだ。このていどで死んでたら、命がいくつあっても足りねえや」

 エルフリーデのささやきに、クレマンは苦々しく返した。とたん、少女がぱっと顔を上げ、紫の目が見開かれる。

「わ、わあ! ごめんなさい、大丈夫!?」

 ようやく、自分が他人の上で気絶していたことに気づいたらしい。エルフリーデは、先のクレマンよりも激しい慌てっぷりで、彼の上から転がり落ちた。二人揃って上半身を起こし、顔を見合わせる。

「けが、ないか」

「うん。平気」

「ならよかった」

 クレマンが問うと、エルフリーデは自分の体を見回しながら、うなずいた。クレマン自身は背中を打って肘をすりむいているのだが、彼にとってこの程度は怪我のうちに入らない。とりあえず、編入生が無事だとわかって息を吐いた。

「あの、ありがとう。助けようとしてくれて」

 エルフリーデは、クレマンを見てふわりと笑う。花がほころぶような笑顔にクレマンはたじろいだ。

「べっ、別に、いい。人が落ちそうになってたらほっとけないだろ。……それに、一緒に落ちちまったし」

 彼はそう言い、そっぽを向いた。エルフリーデのくすくす笑う声が聞こえてきて、恥ずかしくなる。もし、アニー・ロズヴェルトだったなら、きちんと彼女を引きあげられただろうか。なぜかそんなふうに思って、胸にいらだちをくすぶらせる。焼けつくような感情を抱きながら、彼は天井をあおいだ。

「この屋敷、地下室なんてあったんだな」

 二人が落ちたのは、木でできた床板の上だった。木箱や樽が無造作に置かれて、さらにはぼろ布や石のかけら、木くずなど、よくわからないものが床一面に散らばっている。――乾いて黒くなった、パンに似た形のものもあった。天井をあおげば、頭上遥か遠くに、いびつな穴が見える。自分たちが落ちてきた穴だろうと、考えるまでもなく、わかった。小さな穴を見つめたエルフリーデが、眉尻を下げる。

「どうやって上がったらいいんだろう」

 俺もわかんねえよ、と、クレマンは吐き捨てた。すぐあと、心臓がどきりと跳ねる。本能の警告。無意識のうちの緊張。クレマンは、考えるよりも早くエルフリーデの腕をひき、自分も転がるようにして後ろに下がった。「え、ちょっと」エルフリーデの抗議の声は、途中でふっつりと絶える。ずん、と大きな足音がして、二人のそばに影が降り立ったからだ。

 床をひっかき、爪が鳴る。うなり声が聞こえる。舌打ちをしたクレマンは、青い顔をしているエルフリーデを背後にかばった。

「さっきの魔物……!」

 少年の目が、灰色の影をにらんだ。距離が近いからか、犬のような狼のようなその姿を、今度ははっきりと見ることができた。黄金色の小さな目は、獲物をとらえてぎらぎら光っている。魔物はちきちき爪を鳴らすと、背を丸めて、足をたわめた。クレマンは、音を立てないように立ち上がる。ゆっくりと剣を抜く彼に気づき、エルフリーデが青ざめた。

「クレマンくん、だめ」

「じっとしてたらやられるだけだろ」

「で、でも……魔物と戦ったことなんて、ないんじゃ……」

「ないな。でも、なんもしないよりはましだ」

 闇の中でも鋭く光る、剣の身があらわになる。刃が白く瞬いた瞬間、狼の目が細められた。かすかなうなり声は咆哮に変わって、力をためていた足は、強く床を蹴って灰色の体を跳ねさせる。

 クレマンは、緊張のせいで高まる鼓動を無視して、息を殺して構えた。狼の吐息が、ほんのわずか、顔に吹きかかったところで、剣を薙ぐ。刃の腹は、白い軌跡を描き、狼の首を狙って滑った。しかし狼は、低くかがんで一撃をよけると、勢いを殺さないまま、クレマンに飛びかかってきた。

 ぎりぎりのところで牙をかわした少年は、そのまま剣を振りおろす。かすかな手ごたえ。剣先が、狼の額をかすめていた。細い傷口から、こげ茶色の血が噴き出ている。クレマンは密かに、やった、と思った。

 しかし、狼のうなり声が大きくなったことで、喜びは煙より儚く消えうせる。

 狼の両目に、憤怒の光が灯った。二度、大きく吠えた狼は、再び飛び上がろうとする。クレマンはわずかに腰を低くした。来るなら来やがれ、と、声に出さずに吐き捨てる。

 けれど、次の瞬間、彼の顔から闘志が消えた。

 狼の背、暗闇の中から、いきなり別のうなり声が聞こえてきた。低い音は、二重、三重になって聞こえる。からみあって、空間を揺らす。やがて、黒い影がうごめいた。クレマンもエルフリーデも、青ざめてすくみあがった。

「ちょ、冗談……」

 少年の引きつった口から言葉がこぼれるが、それは何も生み出さなかった。灰色の狼が吠えると、影の先からもいくつかの声が聞こえる。彼らは一斉に、獲物めがけて飛びかかった。

 ほとんど死を覚悟して剣を構えたクレマンは、背後で空気が動いたことに気づき、顔をこわばらせた。

「馬鹿、おまえはそっから動くな!」

 前に出ようとしている少女を、鋭い声で止める。彼は見えていなかったが、エルフリーデは涙目で首を振っていた。

「でも!」

「でももしかしもかかしもあるか!――絶対動くな、おまえだけは守るから」

 クレマンは、ぴしゃりと言いきると、いびつな笑みを口に乗せる。こんなときにか、と自分自身に呆れる一方、なんだか清々しい気分になってもいた。

 エルフリーデは、唖然として、音にならない声で少年の名を呼ぶ。

 ちょうどそのとき、狼たちが一斉に飛び上がった。クレマンは、せめて一頭だけでも倒そうと剣をにぎりこむ。そして、異様に長い爪と剣が触れあいそうになったとき。上から、鋭い風切り音がした。


「かっこつけて死のうとすんな、馬鹿ー!!」


 甲高い怒声とともに投げつけられた『何か』は、先頭の狼の頭にぶつかると、甲高い音を立てて砕ける。透明な破片の先からあふれ出す白い粒を見てとって、クレマンは目をみはった。

「目えつぶれ!」

 エルフリーデへ叫ぶと同時、自分もかたく目を閉じる。

 白い光があふれ出し、瞼の裏を強烈に焼いた。キャンキャンと、狼たちの悲痛な鳴き声もする。光はしばらく地下室を煌々こうこうと照らしたあと、一気にしぼんで消えた。目の中に瞬く白い星にくらくらしながらも、クレマンは目を開く。最初はまっくらに見えたが、すぐに目が慣れて、あたりの状況がわかってきた。

 狼たちは、揃って崩れ落ち、鳴きながら足をばたつかせている。濁った硝子がらすの破片が、あちこちに散らばって、クレマンの足もとになぜか、赤子の拳ほどの黒い石が、ごろりと転がっていた。

「これ、方陣が刻んであるわ。大きな衝撃を加えると、強い光を出すようになってる」

 すぐ横から大きな感動を含んだ声がして、クレマンは振り返った。いつのまにか横に出てきたエルフリーデが、石を見て目を輝かせている。つられて、クレマンも石をのぞきこんだ。ごつごつした表面に花の文様にも似た図形が彫りこまれていた。これが方陣か、と、のんきな考えが、ぽっと浮かんだ。

「おもしろいでしょ、それ」

 得意気な声に顔を上げれば、いつの間にか二人のそばで、三つ編みの少女が、笑っていた。かなりの高さを飛び降りたであろう彼女は、あっけらかんとして立っている。クレマンは、なんといってよいかわからず、口を開けて固まってしまった。すぐあとにぐえっ、とも、おえっ、とも聞こえる奇声に意識を引き戻され、振り返ってみれば茶色い短髪の少年が腰をさすっているところだった。

「フェイ、そういうどんくさいところは変わらないよねー」

「うう、ごめん」

「まあ、なんか安心するからいいんだけど」

 涙目のフェイに、アニーが容赦のない言葉を投げつける。腕を組んでいる彼女を見上げた少年は、「どういう意味だよそれ……」と呟いたが、それ以上の反論はしなかった。二人をおどおどと見回したエルフリーデが、感謝の言葉を口にしたあと、石を拾い上げる。

「ねえアニー、これ、どうしたの?」

「あれ、探してるときに見つけたの」

 アニーが、あれ、と指さした先を見てみれば、いびつな穴からこの地下室にかけて、長い梯子が立てかけられている。あんなものをどうやって立てたんだこいつら、とクレマンは思ったが、なんとなく訊く気になれなかった。代わりに肩をすくめて、アニーをにらむ。にらんだが、結局、つり上げた目尻はすぐに力を失った。

「あー、なんだ、その、助かった」

 彼がまごつきながらそう言えば、アニーはきれいな青い瞳を見開いた。身構えたクレマンをよそに、彼女は珍しく余計なことを言わず、「どういたしましてー」と、屈託なく笑う。彼女の言葉を意外に思い、呆然としている少年をよそに、アニーは全員を見回した。

「さて。それじゃ、いったん上がろうか。狼たちが起きてきたら、よけいに怒りそうだし」

「そ、そうだね」

 フェイとエルフリーデが、そろってうなずいた。彼らはすぐに、梯子の方に向かおうとする。けれど――ずん、と響いた低音と、小さな震動に驚いて、動きを止めた。クレマンも飛び上がった。

 ずん、ずん。音と振動は、何度か続いた。すると、ちょうどクレマンの背後のあたりで、恐ろしい気配がふくれあがる。アニーたちが、彼の方を振り返り、頬をひきつらせた。

「あー、フェイくん」

「な、何。アニー」

 二人がそれぞれ、引きつった声を上げる。アニーは、むりやり、目と唇を笑みの形にした。

「私ね、上で地面が揺れたとき、『これ、何かに似てるなー』って思ったのよ」

「そうなの?」

「うん。で、今、何に似てると思ったのか、思い出した」

「……なに?」

 フェイが、白くなった顔を少女に向ける。彼女は、顔をひくつかせたままに、クレマンの後ろを指さす。

「――フェルツ遺跡の守護獣が、暴れてるときの音と揺れ」

 クレマンは、おそるおそる振り返り、そして後悔した。

 少女の平板な声にこたえるように、のっそりと立ち上がる影を、見てしまったのである。

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